第一部エピローグ 大好きな彼女



***



「どう、尾上おがみ。出来た?」

「まずまずって感じ。そっちは」

「俺もまあまあかな。あぁ、ここに来て共通テストの数学がボディーブローみたいに効いてくる……」

「いや、忘れようぜ、あの悪夢のことは」


 地獄の前期日程試験がやっと終わった。同級生の稲本いなもとと傷の舐め合いのような会話を交わしながら、俺が疲れ切った足取りで志望校の正門を出ると、そこには私服にダッフルコート姿の彼女がサプライズで待ち受けていた。


「やっほー、れんくん。試験お疲れさまっ」


 数歩先から手を振ってくるふじ……七瀬ななせの姿に、周りの受験生達がチラチラと好奇の視線を向けている。彼女の行動の唐突さにはもう慣れてきたが、外で会うたび俺まで注目されるのは正直未だに恥ずかしい。

 稲本にも如才なく「お疲れさま」と声を掛けてから、彼女は俺の前に歩み寄り、マスクの奥から黄色い声を弾ませた。


「やっと大手を振って遊べるねっ」

「いや、書籍化作業まだあるでしょ」

「もう。そこは素直に『そうだね』って言っとけばいいのっ」

「そうだね」


 告白から早くも二ヶ月以上。せっかく付き合い始めたと言っても、俺は受験勉強、彼女は初稿の執筆に忙殺されっぱなしで、まともにデートする時間など取れていなかった。

 それでも、今も原稿の直しで死ぬほど忙しいはずなのに、わざわざ試験会場まで労をねぎらいに来てくれた彼女の優しさが、たまらなく嬉しい。

 クリスマスにはチカも連れて、おばさん宅のホームパーティにお邪魔させてもらったし、バレンタインにも心がとろけるような出来事があったけど……まあ、そのあたりのエピソードは、俺と彼女の物語を綴った作品が本になることがあったら、特典SSにでも書こうかと思う。


「じゃあ、ジャマ者はこれで」


 俺の肩をポンと叩いて稲本が立ち去ろうとするので、「遠慮しなくていいって」と返すと、彼は思わせぶりに自分のスマホに視線を落として。


「いや、実は、俺も待ち合わせしてんだよね。……彼女と」


 その単語を発するときの気恥ずかしそうな声色は、明らかに三人称代名詞としてのそれではなかった。


「おっ!? 何それ、初耳なんだけど」

「実は、一昨日から」

「また聞かせろよー」


 ニヤけた顔で去っていく級友を、七瀬と一緒に笑って見送っていると。

 直後、それと入れ替わるように後ろから近付いて話しかけてきたのは、クラスの陽キャグループの女子二人だった。


「尾上ぃー、お疲れー」

「あれっ、七瀬ちゃんじゃん! どうしたの?」


 合否への不安などどこ吹く風といった感じで、陽キャ達はテンション高く俺達の前に出る。


「彼のお迎えに来たの」

「きゃーっ、やっば。ラブラブじゃん」

「尾上のくせに生意気だぞぉ、ウチらにも幸せ分けろよなー」


 七瀬と付き合い始めて一番の驚きは、俺のことなんか路傍の石くらいにしか思っていないと信じていた陽キャ達が、意外なほどあっさり俺達の交際に納得していたことだった。中には「えっ、まだ付き合ってなかったの?」なんて言ってきた女子までいたほどで、つくづく世間の目って恐ろしいものだなと思う。


「でも、これでダルい受験勉強からも解放されて、せいせいしたよねー」

「まだ受かったと決まった訳でもないのに……」

「お? ちゃんとウチらに突っ込めるようになったじゃん」

「……いや、別に、それほどでも」

「あー、悔しいなっ。卒業式後の打ち上げさえできたら、七瀬ちゃんを独り占めするにっくき尾上をみんなで揉みくちゃにしてやろーと思ってたのに」

「勘弁してくださいよ……」


 俺と女子達の会話をすぐそばで聞いて、当の七瀬はくすくすと可笑しそうに笑っている。

 来週には卒業式が控えているが、巷では新しい変異株が猛威を振るい始めており、打ち上げなんてとても許される雰囲気ではない。

 ……それについて、陽キャの集まりに巻き込まれなくてよかった、ではなく、少し残念に思ってしまっている自分がいることに俺は気付いていた。


「ウイルスの状況じょーきょーがマシになったら、なるはやでプチ同窓会のセッティングするからさ。二人もゼッタイ来てよー」

「わぁい、行く行くっ」


 クラスメイトから彼女と自分が二人セットで認識されている、そんなささやかな現実が、今の俺には恥ずかしくも嬉しかったりして。

 しかし、それ以上に――


「七瀬ちゃん、その頃には芥川賞作家でしょ!」

「……いや、私の書いてるものは、芥川賞とかそういうんじゃ……」

「またまたぁ、ご謙遜をー。イズミが死ぬとこ、マジでウチ泣いたからね」

「ラストのケントの方がヤバいっしょ。えっ、七瀬ちゃん、ケントってあれ、最後、生きてんの? 死んでんの?」

「それは、二巻をお楽しみにー」

「マジで!? 二巻、いつ出るの!? ソッコー買うしっ」


 エンタメと純文学の区別もわかってなさそうな彼女達が、それでも虹星ななせ彩波いろはの作品を手に取って楽しんでくれているのが、何より俺にも誇らしいのだった。


「じゃ、感染が収まったら連絡するからっ」

「尾上ぃ、その時までに七瀬ちゃんに捨てられんなよ?」

「善処するよ……」


 最後まで賑やかな調子で雑踏に交じっていく陽キャ達を見送り、はぁっと白い息を吐いて、俺は呟いた。


「感染が収まったら……か」


 日々のニュースを見る限り、世界が元に戻るのはまだまだ先のことらしい。このぶんだと、七瀬の夢――全国書店巡りの旅が実現できるのも、果たしていつのことになるか。

 と思って彼女の顔を見ると、その瞳には、いつものように明るい光が躍っていて。


「前向きに生きるしかないよ。闇を走り抜けた先には、きっと希望があるから」


 この美少女作家にそう言われたら、そんな気がしてくるから不思議だった。




***



***




 ――そして今、俺の前には、約二年ぶりに登録した小説サイトの投稿画面がある。


 卒業式も過ぎ、ヒヤヒヤものだった合格発表もなんとか桜を咲かせることができて。大学入学を前に、今日は俺のもう一つの新しい門出の日だ。

 この日に合わせて、彼女が初めて部屋に来てくれるというので、朝から家の隅々まで念入りに掃除しておいた。仕事に出かける母親には、「何やってんの?」なんて怪訝な目で見られてしまったけど。


「……で、なんでお前までいるんだよ」


 窓の外は夕暮れ。清潔なシーツをぴしりと敷いた俺のベッドには、長丈のジャンパースカートに薄紅のカーディガンを纏った七瀬と並んで、なぜか小生意気な後輩もちょこんと腰掛けていたりする。


「決まってるじゃないですかっ。サカリのついた犬が私のナナセさんに悪さしないようにですよっ」

「いや、お前のじゃないし……」


 デスクチェアに座った俺が肩をすくめると、マスク越しにふふっと笑う七瀬の横で、チカは彼女をかばうようなポーズを取って言ってきた。


「とにかく、ナナセさんのおばさんから監視役を仰せつかったんですからっ。卒業式は終わっても、三月末までは高校生なんですからねっ」

「はいはい」


 コイツがどこまで本気で俺を疑っているのか知らないが、誓って彼女とは告白の日以上の関係には進んでいないし、今日だって、監視役がいなくてもよこしまなことを企むつもりなんてなかった。七瀬の母親代わりのおばさんの言いつけなんだから、破れるわけがない。

 ……そのぶん、晴れて大学生になった暁には……なんて期待を口にするのは、死亡フラグになりそうだからやめておこう。


「ていうか、お前も早く彼氏くらい作れよ」

「このっ、ザコ犬が調子乗っちゃってぇ。いいんですっ、センパイの一個下なんだから、私にはまだ一年余裕があるんですっ」


 よくわからないモラトリアムを主張しながら、後輩は意地の悪い目で俺を見てくる。


「そっちこそ、ナナセさんを他の人に取られちゃわないように、さっさと一人前の男になることですよっ。大学に入ったら、賢くてお金も持ってるイケメンがいーっぱい寄ってくるんですからっ」

「ぐぬ……」


 確かに、日本を代表する名門私大の一角ともなれば、彼女と釣り合う相手はゴロゴロいるはずで……。今さらになって急に不安が頭をもたげてきた――かと思いきや。


「大丈夫だよチカちゃん、私、誰にも取られないから。ナナセちゃんアイには蓮くんしか見えてないからっ」


 一瞬でそれを吹き飛ばす一言に、頭がボンっと音を上げて爆発するような気がした。それはチカも同じようで。


「あの、真顔でノロケぶっこんでくるの勘弁してもらえませんか……。さすがの私も対処に困ります……」


 後輩の様子を笑いたいところだったが、部屋の鏡に映る俺自身の顔も真っ赤になっていて、とてもそんな余裕はなかった。


 ……それから、ひとしきり雑談して三人で笑い合ったところで、チカがふと壁の時計を指で示して言った。


「十八時まで、あと五分ですよー」


 おっと、と呟いて、俺はパソコンの画面に向き直る。背後から七瀬の甘い声が鼓膜をくすぐった。


「いよいよだねー。私達の物語が世に出るの」

「いや、まだ、世に出ると決まったわけじゃないけどね?」

「出るって。私の中では、もう続刊のタイトル案まで決まってるんだから」

「何それ」

「『華の美少女JD作家が、今日も俺を大好きと言ってくる』」

「……いや、それじゃ、ただのノロケじゃん……」


 楽しそうに微笑む彼女の姿に、美少女って何歳まで名乗れるんだっけ……なんて思いながら、俺は改めて画面に目を走らせた。

 そう、受験が終わったその夜から、自己採点も早々に、一心不乱に書き続けてきた復帰第一作。今日の十八時きっかりに合わせて、いよいよ俺はその第一話を小説サイトで公開する。

 もちろん、二日目以降は予約投稿にするけど、初日だけはしっかり自分の手で投稿したかった。……いや、断じて、それに立ち会ってほしいと言って彼女を家に呼ぶ口実なんかじゃなくて。


「……なんか、今さら緊張してきた」

「もう。百戦錬磨のアレン様が何言ってるの」

「百戦全敗の間違いなんだよなぁ……」


 さすがに百戦は大袈裟だけど、結果発表のたびに苦い思いを味わってきたのは事実だし。

 今参加しようとしているコンテストだって、二年前と比べて足切りラインも相当上がっているようだし、中間選考すら通るかどうか……。


「まあまあ、気負わずいこうよ。ダメだったら公募って道もあるよ?」

「いや……俺にはウェブのが性に合ってるけどさ……」


 俺が言うと、彼女は優しく笑って身を乗り出し、俺の手をぎゅっと握ってきた。


「大丈夫だよ。私の大好きなキミの作品なら、きっと大丈夫」


 恋人になって三ヶ月余りが経っても、その言葉には毎回ドキリとさせられる……が。


「そのさぁ、どっちとも取れる表現、わざとやってるでしょ……」

「はぐらかさず言ってほしいの?」


 あっ、誘導かっ、と思った時にはもう遅く。

 彼女はイタズラっぽい目で俺を見たかと思うと、ベッドから立ち上がって俺の耳元に口を寄せ、耳打ちの姿勢に似合わない声量を張り上げてきた。


「わたしはー、蓮くんがー、だーいーすーきー」

「わかったわかった、わかったからっ」

「ほら、好きって言われたら何て言うの?」

「チカが見てんじゃん……。……はい、あの、俺も七瀬のことが……大好きです」

「よろしい」


 自らの腰に手を当て、注文の多い俺の恋人は満足そうに破顔一笑する。

 チカが頭上から蒸気を吹き出しつつ、「これ、ヘタレ犬じゃなくてナナセさんの方を監視してるべきですね……」とか何とか言っていたが、それに関しては全く同意見だ。きっと、これから先も、俺は彼女に主導権を握られ続けるんだろう。


「あっ、もう六時ですよっ!」

「やばっ」


 パソコンの時計はちょうど十八時。俺は慌ててマウスを引き掴み、公開ボタンにカーソルを合わせる。……その手に、七瀬の柔らかな手がそっと重ねられた。

 新たな戦いがここから始まる。緊張はするけど、不思議と不安はなかった。

 本気で打ち込んだこの作品が、たとえ受賞を逃したとしても――

 敗れた後でどうするか。その答えも、彼女が身をもって教えてくれたから。


「じゃあ、公開するよ」

「ゴーですっ!」

「……蓮くんと私の夢が、叶いますように」


 頼もしい後輩と、大好きな彼女に見守られ、俺はボタンをクリックした。



(第一部 完)

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