2. いきなりのサイン
第7話 俺だけの秘密
翌朝、俺はいつになく眠い目をこすって通学の電車に揺られていた。寝不足の理由は言うまでもなく、彼女の……
その感想は、これまた言うまでもなく。
悔しいが……メチャクチャに面白く、引き込まれる内容だったのは認めざるを得ない。
(かなわねー……どうやって、俺と同い年であんな……)
印象に残った一節一節を思い返すたび、吊り革を握る手に妙な汗がにじむ。
プロの作品なんて、もう一年以上もまともに読んでいなかったけど……あの『オルフェウスの楽園』という作品の出来は、俺が過去に読んできたライトノベルの平均値を遥かに超えているように思えた。
歴史の影で幾度となく繰り広げられてきた、新種の人類と既存の社会との戦い。疫病の流行に乗じて暗躍しては駆逐されてきた新人類達が、この未曾有のウイルス禍の中で一大攻勢に打って出るという、読者の「今」とリンクしたストーリー。そして、自らも新人類として覚醒しながらも、目の前の人々を守るために同族に反旗をひるがえす主人公……。
そんなワクワクする設定に加えて、キャラクター達の生き生きとした躍動ぶりも、巧みな伏線を散りばめたシナリオの工夫も。そして何より、豊かな語彙で綴られる文章表現の美しさも……とても俺なんかが口を出せるレベルじゃなかった。
読書家のチカが彼女を天才と評していたのもよくわかる。高校生であんなクオリティの作品を書けるやつなんて、リアルでもネットでも他に見たことがない。
悔しいが、悔しいが、悔しいが――
(そんな子が、なんで俺の作品なんか……)
何よりわからないのは、その彼女が俺なんかの作品を読みたがり、あまつさえ手放しで「大好き」なんて言ってきたことだった。
……と、昨夜の彼女の声を思い出して、顔がカッと熱くなるのを感じる。思わず一人で首を横に振っていると、隣で吊り革を握るサラリーマンが怪訝そうな目を向けてきた。
気恥ずかしさに顔をうつむけ、俺は息苦しいマスクの中でふうっと呼吸を整える。
才能の差を見せつけられて心がえぐられるのも確かだったし、俺の作品への謎のベタ褒めにも混乱するけど……それより何より、あんな美少女とこれからも親しく話せるかも、という期待に胸が高鳴るのは抑えられない。俺って自分で思っていたより単純な人間だったんだろうか。
でも、少しだけ気になるのは――
あの作品、どうも、どこかで似たような設定を見たことがある気がするんだよな……。それも、紙の本じゃなくウェブで……。
もちろん、あの内容そのままに見覚えがあるわけじゃないし、俺が小説サイトを退会したのはちょうど新型ウイルスが世界を揺るがし始めた頃だったのだから、疫禍の時代を舞台にしたあの話を読んだことがあるはずないけど。
まあ、俺だって何百作、何千作のウェブ小説に触れてきたんだから、近い設定の一つや二つ、どこかで見かけていてもおかしくないか?
――そんな俺の引っ掛かりは、電車を降りて学校に着くまでの間には、今日も彼女に会えるという期待と緊張でどこかに吹き飛ばされていた。
***
だけど、実際問題、俺みたいな陰キャが教室で彼女と話していいものだろうか?
俺みたいなボッチと親しくしている疑惑が浮上したら、校内での彼女のイメージにも影響するだろうし。彼女もそれはわかっていて、皆の目のあるところでは俺を無視してくるかもしれない。
どうするべきか。教室で顔を合わせたら俺から挨拶してもいいんだろうか――
なんて、そんなことを考えながら廊下を歩いていると、俺達のクラスの少し手前で、ガヤガヤと集まって話している十数人の集団が目に入った。ふと見れば、その中心にいたのは、誰あろう藤谷さんに他ならなかった。
あっ、と俺が息を呑んだ瞬間、まるで俺が通りがかるのを知っていたかのように、彼女が取り巻きの中からすいっとこちらに視線を向けてくる。
「おはよう、
鈴のように響く彼女の声。それだけのことで、俺の心臓は口から飛び出しそうなほど跳ね上がり、足と言葉は硬直する。
「っ……オ、オハヨウ」
裏返った声で挨拶を返すと、彼女はマスク越しににこっと微笑んできたように見えた。
やっぱり、昨日の出来事は夢じゃなかったのか――今さらそんな実感が湧いてくるのを感じながら、彼女を囲む陽キャ達の手前、俺は努めて何事もないようにその場を通りすぎる。彼女もそれ以上俺に何か声を掛けてくることはなかった。
背後から「藤谷さん、尾上と知り合いだった?」と女子の控えめな声が聞こえる。彼女が何と答えたのかは、思わず早足になってしまった俺の耳にはもう届かなかった。
歩く勢いで顔の熱さを冷まし、誰にも緊張と興奮を悟られないようにしながら、いつものように後ろの扉から教室に入る。
最後尾の定席にスクールバッグを下ろしたところで、クラスでの数少ない話し相手である
黒縁メガネの陰キャ仲間の言葉に、俺はドキリとしながらも、平静を装って「ほんとな」と適当な相槌を返す。マスクのおかげでポーカーフェイスを悟られないのは、ウイルスさまさまかもしれない。
「まあ、俺らには遠い世界の話だよな。彼氏とか当然いるんだろうし」
声を抑えた稲本の一言。いないと直々に聞かされた、なんて言えるはずもなく、俺はまた「それな」と手短に応じるだけ。
「尾上さ、それこそ、ラノベ好きなら思い切って声かけてみたら? 『先生の作品、前から好きでした』とか言ってさ」
稲本は俺のことを普通の読書家だと思っている。それにしたって、何の気なしに発せられたはずのそのネタ振りが、今の俺には絶妙にタチの悪いジョークとして機能していて、俺は小さく失笑してしまった。
「デビューしたての相手に『前から』も何もないだろ」
「まあ、そっか。大体、ペンネームも知らないしな」
「……それな」
そうか、この教室で、藤谷さんが
それを思い出した瞬間、彼女と大事な秘密を共有しているように思えて、また顔が熱くなるのを隠すのに俺は必死だった。
***
結局、その日も休み時間のたびに彼女は陽キャ達に取り囲まれていたが、その輪に入ろうとしない俺にわざわざ話しかけてくることはなく。
それでも、教室の中ほどに席を占める彼女が、授業が終わって席を立つ際などに、周りに気付かれないようにさりげなく俺のほうを見ては、視線に笑みを含ませてくるのが、たまらなく嬉しかった。
そして、六限の授業が終わり、掃除当番の生徒達が気だるそうに掃除の準備をする中――。
彼女は今日も文芸部の部室に来るのだろうか、なんて淡い期待を抱きつつ、スマホを眺めるふりしながら何となく彼女の周囲の様子をうかがっていた俺の耳に、陽キャ達のこんな言葉が聴こえてきた。
「藤谷さん、今日この後ってヒマ?」
「皆で七瀬ちゃんの歓迎会したいなって。カラオケとか好き?」
ウイルス禍なんてどこ吹く風という感じで、ナチュラルなハイテンションで彼女を誘う男女の陽キャ達の声。もちろん、彼らの言う「皆」の中には、俺みたいなボッチ組は含まれていないのだ。
いつの間にか、陰キャ仲間の稲本も、俺のそばに来て彼らの様子を見やっていた。「行かないでほしいよな」と、小さな声で彼が言う。俺は本日三度目の「それな」で返した。
別に、昨日ちょっと話したくらいで、藤谷さんが俺のものになったなんて自惚れるつもりはないけど……それでも、ろくに小説なんて読みそうにもない陽キャ連中に揉みくちゃにされるよりは、俺と部室で小説の話でもしててほしいな、なんて思うのはダメだろうか。
いやいや、何考えてるんだ俺は、彼氏彼女になったわけでもないのに……。
と、俺が稲本に悟られないように小さく首を横に振ったところで。
「ゴメンね、今日もこの後は書店さん回りしなきゃいけないの。カラオケはまた今度にさせてっ」
顔の前で両手を合わせ、陽キャ達に向かって可愛く謝る彼女の横顔が、俺の目にハッキリ映った。
「……グッジョブじゃん」
とは稲本の声。俺も、自分が何か得したわけでもないのに、思わずグッと拳を握らずにはいられなかった。
コミュ
「ていうか、作家さんってホント忙しいんだね!」
「どこの本屋さん行くのー?」
そんな皆の声を、「それはシークレットで……」と気恥ずかしそうな声でかわし、藤谷さんはよいしょっとスクールバッグを肩に掛けていた。
じゃあ、今日は文芸部には来ないってことか――その小さなガッカリ感よりも、彼女が陽キャ達と遊びに行かなかった安堵の方が、なぜか大きい。
皆に囲まれ、俺の方を振り向くこともないまま、彼女の華奢な背中が教室を出ていく。俺が稲本と顔を見合わせ、軽く親指を立てあったとき、ブレザーのポケットの中で微かにスマホが振動するのを感じた。
じゃあ俺も部活行くわ、と言い残して去っていく稲本を見送り、はやる気持ちを抑えて見たラインの画面には、
『今日は秋葉原の書店さんを巡るのだ。17時くらいに
という、「Nanase」こと彼女からの手短なメッセージ。……マジで!?
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