第25話 緊張のサイン会

「あー……」


 四人ばかりの陽キャ女子達を前に、俺の思考は硬直し、意味のある言葉は出てこなかった。同じく立ち止まって振り返っているチカの姿や、俺達を避けるように行き交う客達の姿が、意識を上滑りしていく。

 ひとまず、訊かれたことに答えなければという判断だけは浮かんできたので、俺は四人の誰にも目の焦点を合わせないまま、「まぁ」と一声発して頷いた。

 すると、彼女達は気を悪くした様子もなく、意外なほど明るい声のまま言葉を続けてくる。


「そっかぁ、そういえば七瀬ななせちゃんと知り合いだったよね」

「ただの知り合いじゃないっしょ。なんか、ソーサク仲間?とかなんでしょ?」

「えっ、ひょっとして、実は付き合ってるとかぁ……?」


 名前もうろ覚えの女子の一人に、下から突き上げるような視線を向けられ、俺は咄嗟に「いやいやいやいや!」と腕を振る。


「ななな、ないから! 皆さんが想像してるようなことは!」


 俺の様子に一瞬ポカンとしてから、彼女達が発したのは意外にも笑い声だった。


「ちょっ、尾上おがみ、オモシロすぎなんだけど」

「なに、『皆さん』って、よそよそしっ。他人かよ」

「こっそり七瀬ちゃんに会いに来たら、ウチらに見られてキマゼットって感じなん?」


 しかもそれは、あざけるような笑いではなく、どうやら俺の反応を本気で面白がっている声色だった。……いや、キマゼットって何?

 チカはといえば、彼女達に軽く目礼して様子を見ているだけ。知らない上級生なので遠慮しているんだろうか。そんなことより助けてほしいんだけど……。


「ウチら、ちょうど今サインもらってきたんだけどさ」

「あっ、今日の七瀬ちゃん、めっちゃカワイイからね。見て驚くなよー」

「いや、七瀬ちゃんはいつでもカワイイっしょ」

「それなー」


 そんなことを口々に言い合いながら、彼女達は真新しい『オルフェウスの楽園』の扉の部分を自慢げに見せびらかしてくる。流れるような筆致で綴られた虹星ななせ彩波いろはのサイン……同じものを手に書いてもらったことがあるなんて、とても言えない。


「ってか、七瀬ちゃんの本って読んだことあったりする感じ?」

「……まぁ」


 それどころか新作の案出しにまで協力してるんだけど、それも言うわけにはいかない。

 いや、そんなことより……。

 思いのほか、陽キャ達の当たりが冷たくないことに、先程から呆気にとられてしまっている俺がいた。

 まあ、向こうのコミュりょくの高さがそうさせるのであって、俺が彼女達に悪しからず思われているなんてことは、きっとないんだろうけど……。


「ていうかウチら、こういうラノベ?って初めて買ったんだけど」

「尾上、前からこういうの好きなんじゃん?」

「まぁ……」


 さっきから俺は「まぁ」しか言っていないが、それでも話を進めてくるのが陽キャの恐ろしさなんだろう。


「そりゃ気が合うよね。ワンチャンあんじゃない?」

「人間、当たって砕けろだよ」

「まあ頑張ってー」


 何が「まあ頑張って」なのか知らないが、彼女達は最後まで明るいテンションのまま俺とチカに手を振り、きゃあきゃあと笑い合いながら店を出ていった。

 嵐が去ったような店内で、マスク越しにニマニマと笑いを浮かべながらチカが寄ってくる。


「よかったじゃないですか。少なくとも人間扱いされてますよっ」

「……お前より待遇いいじゃん。見習えよ」

「はぁー、その自然な会話がなんであのヒト達相手にできないんですかねっ、このナメクジは」

「いや、せめて犬扱いしといて!?」


 慣れた相手だと別人のように饒舌になる自分に、自分でもどこか呆れながら、俺はふと、先日のカラオケの誘いのときに美少女作家が言った一言を思い返していた。


 ――自分で思ってるほど、世界は自分を拒絶してないものだよ。


「……そういうもんかね」

「何ですか、一人で悟ったような顔しちゃって。きんもーっ」

「ウルサイ。ほら、行くぞ」


 ずいっとチカの前に出て、俺はラノベ売り場を求めて歩き始める。

 思わぬ前哨戦に心を乱されてしまったが、ここからが今日の本番だ。サイン会に参加するには、先に著書を購入してレジで整理券をもらい、それから列に並ぶのだということは、事前にネットで調べてあった。

 サイン会が行われているらしき店の奥のスペースには、多くの人だかりが出来ていて、店員さんが忙しなく列の案内をしている。

 そして、ラノベ売り場の最も目立つ棚には、「期待の新星・女子高生作家 虹星ななせ彩波いろはサイン会 本日開催!」のポップとともに、『オルフェウスの楽園』が誇らしく平積みされていた。さすがに彼女の顔写真は出ていないが、俺達のすぐ目の前でも、ポップの文字と店の奥の人だかりをチラチラと見て、本を手に取っていく客がいた。


「はぇー、晴れ舞台ですねぇ。私も鼻が高いですよっ」


 見慣れたその本を新たに一冊取り上げて、チカがしみじみといった声で言う。


「なんでお前が誇らしげなんだよ。いち読者だろ」

「だって、将来の親戚ですしぃ?」

「おまっ、人前でそんな……!」


 幸い誰にも聞かれてはいないようだけど……。本人と対面する前に無駄に緊張させるなよ、という思いで後輩を小突くふりしながら、俺も平積みの一冊を手に取った。そういえば、商業作家の本を自分で買うのは随分久しぶりだっけ……。

 後輩と揃ってレジに並び、各々の会計を済ませて整理券を受け取る。人の流れに沿って店の奥に進むと、「撮影禁止」のプラカードを掲げた店員さんが、俺達を列の最後尾に案内してくれた。

 列が進むにつれて、青いクロスのかかった机でファンと談笑する美少女作家の姿が、並んだ客達の肩越しにチラチラと見えてくる。

 彼女はもちろん不織布マスク着用の上、透明のフェイスシールドまで付けているようだったが、それでも隠しきれない笑顔の可憐さはここからでもよく見えた。例の童貞殺しコーデとはまた異なる清楚な上品さをたたえた、襟付きの黒ワンピースらしき装いも。

 しかも、作家としてのキャラ付けなのか、普通にオシャレの範疇なのか、彼女の頭には臙脂えんじ色のベレー帽がちょこんと乗っかっている。……可愛すぎでは?

 彼女の傍らにはスーツ姿の真面目そうな男性が控えている。あの人がレギオン文庫の担当編集だろうか。


「……なんか、今さら緊張してきたんだけど」


 と、口に出して言わなければ耐えられないくらい、俺は頭の上から足の先まで緊張の波に飲まれてしまっていた。おかしいな、この会場の誰より俺は彼女を知っているはずなのに……。

 本をつまんで保持したまま、また無意識に手のひらに「人」の字を書いていると、チカが後ろから背中をつついて俺を振り向かせ、自分の手のひらの中心をもう片手の親指で押す仕草を見せつけながら言ってきた。


「わざわざ『人』って書かなくても、こうやって真ん中を指で押さえてればいいんですよ」

「そうなの?」

「そこが緊張緩和のツボってことなんで」


 しかし、サインの順番はもうすぐそこまで迫っている。今さら言われても遅い。


「ホラ、順番ですよ、行ってこーい」


 チカにぽーんと背中を押され、案内役の店員さんにいざなわれて、俺はいよいよ彼女の前に立った。前の客を送り出したばかりの美少女作家の目に、今初めて俺に気付いたかのような光がぱぁっと灯る。


「わぁ、尾上くんっ。来てくれて嬉しいっ」

「……そんな、数年ぶりの再会とかじゃないんだから」


 極限の緊張の中、照れ隠しの突っ込みモードを引っ張り出して言うと、彼女はくすっと笑って俺の手元を指差してきた。


「なに? そのポーズ」


 言われて初めて、手のひらの中心を指で押さえっぱなしだったことに気付く。いや、なんでも、と誤魔化して、俺は指でつまんでいた本をそっと卓上に差し出した。

 白い指で丁寧に本の表紙をめくり、サインペンを構えて一秒。彼女はイタズラっぽい上目遣いで俺を見つめて、


「……また手のほうがいい?」


 と、衆目の中で実現できるはずもないプランを、小声でさらっと差し込んでくるのだった。


「いやいや、本にでお願いします……」


 噴火しそうな顔面を手で扇いで、俺はかろうじて答える。彼女は「はぁい」と可愛く首を傾けて、本の扉にさらさらとサインを綴っていった。

 その下に「尾上れんくんへ」の文字とハートマークを添えられ、俺がドキリとしたところへ、彼女はふふっと笑って本を差し出してくる。


「いつも応援ありがとっ」

「はっ、はいっ、こちらこそ……」


 何が「こちらこそ」なんだっけ……と混乱した頭で考えていると、まだ時間があったのか、彼女のほうから話を振ってきた。


「そうだ、ミワちゃん達と会った?」

「へっ?」


 さっきの陽キャ女子達のことを言っているのは、なんとなく雰囲気でわかったので、俺は「あぁ、うん」と生返事で頷く。


「なんか……喋ってみたら意外と友好的っていうか」

「だーからー、そう言ってるじゃん。キミも前はそうだったんじゃないの?」

「いや、ネットは別だし……」


 彼女はなぜか嬉しそうにニコニコしている。……そういえば、俺の小説サイト時代のペンネームをどこで調べたのかの答え合わせがまだだったっけ……。

 そのことを話題に出そうかと俺が逡巡したところで、店員さんに時間の合図でもされたのか、彼女はチカや他の客達が待つ列のほうへ少し目をやって、


「じゃあ、また後でねっ。来てくれてありがと」


 と、ぱちっと俺の目を見てウインクしてきた。……いや本当、チートすぎない?

 彼女の笑顔と「また後で」という響きの余韻を噛み締めたまま、俺が少し離れたところでサインを見て感慨にふけっていると、ややあって、自分の順番を終えたらしいチカが、弾むような足取りでそばに寄ってきた。


「また恍惚としちゃってー。えへへー、私もハート増し増しにしてもらいましたけどねっ」


 彼女が見せつけてきたサインの下には、「宇佐美うさみチカちゃん 二冊目ありがとう」の言葉に続いて、ハートマークが五つも六つも並んでいる。あれっ、こっちの方がサービスいいじゃん……。


「ずっる。ハート六つはないだろ」

「愛の差ですかねー。レンレンは所詮、ファン歴一ヶ月程度のニワカですもんねー」

「……いや、お前も、っていうか全員大差ないじゃん」


 まあ、自分からファンになっていたコイツと、本人に直接渡されて初めて作品を知った俺とでは、埋めがたい差があるのかもしれないけど。


「たった一歳の年の差でセンパイ呼びを強要してくる人に言われたくないなぁ」

「俺がいつ強要したよ!?」


 そんな突っ込みの応酬をしながら、少しずつまばらになっていく人だかりを眺め、そういえば受賞前の彼女は一体どんな活動をしていたんだろう……と俺が思った、その直後。

 招かれざる客達が、サイン会の列に現れたのだった。

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