第5話 嘘松みたいな話

「私、今っ、あのヒトとそこの廊下ですれ違って、あっちから挨拶されたんですよっ。『ひょっとしてあなたが文芸部の後輩ちゃん?』って。いやいや、ビックリしましたね、だってあのヒト、今日一日で学校じゅうの有名人ですよ!? しばらく固まって息もできなかったですよ、私っ」


 パイプ椅子にスクールバッグを放り出すが早いか、チカはずいずいと俺に歩み寄り、泡を食ったような勢いで並べ立ててくる。

 マスク越しにも唾が飛んできそうで、俺は思わず顔をそむけたが、彼女はいつもの如くお構いなしだった。


「そしたら、あのヒト、文芸部の部室でセンパイと話してきたところだって言うじゃないですかっ。なんで商業作家様がこんな掃き溜めにわざわざ挨拶に来るんですかっ!? センパイ、一体あのヒトとどーゆー関係なんです!?」

「落ち着けって。そんなの俺が知りたいわ」


 下から食ってかかってくる栗色のショートヘアを、スマホと本を持った両手で触れずに押しとどめ、俺は思わず嘆息した。

 距離の詰め方はあの美少女作家様も同じようなものなのに、どうしてこんなに佇まいに差があるかな……。


「……ただウチのクラスに転校してきたってだけで、俺とは全然口も利いてないのに、いきなり俺を訪ねてここに来たんだぜ。訳わかんないのはこっちだって」


 俺が言うと、チカは露骨に眉をひそめて体を引き、「えぇー?」と疑い百パーセントのジト目を向けてきた。


「センパイを訪ねてぇ……!? それは流石に嘘松うそまつくさいなー、ただ文芸部があるって知って覗きに来ただけじゃないんですかぁ? こんな陰キャと話す羽目になるなんて知らないで。あーあー、可哀想ぉー、美少女作家様の貴重なお時間をムダにさせましたねっ!」

「お前、もうちょっと先輩を立てるとかないの?」


 コイツのディスりはいつものことなので、軽く流しておくが……。

 するとチカは、何かを思い出したような目になって、「んん?」と一人で首を捻りはじめる。


「でも、だとしたらヘンだなぁ。あのヒト、なんかめっちゃゴキゲンだったんですよ。センパイなんかと会話した後なのに、なんでですかね……?」

「知らないって。クスリでもやってんじゃないの。あと息をするように先輩をディスるな」

「いまどき長幼の序なんて古いですよぉ、私とレンレンの仲じゃないですかぁ」

「その呼び方はもっとやめろ! ……じゃなくて、なな……藤谷ふじたにさんが何しに来たのかって話だろ」


 あの謎めいた美少女が、部室を出てからもご機嫌だったという証言には、ちょっとドキっとしないでもないけど……。

 と、俺が彼女のペンネームを言いかけたのを目ざとく捉えて、チカが変な流し目を向けてきた。


「おやおや? いま何か、女子のファーストネームのようなものを口にしかけましたか? えっ、ひょっとして、もうそういう関係なんです? いやいや、流石にそれは天地がひっくり返ってもありえないか……あの美人さんと、この負け犬じゃねぇ……」

「お前、今さらっと親戚を負け犬呼ばわりした?」

「あれだけやって一作も書籍化できなかった負け犬でしょ。ざぁこ、ざぁこ、よわよわワナビ~」

「悪趣味なメスガキ口調はやめろって」


 うざったい指差し攻撃を片手で遮り、俺は話題の高校生作家の著書を後輩の前に突き出して言った。


虹星ななせってのは、ほら、あの子のペンネームだよ」

「えっ!? うぇうぇっ!? あ、あのヒト、虹星ななせ彩波いろはなんですか!? ウッソぉ!?」


 がしっと俺の手から本を引き掴み、チカが素っ頓狂な声を出す。


「高校生とは聞いてましたけどっ、あのヒトが!? ホントに虹星彩波って言ったんですか!?」

「言ったけど、なに、そんな凄い作者なの」

「凄いなんてもんじゃないですよ! 高校生でこれ書いたんですよ!? 控えめに言って天才ですよ天っ才!」


 せっかくの新品をバンバン叩きながら彼女は熱弁を振るうが、内容を知らない俺には何とも反応しようがない。そりゃまあ、草薙くさなぎ出版から世に出てる以上、凡作ってことはないだろうけど……。


「いや、その『これ』を俺は読んでないし」

「すぐ読むべきですよ、何やってるんですか!? ていうかセンパイ、プロの作品は悔しくて見れないとか、意味不明なこじらせはいい加減卒業しましょうよ。そんなこと言ってちゃ、いつまで経ってもクソザコ敗残兵のままですよ!?」


 片手で保持した本をイエローカードのようにビシビシと俺に突きつけ、後輩は幾度となく聞いた進言を鋭くぶつけてくる。


「……ウルサイなあ、俺だってわかってんの、そんなことは。それよりこの作品がどう凄いのか教えてくれよ。読んだんだろ?」

「あっ、センパイ、私の説明だけでこの作品を知ったフリしようとしてますね!? ダメですよそんなの、ちゃんと自分の五感で作品を読み解いて堪能しなきゃ作者に失礼でしょ!?」

「嗅覚や味覚でどう作品を読み解くんだよ」

「あのヒトの残り香を思い出しながら、手汗でも残ってると信じて表紙をぺろぺろしてればいいじゃないですかっ」

「いつもながら発想がヤベェなお前!」


 親戚の顔が見てみたいわ、と面白くもないジョークを脳裏に浮かべたところで、問題の本がぐいっと俺の手元に押し付けられた。


「早く読むんですよっ、ホラホラ、今すぐ!」

「……はぁ」


 手中に突き返された本に視線を落とし、俺は改めてその表紙絵とタイトルを眺めた。


「オルフェウスの楽園、ねえ……」


 何度見ても、「意識高い系」ではなく本当に意識の高い公募勢が書きそうなタイトル。ていうか、オルフェウスって何だっけ、ヒーロー物に出てくる怪人だっけ?


「……まあ、その内読むわ。その内な」

「その内ぃ!?」


 チカがショートヘアを振り乱して俺ににじり寄ったところで、俺のもう片方の手のスマホから、ぴこぴこ、とメッセージの着信音。


「あれ、センパイにラインしてくる人なんて私以外にいるんですかぁ? まーさかぁ、虹星先生だったりしてー」

「あー……」


 変なところでカンの鋭いやつ。ゲームのためにサイレントモードを切っていたのが仇になったか……。

 やむなくチカの目の前で画面を開くと、その読み通り、「Nanase」こと藤谷さんからの初めてのメッセージがそこに踊っていた。

 可愛いアニメキャラがお辞儀しているスタンプに、『さっきはありがとね♪』の文字。そして、Gmailのアドレスに続いて、『尾上おがみくんの名作、楽しみにしてるね』という言葉に、キラキラと星の瞬く絵文字……。


「あれあれ? センパイ、なんですかこれっ、私の虹星先生にセンパイのクソザコ落選作なんかを送りつけるつもりなんですかぁ!?」

「いや、言い方。ていうか、いつあの子がお前のものになったんだよ」

「ハッ、まさか、この学校に転校してきた限りは俺のほうが物書きの先輩なんだからな、とかなんとか言って、恐れ多くもプロの先生にマウントとって『読めハラ』仕掛けたんですか!? そんなことしてて人生虚しくなりません!?」

「お前の中の俺、どんな身の程知らずなんだよ。……いや、あの子のほうから謎に言ってきたんだって。俺の作品読みたいって」

「またまたぁ、嘘松も大概にしないとネットで炎上しますよ?」

「俺もよっぽどウソだと思いたいけどさあ……」


 はぁ、と大きく溜息をついて、俺はラインのアイコンの中の美少女と目を合わせる。


「……どうなってるんだろうな、本当」


 俺が本気で当惑していることは流石にチカも察したようで、それ以上からかいの言葉を連ねてはこなかった。



***



 そして、その日の帰宅後……。

 夜勤番の母親が作り置きしていった夕食をたいらげ、自室に引っ込んだ俺は、少し迷ってから結局パソコンのGmailを開き、藤谷さんのメールアドレスを送信欄に打ち込んでいた。

 公募勢のプロが俺なんかのウェブ小説を読んで楽しめるとは思えないし、壮大なドッキリカメラか何かの可能性もまだ捨てきれないが……それでも、あれほどの美少女と話せるなら悪くないか、なんて思ってしまう自分を否定できない。

 何より、俺の中に僅かに残った物書きとしての心が、彼女は俺の作品をどう評価するだろうかという好奇心に揺れていた。


 緊張に震える手でマウスを操作し、小説サイトに最初の頃に投稿していた作品のテキストファイルをメールに添付する。二十万字もある長編を送りつけるのはちょっと気が引けるが、ウェブ小説の流行りに寄せていった後々の作品よりも、古いラノベの影響を残していたこの作品のほうが、まだ彼女のお気に召す可能性があるような気がした。

 本文に「尾上です」とだけ書いて送信ボタンを押し、ふうっと息を吐いて、俺は糸が切れたようにパソコンの前に突っ伏した。いくらなんでも、今日一日で気疲れしすぎた……。


 ……しかし、俺にとっての大事件は、まだまだそこで終わらなかった。

 だらだらと入浴を済ませ、パジャマ姿で自室に戻って、少しは受験勉強でもしようかと机に向かいかけたところで……ふと視線を向けたベッドの上のスマホに、数分前に届いたばかりのラインのメッセージが表示されていたのだ。


『さっそく全部読んだよ! 面白かった!』


 藤谷さんの笑顔のアイコンの横に並ぶ、可愛い萌えキャラのスタンプ。

 ウソだろ!? まだ作品送ってから一時間も経ってないんだぜ!?

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