4-97 予兆




 呪術医院、呪具工廠、シェルター、その他庁舎をはじめとした公的施設。

 第五階層にはトリシューラが管理する建造物が幾つもある。

 例によって階層そのものが有する物質創造能力による世界の改変だ。


 公共物を構築するために必要なリソースは市民から『徴税』して賄っている。トリシューラ曰く「ちょっとずつ強制徴収してもみんな大して困らないよねっ」だそうだ。強制徴収できるのかよ。どちらかと言えばトリシューラの権力が怖かった。ガロアンディアンの女王の称号は伊達ではない。


 そんな施設には居住スペースなんかも確保されている。細かい目的や用途は異なるが、簡易的な生活ができる『家』が複数あることには変わりない。ここは、そんな拠点の一つ。第五階層の都心部にある公社ビルにほど近く、何かと便利な場所である。


「アキラくん、どこか変なところはある?」


「んー、軽く動かした限りは問題ない。後は道場で本格的に動いてみないと」


「む。アキラくんの認識だとそうなのか。じゃあひとまず終わりにするね」


 何だその気になるコメントは。怪訝に思ったが、追求の言葉が全身を走る痺れによってかき消されてしまう。白衣を着たトリシューラが、可動式の寝台に横たわる俺の身体から手を引き抜いたのだ。


 解放された胸から腹部までの部位には人の臓器に似た、しかし決定的に異なる精密な機械類が詰め込まれている。ほぼ全身がサイボーグとなっている俺の身体は、定期的な整備によって不具合がないかどうかチェックする必要があるのだ。


(鮮血呪で生体部品に変異させてもいいんだけどね。機械の身体の方が便利だし、必要に応じて生身にすることはいつでもできるから、問題ないでしょ?)


 全く異論は無い。八割がた機械だろうが、俺は俺のままだ。たとえ十割置き換えられたとしても俺の位置に部品があればそれは俺と定義可能だ。そこに至る流れと周囲との関係性が俺の役割を規定する。


「うん。あなたは間違いなく私の使い魔のアキラくんだよ」


 笑顔で承認されて、自己を再定義する。

 今日も今日とて順風満帆。俺の精神は変わらず安定している。

 

「ぶー」


 が、俺の周囲まで安定しているかというとそうでもない。

 寝台から降りて衣服を身に着けつつ、こちらから顔を背け、それでいてちらちらと視線を向けてくる相手に声をかける。


「放置して悪かった。だから機嫌を直してくれないか」


「ぶうぶう」


 部屋の隅にあった丸椅子に腰掛けていた相手はぷいっと完全にそっぽを向いてしまう。困った。完全にへそを曲げてしまっている。

 口を尖らせて豚の泣き真似をしているのは、豚の鼻を持った美貌の持ち主。

 地の底より蘇りし者どもの女王にして美醜清濁を内包する地母神。

 その名もブウテト。


「トリシューラとばっかりいちゃいちゃしてずるいですぶー。やっぱりぶたぶたしたブウテトの事なんて、アキラ様は嫌いになってしまったんですぶう。ぶぶう、ぶひーん」


 白い手袋に覆われた両手で顔を覆って「ぶひーんぶひーん」と泣くブウテト。

 あまりにも悲しげな様子に居たたまれなくなって、そっと手を伸ばした。


「ブウテトが豚になろうが空を飛ぼうが、俺は態度を変えたりしない。だからそんなに泣くな。ほら、涙と鼻水拭いて」


「ぶひ、ぶひ、ぶっひゅぶぶぶぶぶぶうううううっー!」


 渡したハンカチで思い切り鼻をかむブウテト。凄い音だ。

 ブウテトは灰色の瞳を潤ませながらまっすぐにこちらを見てくる。


「ありがとうですぶう。洗って返しますぶう」


「あ、いいよそれ私のだから。洗濯物として出しておいて?」


「女房気取りがムカつくぶうーっ!」


 ブウテトは怒り狂いながら涙と鼻水にまみれたハンカチを丸めてトリシューラに投擲した。思い切り顔面に命中し、「うぎゃーっ!」という悲鳴が上がる。

 またしても機嫌を損ねたブウテトは頬を膨らませ、「もう引きこもりますぶう!」と宣言して呪文を唱え始める。豚の女王はその周りに光の粒子を収束させ、それを繭のような形にしてみせた。糸がゆっくりと解けたとき、そこにあったのは馴染みの顔。


「よくもやったなー! このっ!」


「落ち着いてくださいトリシューラ。私です」


「前世同罪! 予防拘禁!」


「そんな事言ってるからガロアンディアンが無法とか秩序が足りないとか言われるんですよ。頭冷やしてください。凍れ」


 氷の美貌と左右非対称の異相を併せ持つ、俺のもう一人の主コルセスカ。

 彼女は出てくるなり頭に汚いハンカチを張り付かせた妹に飛びかかられるという事態にも慌てず騒がず、凍結の邪視で物理的に相手の頭を冷却してみせた。

 氷漬けになって強制停止させられたトリシューラは、ブウテトに対抗するかのようにむーっと頬を膨らませた。コルセスカの前なので少々甘えが目立つ。


「セスカ! あいつなんとかして! 嫌い!」


「ブウテトも私の一側面なんですけどね」


 表面上は平和だが、困ったことに何もかもいつも通りとはいかない。

 憤慨するトリシューラと少しだけ眉根を寄せるコルセスカ。

 そして、コルセスカの『内側』にはもう一人の彼女が引きこもっている。

 ブウテトという名の、困った女神が。




 対立するトライデント勢力の一員にしてトリシューラにとっても因縁の相手であるラクルラール。その刺客ミヒトネッセの襲撃から三日が経過していた。

 四日目の午前になっても何ら事態は進展しないまま。

 豚に部分変身したまま戻れなくなってしまった死人の森の女王は相変わらずブウテトのままぶうぶう鳴いているし、原因も不明。


 ミヒトネッセに盗まれた髪もどのように使用されるのか予想が付かない。対策として対呪術結界を張り巡らせているが、どこまで有効かは未知数だ。トリシューラが部下に命じてミヒトネッセの捜索を行っているが、成果は無し。第五階層から外に繋がる門や階段には検問が設置され、ブウテトの髪を検知しようとしているがこれも成果無しだ。


(どのみち、変化の術で侵入も逃亡も自由自在なミヒトネッセを捕まえるのは至難の業だけどね。でもやらなきゃ。女神の髪なんて最高位の呪物、何に使われるかわかったもんじゃない)


 警官の制服を着て気合いを入れるちびシューラは、あれからずっと治安維持用の自動機械たちの管制を続けている。

 よしよし偉い偉いと虚空を撫でると、ちびシューラはくすぐったそうに目を細めて機嫌良く喉を鳴らした。小動物のようで可愛らしい。


(あっ、アキラくん、昨日のブウテトのこと思い出してた!)


 動物からの連想でばれた。実は昨日、ブウテトの変身が更に不安定になり完全に子豚になってしまうという騒動があったのだ。

 子豚となったブウテトはぶうぶう言いながらお散歩に出かけて行方不明になってしまったが、危険な目にあっている所を骨狼のトバルカインに助け出された。すっかり番犬ポジションに落ち着いたトバルカインは見事ブウテトを守りきり、日が暮れる頃に帰ってきて一安心、最後には俺の腕の中に飛び込んできた。結構可愛らしくてほのぼのとしたものだ。動物は結構好きなのだった。


 その後、ブウテトが筆談で王子様の口づけで元に戻れるなどと伝えたせいでトリシューラが激怒し、子豚を思い切り地面に叩きつけたら元に戻ったというしょうもないオチが付く。ついでに子豚の中に閉じこめられていたコルセスカが主観視点の動物映像を公開し、トリシューラが『ブウテトの大冒険』とかいうタイトルを付けて商品化したあたりで俺は考えるのをやめた。地上でも公開されたってどういうことだ。


 もう一つおまけに、地上にいるリーナ・ゾラ・クロウサーから『元気そうでなによりです』というよくわからないメールが来たがどう反応すればいいんだこれ。


(アキラくんがシューラのことかまってくれないー。もうシューラも豚になっちゃおうかな。ぶひシューラ、なんて)


 豚鼻を付けて不満を表明するちびシューラに謝罪して、もう一度頭を撫でる。確かにちびシューラにかまっているのにブウテトの事を考えたのは失礼だった。

 そんなことをしていると、ふと白けたような視線を感じた。コルセスカとトリシューラが、騒がしくじゃれ合うのをやめてこちらを見ている。


「アキラ、周囲にはっきりとわかる形で脳内彼女クランテルトハランスといちゃいちゃするのはちょっとどうかと思います」


「そうだよアキラくん。基本的にちびシューラはアキラくんと私にしか見えないんだから。撫でてくれるのは嬉しいけど、そんなこと現実でやったらどん引きだからね? アキラくんってキリッとしちゃうかっこいいと痛いをはき違えちゃう系だからそういうところが危なっかしいよ。ね、セスカ」


「そうですね。まあ身内の間でならともかく、人前ではやめてくださいね」


「はい」


 ぼろくそに貶されている。何故だ。コルセスカはトリシューラの頭からハンカチをとると、一瞥しただけで綺麗にしてしまう。さらりと便利そうな呪術を使用したコルセスカが何故かちょいちょいと手招きをしてくる。


「何だ?」


「いいことを教えてあげましょう。これが現実でやると駄目で、虚構なら大丈夫な行動の例です。呪術的に応用できるので覚えておいてください」


 言うが早いか、コルセスカはトリシューラを壁に追い詰めてドンッと手を突いた。身長差のせいで壁に手を突いた側が追い詰められた側を見上げる形になっているため、大変に味わいのある絵になっていた。更に「きゃー」と気の抜けた悲鳴を上げるトリシューラの顎をクイッと持ち上げて一言。


「『いい加減、この俺のものになるがいい。お前がこの美貌に屈したがっているのは分かっている』」


「ああ、ゲームでマラードがやってた奴だ」


 コルセスカの声真似はそっくりだった。正直虚構であってもギリギリな言動のような気がするが、マラードはあれ現実に素でやりそうなのが怖い。ほとんど虚構の中から飛び出してきたような人物ではあるが。


「このように、使い古された強引な迫り方は傍目には滑稽に映ってしまうことがあります。陳腐化というやつですね。この現象を利用して微妙な差異から別の意味を生み出したり、前後の文脈を操作して陳腐な場面それ自体の意味を変えたりといったことが可能になります。今の場面が『滑稽である』とするのも一つの陳腐化の呪術ですね」


 トリシューラから離れてコルセスカが説明する。

 えらく説明的な小芝居もあったものだ。

 そこまで考えてふと思いつく。

 芝居というからには、再演呪術が関係しているのだろうか?


「うん。あのね、ラクルラール派は杖と使い魔を組み合わせて、人形劇の肉体言語魔術を使うの。残酷で血なまぐさかったり、滑稽で風変わりだったりする演劇を。それによって干渉するのは、何も過去だけじゃないの。今や未来も変更できる、というよりそれが本来の使い方。神への奉納や占術などの、未来を指向したものが演劇の呪術だから」


「ミヒトネッセが、そういう呪術で攻撃を仕掛けてくると?」


「っていうか、その、もうされてるっぽいっていうか」


「何?」


 聞き捨てならない情報だった。

 詳しい話を聞こうとするが、トリシューラはどうにも歯切れが悪い。

 コルセスカも言いづらそうに口ごもっている。

 いったい、敵の呪術によってどんな影響が出ているというのだろう。


「あのね、さっきアキラくんの身体を点検した際に、ちょっとした異常というか、いや動物としては正常なんだけど私のアキラくんにあるまじき不快さというか」


「トリシューラ、まどろっこしいのでここは実際に確かめてみましょう。あなたの整備もそろそろしておかなければならない時期です。ここの所、激しい戦闘続きで消耗していたでしょう? 意識総体レベルも低下しつつあるはずです」


 なんだかよくわからないままに二人に両腕を掴まれて寝台の傍に連れて行かれる。トリシューラがいきなり服を脱ぎだしたので目を逸らした。

 どうも話の流れがよくわからないのだが、とにかくメンテナンスをするらしい。衣擦れの音が聞こえて生じた落ち着かない感情が冷たく吸い取られていく。


「やはり」


「どうした?」


 何故か難しい表情をしているコルセスカからの返事はない。妙だなと不審に思っていると、トリシューラからの準備ができたという声。

 寝台の上に、黒と銀に彩られた機械の身体が横たえられている。


 滑らかな曲線は女性的でありながら、どこか中性的な雰囲気も残している。胸の膨らみは無く、素材の硬質さや頑丈さから男性的と形容することもできるだろう。生身の生物なら骨格が存在するような箇所には鋭角のパーツが取り付けられており、見ようによってはなかなか『格好良い』。こんな評価をトリシューラが欲するかどうかわからないので口には出さないが。


 性別から切り離された機械としての『最適な形』と『人間らしさ』とがせめぎ合うデザイン。それでも、恥ずかしがるトリシューラの表情や、そっと身体に触れようとしたときに漏れる消え入りそうな声を聞いていると思わず息を飲んでしまう。壊れ物に触るように、丁寧にトリシューラの身体を開き、一つ一つの内蔵部品を見て、マニュアルと照合しながら点検していく。


 背後ではコルセスカが二重チェックをしてくれている。俺は儀式的にトリシューラの存在を確かめる為にこうしているだけで、実質的にメンテナンスしているのはコルセスカだった。呪術のことは呪術の専門家に任せるのが一番良い。幸いコルセスカは杖の分野にもかなり秀でているので簡単な点検くらいならこなせるのだ。


「アキラくん、どう? 私、ちゃんと機械だよね? 妄想狂じゃないよね?」


「ああ、ちゃんと機械だ。完璧で理想的なアンドロイドだよ」

 

 俺が先ほどトリシューラにしてもらったように、トリシューラの胸の中をまさぐり、喉の内部の呪石の位置を確かめ、頸椎パーツの分離と接合を行い、わき腹に呪力を照射する機械を突っ込んで数秒間スイッチを押す。


「んっ」


 妙な声を出すから、思わず顔を背けてしまった。

 トリシューラの腰のあたりが視界に入る。

 腹部から下はまだ開放されておらず、微妙に丸みを帯びた腰つきと僅かに内側を向いた大腿部がありのままの人体のような姿勢を保っていた。股関節部分から僅かに覗く可動部分は大腿骨を象った軸とそれを取り巻く柔らかい金属繊維。耳を澄ませると、内腿をすり合わせるように膝を持ち上げ、足を動かす恥じらいの駆動音が聞こえた。


 ふと、ミヒトネッセという人形のことを思い出す。

 ガイノイドと名乗ったあの球体間接人形と、アンドロイドであると自己を規定するトリシューラは明確に異なる。トリシューラの女性としての性自認は女神として、魔女として己を規定する為のもの。最終的にどうなるかはともかく、女性としてトリシューラが存在しているのは自分自身の為だ。


 それを証明するように、トリシューラの股間部分には何もない。つるりとした黒色の三角地帯があるだけだ。一つの個として完成された、人工的アーティフィシャルな美。

 だからこそ、ミヒトネッセという存在が不可解に思えた。

 彼女は『あえて』ガイノイドと名乗っているのだろう。

 だが、それは『誰のため』だ?


 答えの出ない疑問を頭の中で巡らせていると、背後から頭を叩かれた。

 振り返るとコルセスカが絶対零度の瞳でこちらを睨みつけていた。

 更に、甲高い悲鳴が室内に響き渡る。


「キモイキモイキモイめっちゃキモイ! そんなところジロジロ見るなんてサイテーだよ! うわーんセスカー! アキラくんに視姦レイプされたー!」


「よしよし。つらかったですね。大丈夫ですトリシューラ。貴方の価値はこんなことで揺るがされたりしませんから」


「おい、ちょ、待て待て待てそんなつもりは」


 慌てて弁明を試みるが無駄だった。

 ぎろりと二人分の視線が突き刺さり、強制的に黙らされる。


「ひどいよアキラくん。私、確かに生殖機能は無いけど、だからってそんなところジロジロ見られたらやだよ」


「そんなつもりは無くとも『そう見られる』こと自体が誰かを傷つけることがあるのです。邪視まなざしというのは、意志によって制御されずとも呪力を持ってしまう。アキラは今、視線でトリシューラを殴りつけたのです」


「すみませんでした」


 ぐうの音も出ない。トリシューラの気持ちを考えると無遠慮に過ぎたし、視線の専門家であるコルセスカにそう言われると呪術的にも納得できた。

 申し訳ない気持ちで死にたくなっていると、トリシューラとコルセスカが何か顔を寄せ合って耳打ちし合っている。この状況で内緒話されると死にたくなるのだが、何を話しているのだろう。「やっぱり」とか「去勢」とかいう声が漏れ聞こえてくるのだが、後半怖すぎないだろうか。


 しばらくして、二人はこちらに向き直る。

 こほん、とトリシューラが咳払いをした。


「あのね、私は優しいからアキラくんの生殖機能もちゃんと再現してあげてるじゃない? しかも安全な保護機能まで付けて! 私たち二人の二重ロックなんて高位呪術師でも破れない最高クラスの守りだよ。誇りに思っていいよ?」


「う、うん?」


「それを踏まえてアキラに質問したいことがあります。恥ずかしがらずに答えてください。今、トリシューラに性的な欲求を覚えましたね?」


 まじめくさった表情でコルセスカが問いかけてくる。

 困惑せざるを得ない。

 正直に言うと、機械に欲情する変態とか罵られたりするんだろうか。それはそれでトリシューラとのいつものやりとりという感じもするが、しかし今はどうも真面目な雰囲気がある。


「まあ、その、何だ」


「思考も感情も私たちには筒抜けですので隠しても無駄です」


「じゃあ何で訊いた?!」


 コルセスカは溜息で答えた。何だそれはどういう意味だ。

 二人揃って冷ややかな蔑みの目を送ってくる。死にたくなるが、それすらコルセスカに吸われてよくわからないぼんやりとした気持ちになる。俺は不自然なまでに平静だった。


「えっと、アキラくんが私に対してそういう欲求を抱いたのは、『私という一貫した人格の表象』と『女性的ふるまい』と『人の形』がアキラくんっていう単純な雄の脳をクラッキングした結果だから別にいいんだけど」


 いいのかよ。

 少し恥ずかしそうに、身も蓋もない事を言い出すトリシューラ。要するにこの恥じらいも俺に『そういう意識』をさせる為のポーズということだ。今さっきの俺に対する非難もその一部、とそこまで考えるのは穿ちすぎか。こういうのはいちいち細かく機能ごとに還元しないでそのまま反射で合わせておくくらいが一番いいのかもしれない。


「ま、かわいいキャラクターとか関連づけしてー、女性ラベル貼ってー、みたいにすれば三角形とか並べた円とかの単純な図形からでも人間は興奮可能だからね。それ自体はともかく、本来アキラくんはそうならないように色々制御されてるはずなの」


「だというのに、アキラは興奮してしまった。些細な事のように思えるかもしれませんが――実は現在、第五階層で異変が起きています」


 コルセスカは端末にニュースを表示した。

 花街で起きた娼婦への暴行事件、透視魔の出没、露出狂の祝福者なる人物が夜警団とトラブルを起こして私刑にかけられたなど、随分と治安が悪化している。

 元々最悪の治安ではあったが、トリシューラの警備機械が睨みをきかせるようになってからは落ち着いてきたはずなのに。ここに来てまた状況が変化してきているようだ。


「あと、ファルファレロがセージに告白して玉砕したよ。どうでもいいけど」


「それはどうでもいいな」


「誰ですか? トリシューラの部下でしょうか」


 首を傾げるコルセスカに「そんなところだ」と投げやりに答えておく。

 ファルのことはともかく、これらの情報を総合するとこういうことになる。


「男が凶暴になってるのか? それも、性的な欲求を喚起される形で?」


「うん。多分だけど、そういう迂遠な呪術を行っている誰かがいるんだ。目的は多分だけど、女神や魔女の権威を貶めること。グレンデルヒの敗北によって傷つけられた『男性性なるもの』の復権が目的だと推測できる、んだけど」


 トリシューラは妙に歯切れが悪い。胸の中で呪石核とそれを取り巻く歯車型積層呪術円陣がくるくると回っている。開けっ放しなことに気付いて閉じる。


「ありがと。で、この一連の出来事がラクルラール派の仕業だとすると妙なことがあるんだ。それは、ラクルラール派もまた魔女だってこと。私たちを弱体化させて自分たちも弱体化って意味がわからないでしょ?」


「男を主力とした別勢力が関与しているか、ラクルラールの使い魔に男がいるかだな。っていうか答えは出てるだろ。ミヒトネッセと一緒に襲撃してきたイアテムって奴だ。使い魔なのか協力者なのかは知らないが、あいつ等が徒党を組んでるのは間違いない」


「だよね。ただ、そうするとイアテムとラクルラール派の繋がりがわからないの。グレンデルヒの部下で海の民の英雄、以上の詳しい経歴が今一つ見えなくて。海の民って閉鎖的で独自のコミュニティに籠もってるから情報が入手しづらいんだよ」


 グレンデルヒの部下として襲撃を仕掛けてきたイアテム。

 ブウテトやクレイに比べると再演の舞台に関わってこなかったせいか今一つ印象が薄い男だが、水で作り出した分身を操るという厄介な呪術の使い手だ。数が多くなると操作が雑になる傾向があるようで、どうにか撃退することができているが、それでもあれだけの数が一度に襲撃してくるというのは脅威でしかない。


「背後関係とか、今更必要な情報か? とりあえずぶちのめせば」


「アキラくんはそれでいいんだろうけど、情報はあるだけあるほうがいいじゃない? セージの師匠ってことらしいから、このあと公社に行ってイアテムについての話をしてもらおうと思ってるの」


「なら俺も行こう。護衛は必要だろ」


 先日の事件以来、トリシューラを一人にすることに強い抵抗感を覚える。すぐに駆けつけられる距離にいないとまた何かあるのではないかと不安になるのだ。トリシューラもそういう俺の心理状態に配慮してか、なるべく行動を共にするようにしてくれている。


「私の方では同僚であったブウテトとクレイから話を聞けたのですが、二人とも詳しい事までは知らないみたいでした」


「何だそれは。そこまで正体不明の男なのか?」


「というか、どうも彼はイレギュラーらしいのです。普通の周回ならば、あの位置にはグレンダイルという探索者芸人がいるはずでした。グレンデルヒの弟という設定でグレンデルヒを演出する巨大複合企業社員の一人だそうです」


 奇妙な話だった。

 本来のループには存在しない男。

 俺にとってはこれが一回きりの道なのでそれ以外などブウテトの言葉からしか知り得ないわけだが、奇妙な感覚が膨れ上がっていくようだ。


「ただ、どの世界でもイアテムという名の英雄は存在します。というのも彼は一つの偉業を成し遂げたから。それが【イアテムの呪いの剣】という呪術基盤」


 コルセスカによれば、呪術基盤というのは普遍化した呪術のことらしい。

 【空圧】や【静謐】などの名前を付けられた、呪術師たちにとっての世界標準。そのうちの一つを現代に入って発明したのがイアテムであり、それゆえに名前が広まっているのだとか。しかし呪術の名前と共にイアテムという記号だけが拡散し、詳しい人物像は謎に包まれている、ということのようだ。


 なるほどと思う。ガロアンディアン語はカタカナ語が多く混じった日本語ベースだが、来歴も知らずに『そういうもの』として受け止めてそのまま運用されているものが幾つもあった。人名とか特定社名とか故事成語とかそういう奴だ。


「じゃあイアテムって言うと普通はその呪術のことを指すわけだな」


「ええ。イアテム使いを『イアテマー』なんて言ったりしますね。そして、その呪術の効果は魔女に対して致命的なダメージを与えるというもの。別名を魔女殺しの剣――私たちの天敵でループのイレギュラーと不安要素山盛りですが、逆に言えば燃える所ですね。ループもの的に」


 軽く言うコルセスカの表情に気負いは無い。

 ブウテトが持っているような未来に対する鬱屈を、彼女は持っていないのだ。

 むしろ苦難を積極的に楽しみ、乗り越えてやるという気概を胸に秘めている。

 ブウテトの不調は心配だが、コルセスカがこうして強く在り続けてくれていることは救いだった。ミヒトネッセだろうとイアテムだろうとどんと来いという気持ちになる。


 第五階層の異変と暗躍する敵。

 それを知るためにも、まずは公社に向かい、セージに話を聞くとしよう。

 そう思ってトリシューラの整備を手早く済ませようとしたところ、なぜかコルセスカに引き留められた。


「その前に。ちょっとその悪い情欲を吸っておきましょうか」


「え? いや、今はちょっと、あ、おい!」


 有無をいわさず背後から首の右側に牙を立てられる。

 氷の冷たさと一人分の加重。そして、ぞっとするほど貪欲に俺という存在を求めてくるコルセスカを感じた。

 俺もすっかり人外になってしまったが、吸血は依然として行える。トリシューラはコルセスカが吸血しやすいように、俺の首筋を柔らかな生体部品にしてくれているのだ。生肉に牙を立てる感触が楽しめるらしい。


 補足すれば、吸血鬼という存在は吸血行為という古くからある儀式によって呪力を奪っているだけなので、相手が機械だろうがデータだけの存在だろうが関係無いのだった。端末に牙を突き刺して呪的侵入クラッキングを仕掛ければ、彼女はサイバーカラテ道場と一体化した俺から血を啜ることが可能である。


 それでも、実体の俺に牙を立てることにコルセスカはこだわる。こちらの胸と喉を抱くようにして、首筋に二つの孔を空ける。氷の牙が作り物の身体から熱を奪っていくが、丹念な行為は彼女の心を示すように情熱的だった。


「ん――ふ、はぁっ。とっても、とっても美味しい。それに、あぁ――素敵な歯触り。ふふ、私の痕を刻み込んであげます。これは私だけのモノ。私だけが知っている、アキラの内側――」


 蠱惑するような声が耳元で囁かれる。

 魔女に魅了されている、と眩暈の中で感じた。

 それはとても心地よく、全てを忘れて身を委ねたくなるような快楽だった。

 遠くなっていく意識の中で、かしましい声を聞いた。


「あーっ! ずるい、セスカずるいー!」


「大丈夫です。起きたあとに虐めるのはトリシューラに譲りますから」


「っていうか、吸い過ぎじゃない? アキラくん気絶寸前なんだけど。これ以上はドクターストップだよ?」


「えっ、そんな。幾ら何でも早すぎでは。アキラ、しっかりしてください! そんな早くてはどんな吸血鬼だって満足させられませんよ! もっと血とか情報とか貪欲に摂取して下さい! 私も今度レバー料理とか勉強するので!」


 とても理不尽な事を言われて、自尊心が傷ついた。

 何故って、俺がコルセスカ以外の吸血鬼に身体を許すことなど、絶対にあり得ないのだから。

 この首の感触は、絶対に不可侵だと、もう決まっている。




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