第4話 ドルイドの洞(1)

 アウラの気配を辿って、カティヤはもう一度戦場跡まで戻ってきた。すでに日は傾き、西日が砂浜を琥珀色に染めているが、北方の夏は白夜の季節だ。もし冬だったら、とっくに暗くなっていただろう。


『カティヤ』


 ファーンヴァースに注意を促されて、カティヤは速度を緩めてドラゴンの目で前方を見た。アウラの気配に集中していたせいで気付かなかったが戦場跡に数人の人影がある。格好から判断するにアード地方の戦士だ。


 全員が特徴的な〈アードヘルム〉――猪の牙を模した飾り付きの金属製兜で、首を守る毛皮が肩まで覆っている――を被っているため、ずんぐりして見える。膝まである立派な鎖帷子チェインメイルを着て、アード地方の色である黄色の縞模様が入った布を、ある者は肩から斜め掛けにし、ある者は腰に巻いてスカートにしていた。手にした武器は幅広の剣、斧、槍などで統一されていない。腕や脚は素肌を晒しているが、それでもこの時期では暑いだろう。見ているカティヤのほうが思わずしかめ面になるほどだ。しかし暑いからといって武装しないわけにはいかない。戦から三日しか経っていない戦場跡はかなり危険な場所だった。戦場漁りの無法者や、敵側の戦士と遭遇する可能性もある。


 カティヤのように外套マントの下は半袖のチュニックとズボンにブーツ、武器は短めの幅広片手剣ブロードソードのみという軽装でやって来るほうが非常識だが、彼女は竜騎士で、武器も竜語魔法によって鍛えられた〈竜剣〉である。常識の範疇に含まれるものではない。


 見つかってしまう前にカティヤは浜辺に突き出ている岩の一つに隠れた。ファーンヴァースも同じように別の岩陰へ入る。わずかに顔を出してもう一度様子を窺うと、浜辺をうろうろしている戦士は五人いた。


『森の中に射手が二人いる』と、ファーンヴァースが相手の位置と共に伝えてくる。


 アウラの気配は焼け焦げた船の残骸に続いていた。舳先から浜に落ちて、その周辺で渦を巻くように移動した後、蛇行しながら森へと入っていく。最初は船上にいて、舳先から落ち、抵抗しつつも森へと押しやられた――ラーウスの話のとおりである。


 彼女の心中を察して、カティヤは唇を噛んだ。スケイルズ人は海の近くでなら死を恐れはしない。しかし陸地で死ねば〈水の宮殿〉に行けないだけでなく、敵方に加えられてしまうかもしれない。それは魂を捕らわれたに等しい。このまま戦場跡へ飛び込んで、アードの連中を半殺しにして海に放り込み、同じ恐怖を味あわせてやりたい。


 カティヤの怒りにファーンヴァースが反応した。わかっていると言わんばかりに怒りを抑え、ふうと一息ついてから心の中で相談する。


『どうしよう。ここから森に入れば気付かれないと思うけど、気配を見失っちゃいそう。あいつらが帰るまで待ってるのは時間の無駄だし』


『私がここから気配の続く方向を伝えよう。そうすれば、森の中でもう一度見つけられる可能性は高い』


 カティヤは一瞬悩んだ。一番確実なのはアードの戦士たちを全員叩きのめして戦場跡から気配を辿る方法だ。しかし相手は属するところのない無法者とは違う。余計な騒動の種になるかもしれない。


『それしかない……か』


 心を決めて岩の陰から陰へと移動し、誰にも気付かれないまま森の中へと飛び込んだ。


 西日の差す森の中は光と影の織りなす世界だ。まっすぐに伸びる針葉樹の幹は黄金のように輝き、反面、長い影を落としてもいる。木々の隙間から差し込む琥珀色の光のヴェールは地面を覆う黒々とした茂みを切り裂き、その中を小さな羽虫がふわふわと舞っている。午前中に降った雨のせいで空気は湿っていて重く、濃い。夏の森はあらゆる植物が枝葉を伸ばして繁茂している。カティヤは森の生まれだが、外套マントに引っかかる枝や、いちいち歩みを邪魔する茂みや、視界を塞ぐ木々は鬱陶しいとしか思わない。


 アードの残党狩りがいるかもしれないので派手に動くわけにもいかず、逸る気持ちを抑えながら、一人で光と影の中を歩いた。しかしもう本当の意味で一人になることはない。どこにいようともドラゴンと竜騎士はお互いの存在を常に感じている。別行動している今も、ファーンヴァースはアウラの気配を見つけられるようにと方向を示してくれていた。彼のほうは動いていないので、相対的に距離と方角を把握できる。


 視界を塞ぐ邪魔な枝を切り落としてやりたくなったが、ぐいと曲げるだけにして下を潜り、カティヤはそこでハッと足を止めた。前方の木々の間を、視覚化されたアウラの気配が蛇行しながら横切っている。


(やった、見つけた!)


 ファーンヴァースに言ったわけではなかったが、白竜は反応した。『私も合流しよう』


『うん』


 アウラの気配は強くなっている。それは同時に、彼女がまだ生きている可能性も高いということだ。自然と足が早まる。カティヤの身長と同じくらいまで伸びた水草が群生している湿地までくると、気配だけでなく、誰かがここを通った痕跡が見つかった。草を折り、かき分けて進んだ跡が残っている。泥濘に足を踏み入れ、その跡を辿っている途中、少し離れた場所にアウラの気配がわだかまっているのに気付いた。


 大股に進んで草をかき分けると、上半身だけ覆う袖なしの鎖帷子チェインシャツに、肩と片胸を覆う硬い革ハードレザーの胸当て、スケイルズ人を示す青地に白い波模様を編みこんだ織布などが捨てられている。それらがアウラの持ち物なのは気配が見えなかったとしても容易に想像できた。スケイルズ人を示す色だけでなく、海蛇竜シーサーペントの意匠が使われているし、男性用にしては小さい。装備を捨てなければならないほど追い詰められていたのか。


 一旦それを無視して湿地を抜けると、強い死臭が鼻を突いた。アウラの気配とは方向が逆なので彼女のものではない。足元の柔らかい土にはまだ複数の足跡が残っていて、二手に分かれている。


『ファーンヴァース、あたしのいる場所わかる?』


 心の中でファーンヴァースがうなずく。


『ここで二手に別れているみたい。あたしはアウラを追うから、あんたはもう一方をお願い』


 了解の意思が返ってきて、カティヤは追跡を再開した。


 進むにつれて気配はどんどんはっきりしてくる。もうこれ以上は待てないとばかりに、カティヤは飛び立つように跳躍した。


(誰かに見られたら……いいや、もう。その時はその時で!)


 そうして枝から枝へと飛び移って進み、目的の場所で地面に下りる。目の前にあるのは見るからに古いトネリコの大木だ。北方でよく目にする幹がまっすぐな針葉樹と違い、分かれた幹と枝は左右に大きく広がっている。苔むした根元には人間一人くらいなら入れそうな大きさのうろが開いていた。期待を込めて、覗き込む。


 期待どおり――とはいかなかった。うろの中には誰もいない。


 しかし気配の濃さからしてアウラがいたのは間違いなかった。それも、ここを離れて半日と経ってはいないだろう。うろの中には血のにおいも残っていて、内部に乾いた血痕がこびりついている。それがアウラの浴びた返り血なら良かったのだが、気配を可視化しているドラゴンの目には彼女のものだと分かってしまった。死に至った可能性もある出血量だ。


『カティヤ』


 ぐらつき始めたカティヤの心に、ファーンヴァースの思念が届く。


『スケイルズの戦士二人の遺体を見つけた。二人とも離れた場所に倒れている。ここで殺されたのではなく、別の場所で負った怪我が死因のようだ。追っ手に対する時間稼ぎかもしれん』


『うん。たぶん、そうだね。湿地で別れて、一方はアウラをここに隠して離れた。守り切れないと思ったんだろうね。持ち物を調べてみて。もし海水の入った水袋を持っていたら、額を洗って弔ってあげて。もう間に合わないかもしれないけど』


 心の中で会話しながらうろを出たカティヤは視線を感じて動きを止めた。周囲の気配を探ろうにも、アウラの気配に集中したまま同時にできるほどカティヤはこの魔法に熟練していない。外套マントの下で剣に手をやり、出てきたままの屈んだ姿勢で周囲を見回すと、木々の間にさりげなく立つ男がいる。


 毛皮を肩に掛けているだけで上半身は裸だ。腰から下は布を巻いてスカートにしているが、それは北方人なら珍しくない。ほとんど灰色に見える珍しい色の髪は伸び放題で、三角形を組み合わせた図柄の鉢巻で押さえられている。鉢巻が押さえているのは髪だけでなく、頭の両側から突き出ている葉の付いた細い木の枝もだ。手にした六尺棒クォータースタッフは歪みもなくしっかりした造りで、武器にもなるだろう。


 狩人でも、無法者でも、戦士でもない。頭のおかしい浮浪者、というのが一番しっくりくる格好だった。頬はこけ、痩せていて、灰色の髪と落ち着き払った瞳からは年齢が読み難い。二〇代にも見えるし、三〇代にも見える。全身にぼんやりと浮かび上がっている紋様は魔法的なもので、渦巻きか植物の蔓のようだ。


「ねぇ、そこの人!」


 呼びかけても男は反応せず、ただじっと見つめてくるのみ。面倒に思いつつ大股で近付くと、男の瞳が微かに動揺した。


「ちょっと聞きたいんだけど」


 男は左右と背後をゆっくり見回した。自分に話しかけているわけがない、と思っているかのような態度。カティヤは腕を組み、その目をまっすぐに見て、はっきりと言った。


「あんたに話しかけてんの。ドルイドさん?」


 男は過剰に反応した。びくりと全身を揺らせて後退り、目を真ん丸にして、まるで奇妙なもののようにカティヤをつま先から頭の天辺まで何度も見る。それからやっと口を開いた。


「うえぇ? 俺が見えるの?」


 カティヤは赤毛に指を入れてガシガシ動かし、ため息混じりに答える。


「だから話しかけてんでしょ。何だと思ってたの」


「……いや、なんかちょっと、おかしな人なのかなぁ……って」


「あんたに言われたくないわ! なんなの、この枝。ふざけてんの?」


 カティヤは男が頭に付けている枝の一本に手を伸ばしたが、男は素早く反応して両手で枝を庇った。「ちょっ、止めてくださいよ! これは魔法に必要なもので――」


「そんなことより、そこの」と、カティヤはトネリコの古木の根元を指差した。「ほらにいた女性を探している。あんた何か知ってんでしょ? だからここを見張ってた」


 ドルイドの男は怪訝な顔をして問い返す。「……お前、何者だ? 森に溶け込んだ俺の姿は見えないはずなのに」


「彼女は竜騎士だ」その問いに答えたのはファーンヴァースであった。トネリコの古木の裏から人間の姿のまま現れた彼に、『いいの?』とカティヤは思念で問う。


『北方において、現代のドルイドはかつてないほど孤立している。人々は彼らとの関わりを避けている』


 ファーンヴァースの思念は、だから問題ない、という意味を含んでいた。ドルイドの男は突然現れたファーンヴァースと目の前のカティヤと、視線を行き来させる。


「もしかして……白竜ファーンヴァースと竜騎士のカティヤ?」


 背格好と竜騎士という情報からカティヤを連想するのはファーンヴァースも言っていたとおり難しくない。しかし、社会と関わろうとしないドルイドがそうした情報を持っているのには驚いた。


『彼らは自然に姿を紛らわせる魔法を使う。そうして集落を観察しながら、人々の話に耳を傾けているのだろう』


 ファーンヴァースの解説を聞きながら、カティヤはドルイドにうなずいて見せる。「うん。まあ……そう」


「ということは、あなたが探している女性はエイリーク王の娘ア――」


 ドラゴンの力を借りているカティヤがその気で動けば普通の人間に見切れるものではない。一瞬で剣を抜き、ドルイドの口を塞いで喉に刃を当てる。


「馬鹿なの? アードの残党狩りがうろうろしてんだよ。もし彼女の名前を口にしたら永遠に余計な事を言えなくする」


『この付近にアードの戦士はいない』と、ファーンヴァースまでも心の中で余計な事を言った。


『いるかいないかは問題じゃなくて、こいつの迂闊さに警告してんの!』


 ドルイドの男は目を瞬かせて〝わかった〟と告げている。カティヤは手を離し、剣を鞘に戻した。「で、彼女はどこに?」


 ドルイドの男は首をさすりながら少々不満げに答える。「ああ。彼女はコラン……というドルイドに保護されて手当てを受けている」


「生きてるのね?」


「少なくとも俺が最後に見た今朝までは」


 安堵が、全身から力を奪って座り込んでしまいそうになった。大きく深呼吸して気を持ち直す。


「あんた、名前は?」


「俺はフィニアス。フィニでいいよ」


「じゃあフィニ、彼女のところに案内してもらえる?」


「もちろんだよ。カティヤ」


 そうして三人は、森の中を歩き出した。

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