第30話 ただひとつの条件(2)

 ……それから、数秒ほどの沈黙を置いて。

 俺の言葉の余韻を噛み締めるように、彼女はゆっくり静かに頷いたかと思うと、ふいにノーマスクの口元をほころばせ、顔の横に人差し指を立てるお馴染みの仕草とともに答えた。


「いいでしょう。ただし条件があります」


 何かを企んでいるような得意げな顔が、また、たまらなく可愛くて。

 緊張と高揚と、色々な思いが胸に押し寄せて止まらなくなる。

 ……が、それでもやっぱり、俺がかろうじて喉の奥から引っ張り出せたのは、突っ込みモードの一言なのだった。


「この期に及んで条件とか出すんだ……」


 ほとんどそっちから告らせたようなものじゃないか、と頭の中でも突っ込んでいると、今にも緊張で崩れ落ちそうだった足に少しだけ力が戻った気がした。

 夕映えの中、初めて会った日のように、彼女は軽く両腕を広げて華奢な制服姿を見せつけてくる。


「こんな美少女がお付き合いしてあげるんだからねっ。厳しいよー、私の条件は」

「……なに。龍の首のたまとか、火鼠ひねずみ皮衣かわごろもとか言われても困るけど」


 でも、自分と釣り合う男になれ、なんて条件だったら、それより難しいかもしれないな……なんて思っていると。

 一転、星の瞳に真剣な光を宿らせて、彼女は優しい声で告げた。


「尾上くんが、またちゃんと小説を書いてくれること。もう一度、本気でプロを目指してくれること」


 温かく胸を包み込むようなその言葉に、ほうっと緊張が弛緩していく。


「なんだ……そんなことでいいなら」


 ためらう気持ちは微塵も起こらなかった。……いい加減、紅狼くろうアレンも年貢の納め時だろう。


「書くよ、今日からでも。キミのためなら、いくらでも書く」

「わぁいっ。あ、でも、今日からはダメだよ。受験生なんだから」


 出鼻をくじかれ、ちぇっ、と俺が口を尖らせると、彼女は心の底から楽しそうに笑って――そして。


「じゃあ……これから、よろしくお願いします」


 折り目正しいお辞儀で、新たな関係の成立を告げてきた。


「は、はいっ、よ、よろしくお願いします……」


 つられて頭を下げてから、再び視線を上げれば、そこには彼女のあざといまでの笑顔がある。


「ねぇねぇ、れんくん」

「いきなり名前っ!?」

「ほんとの恋人になったのに、いつまでも『尾上くん』じゃよそよそしいでしょ? それとも、お望みならアレンにしよっかー」

「いや、それは勘弁して……」


 付き合い始めて数秒で手玉に取られている……。というか、よく考えたら、告白した方が相手にイニシアチブを握られてしまうなんて、フィクションでしか恋愛を知らない俺でも当たり前に知っている法則じゃないか……。


「ほら、蓮くんっ、彼女が呼んでるんだよ? なんて返事するの?」

「……何ですか、ナナセ先生」

「それはペンネームの名字でしょ」

「……七瀬ななせ、さん」


 呟くような声で俺が名前を呼ぶと、彼女は「よろしい」と嬉しそうに頷いて、恋人としての要求第一号を口にした。


「せっかくだからさ、復帰第一作は、キミと私のお話にしようよ。小説サイトで出会った運命の二人が、リアルで結ばれるお話っ」

「むすばっ……!」


 思わず声を裏返らせれば、視界には、俺を弄びたい気持ち全開の彼女の流し目。当たり前だけど、彼女の一言一言に動揺させられるのは、関係性がどうなろうと変わらないんだな……。

 ……そんなことより、彼女と俺の話を作品にしろって? こんな、チカですら完全に信じているかは怪しい荒唐無稽な話を?


「いやいやいや……。こんな話、事実は小説より奇なりの典型じゃん。隠キャの妄想としか思われないって」

「今時のラブコメなんてそんなものでしょ。美少女が謎に主人公にだけ優しくしてくるとか、いかにも流行りの筋書きじゃない?」

「自分で言うんだ……」

「それにさっ」


 夕闇の迫る窓辺で、彼女は謎にくるっとターンして僅かにスカートを浮き上がらせ、俺をドキリとさせた上で言ってきた。


「リハビリにはもってこいだよ。リアルに体験したドキドキを作品に写し取ればいいだけなんだから、今の蓮くんには最適の題材でしょ?」


 イタズラめいた上目遣いを前に、もとより反論の余地なんてあるはずもない。


「……かなわねーなぁ、ほんと」


 彼女の肩越しに、夜のとばりが下りてゆく外を見やると、この美少女と出会ってからの波乱の日々が思い出された。

 ……どう考えてもメチャクチャなストーリーだ。もうちょっと真面目にプロット考えた方がいいんじゃないか、と思うが、何しろプロ作家様のお墨付きである。ワナビの俺には文句も言えない。

 それに――

 俺の前でにこにこと微笑む彼女が、神絵師の手で萌え絵になって表紙を飾るところを思い浮かべると、正直、だいぶアリな気がした。


「じゃあ、タイトルは……」


 昨今のラブコメの潮流を思い出しつつ、俺は即興で長文タイトルを捻り出す。


「『話題の美少女JK作家が、なぜか俺の小説を大好きと言ってくる』……とか?」


 若干の照れくささを覚えながら言うと、彼女は喜びの色を顔一杯に溢れさせて。


「いいじゃん。でも、一つだけ推敲っ」

「え?」


 刹那、星が降るように、すいっと華奢な体が目の前に近付いていた。


「『の小説』の部分、いらないよ?」


 その笑顔で俺を金縛りにするが早いか、すっと彼女は爪先立ちになって――

 俺の背中に腕を回し、勢いのままに唇を重ねてきた。


「――!」


 避けることも、振り払うこともできるはずがなかった。

 天に昇るような浮遊感のなか、ぎこちなく彼女の体を抱き返し、甘い時間に身を委ねる。

 初めて知る柔らかな感触と、ほのかなミルクティーの味と、たえず鼻腔をくすぐるシトラスの匂いと。

 網膜の裏に焼き付いた笑顔と、耳奥に残る直前の声のリフレインとで――

 五感の全てを彼女に塗り潰され、真っ白になった意識の片隅で、俺の物書きの部分だけが微かに思考を巡らせていた。


 ……ああ、このためにマスクを外させる必要があって、だから飲み物を買わせに――。


 美少女作家の巧みな伏線に今さら気付いて、俺は、やっぱり彼女には永遠にかなわないと悟った。

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