4-76 トリシューラ・カムバック①




 トリシューラは、破壊されていた。


「女王様は、裸だ」


 視界が幾度となく明滅する。緑色の光学素子はとうに砕けてしまっていた。光の乏しい世界。耳障りな音が響くのがひどく気に障る。感覚器の大半が機能を停止させており、強固な筈の外殻は無惨に引き裂かれて内部構造を露出させている。有り体に言って、今のトリシューラは残骸がらくただ。


「僕には服など見えないな」


 質感を重ねるテクスチャ呪術は無効化されて、黒色の地肌そうこうが剥き出しになっている。

 男の拳が振るわれるたび、真っ赤な鮮血が飛散していった。止め処なく流れる液体は、通常の人間ならばとうに失血死している量に達している。


「抵抗は愚かだ――だというのに」


 トリシューラの体内に構築された【ハイパーリンク】は巡槍艦の生贄貯蔵庫と繋がっており、アンドロイドの魔女はそこから呪力供給を受けることで活動している。生贄の血が供給される限り、そしてリンク可能な範囲内である限り、彼女は継続して活動できるのだ――それも、体と武装が無事ならばの話。

 

「虚飾を剥ぎ取り、ありのままの自然に還れ。君は不自然だ。この世にあってはならない。鉄は鉄らしく、地に埋没せよ」

 

 満身創痍のトリシューラは、それでもなお抵抗を続けていた。

 頭上には振り子のように揺れる僣主殺しの大剣。

 青い髪の毛はいつ切れても不思議ではなく、トリシューラが粉砕されると同時にガロアンディアンという王国を崩壊させるだろう。

 しかし、その一度の殺害があまりにも遠い。

 

「怪物め、怪物め、醜く邪悪な怪物め」


 鋼を貫き肉を引き千切る男の膂力にかかれば、アンドロイドの魔女を屠ることなど造作も無い。まして彼は守護の九槍第八位、【二本足】のネドラド。

 あらゆる機械を破壊する【野蛮】の邪視者。

 トリシューラにとって天敵とも言える杖殺しだ。


「悪足掻きも、いい加減に――」


「止めないよ。諦めるわけがない」


 呟きに突き刺さる神速の拳。

 腕が霞んで見えるほどの打撃速度が、余すところ無く魔女の肉体に吸い込まれる――そう、肉の身体に。

 溢れる鮮血が流動し、蠢き、厚みを持って肉塊となる。

 それらはトリシューラの機械の身体と一つに融け合い、生物とも機械とも言い難い異形へと変質させていた。


 分厚い肉が破壊され、またしても血が飛び散る。

 だがそれだけだ。生物的な装甲に阻まれて、肝心の機械の本体に拳が届かない。膨張と増殖を続ける肉塊は、それこそ無尽蔵に溢れだしてトリシューラを護り続けていた。 


「私に言わせれば、有機物だって機械だよ――けれど貴方にとっては違う。これらの、生贄として捧げられた動物たちの血肉は神に与えられた神聖な自然物。だから貴方の世界観ではこの守りは貫けない。純粋に物理的な力だけで生贄の障壁を超えなければならないんだ」


「魔女めっ」


 振り抜かれる拳。無為に飛び散る血肉。

 幾度となく繰り返された一方的な破壊だが、あと一歩の所で魔女に届かない。

 死人の森と手を結んだ修道騎士にして再生者ネドラドは、骨の手で肉を掻き分けていくが、後から後から増殖し続ける肉の群れに押し返されて後退する。


 それはまさしく見るもおぞましい魔女の邪法。

 忌ま忌ましさに耐えかねて、舌打ちをする。

 そもそも、時間を与えてしまったのが間違いだったのだとネドラドは思う。

 後になって考えても仕方が無いが、やはり即座に殺しておくべきだったのだ。


 骨の手足と引き替えに死人の森の軍勢に加わったネドラドは、女王の指示に従ってまずは魔女を引き裂いて晒し者にした。そうすることで、冬の魔女コルセスカの精神に揺さぶりをかけようとしたのだ。それが済んだならトリシューラは用済みだ。ネドラドは速やかに止めを刺そうとした。


 だが、全身を破壊されながらもトリシューラは生き残る方法を模索していた。

 勝利までは行かずとも、時間を稼いで援軍を待つことはできる。

 そうして魔女はネドラドの理解が及ばぬ杖の秘術を使い、肉の壁を構築してみせたのだ。

 おぞましい呪術を見て、ネドラドが想起したのはこの魔女に関するある事実だった。憎しみに瞳を濁らせて、言葉の拳を振り下ろす。


「邪悪な魔女め。生命を弄ぶその呪術、寄生異獣と屍体の操作に関係したものだろう。君のせいでどれだけ争いが悲惨なものになったことか」


 トリシューラからの反応は無い。

 無表情の顔面に拳を振り下ろすと、盛り上がった肉塊が打撃の威力を遮断する。何度も肉壁を引き剥がしてようやく本体が見えたと思ったらまたしても肉壁が立ちはだかる。戦いは泥沼に陥っていた。

 ネドラドは、直線的な攻撃に変化を加えていく。蹴りが、体当たりが、投げ技が次々と繰り出されていく。


「君が屍体を操る杖の呪術を敵味方双方に普及させた件。あれでどれだけの死霊使いたちが失職したと思う? 君は邪悪な魔女だ。社会に害悪しかもたらさない。君のような存在が女王として君臨し、日々を懸命に生きている人々を高みから食い物にしている――許されないぞ、それは絶対に打ち倒されるべきだ!」


 義憤を胸に、怒りを込めて拳足が魔女を襲う。全身を保護するために肉の球体と化したトリシューラから、大量の血液が流れていく。彼女を監禁している一室は既に血の海で、赤く染まっていない箇所など一つも無い。

 凄惨な景色の中で、魔女は嘲笑する。


「その件なら、死霊使いガルズのテロ行為の影響が大きいんじゃないの? 口寄せ系統の仕事なら民間でも警察でも、それこそ教会でもまだ沢山あるでしょう。それにそんなことを言っていたら、進歩なんてできやしな――ぐっ」


 呻き。ネドラドの攻撃は破壊や貫通から衝撃による揺さぶりに変化していた。

 頑強なアンドロイドをこれだけで破壊できるはずもないが、肉に響くような掌底打ちは僅かずつトリシューラの全身を軋ませていく。


「不自然な形での進歩など不要だ。人は、杖など無くてもただ二本の足だけで立っていくことが出来る。原始の世界こそが人のあるべき姿だ。人は動物のように生まれて死に、また甦る。その繰り返しと再生こそが正しさだ!」


 恐らくは、それこそがネドラドという修道騎士が死人の森に協力する理由なのだろう。命が終わらない再生者は、ただありのままの自然を享受していればそれでいい。無限の時を緩慢に過ごす。杖など不要、確かにその通りだ。

 しかし。


「貴方のそれは、義憤でも無関心でもなくて、憎しみだよね。生理的嫌悪感すら含まれているように思える」


「機械風情に何がわかるっ!」


「心拍数と呼吸のリズムと体温、口調の変化、その他外部から測定できる諸要因を総合して推測した精神状態がわかるよ」


 トリシューラは冷静に指摘して、淡々と事実を述べた。

 そして、更に決定的な事実を告げる。

 

「もう一つ。貴方の打撃、体格の割に少し軽いね? 純粋な霊長類じゃなくて、空の民との混血か、第一位の守護天使の加護を拒絶して後天的に霊長類になったんじゃない? だからこそ自分の世界観を押しつける邪視の適性も持っている。内宇宙インナースペース型とはいえ、その浄界の強力さは鉄願の民にしてはちょっと異常過ぎるもの。どう、違う?」


 ネドラドの動きが止まる。

 そのことが、端的に事実を示していた。

 畳みかけるように、トリシューラの言葉の反撃が続く。


「それで質問なんだけど、貴方の世界観って、杖が苦手な劣等感から生まれたもの? それとも雲上人が下層階級の労働者の苦しみを知っちゃって『みんな行き過ぎた文明が悪いんだ』とか目覚めちゃったせい? どっちにしてもかなり愉快――ごめん、頭悪いけど」


 圧倒的な怒気が膨れあがり、肉塊が吹き飛ばされた。

 破壊された肉の球はそのまま壁に激突するが、強固な生贄の守りはそれでも砕けない。ネドラドは不気味に蠢いて自己再生を始める球体を睨み付けたまま、言葉を返した。


「――確かに、僕は元々空の民だった。だが杖が苦手というのは間違いだ。むしろ、例外的に僕たちの血族は杖の適性が高かったんだ。ああ、不遜にも他の血族よりも優れていると驕ってしまうほどにはね」


 男の言葉には、地の底の溶岩のような、沸々と煮えたぎるような怒りが込められていた。それでいて、その怒りが向けられている対象はどこか漠然としている――血族という大きなものについて語っているからだろうか。


「僕たちの血族は没落した大貴族というやつでね。大昔に、不遜にも血族を束ねる当主に叛逆した愚か者が現れた。それは失敗し、叛逆に荷担したしないに関わらず、血族はみな同罪だとされてお家は取り潰しとなった。僕の先祖は分家筋で、他家に組み込まれていたがゆえにお目こぼしを貰ったんだ。血族としての力が弱かったことも原因だろう」


「じゃあ、本当は杖が得意な貴方はどうしてそんな世界観で私を憎むの?」


「父は屑でね。存在しない過去の栄光、血族の誇りを振りかざして、周りの人を苦しめるようなことを平気でしていた。人の手には過ぎた杖を使ってね。父に奴隷同然に使い潰された人、あの死の商人が拡大させた民族紛争で死んでいった人がどれだけいたことか――お前たちはいつもそうだ。特権意識に凝り固まって、踏みつけられる普通の人たちの事を考えもしない。挙げ句それを正当化する始末だ。そんな外道に、人の上に立つ資格などあるものか」


 純化された怒りが、拳を振動させていく。

 高まった戦意が可視化されて藍色の光となる。

 その輝きは波動と呼ばれる種類の呪力だった。

 打撃に乗せればその威力は数倍以上に高まるが、天才が十年、二十年修行しても自分の意思で自由に使いこなすことは至難と言われている。ネドラドがこの境地に至ったのは、ひとえに怒りという感情の高まりゆえだろう。


 波動の光が全身を覆う衣服のテクスチャをはがしていった。ネドラドは文明の否定者であるため、衣服を着ていないのだ。鍛え上げられた肉体と、そこに刻まれた無数の蚯蚓腫れが露わになる。醜い傷痕だらけのその姿は、恐らく幼少期から鞭で打たれ続けた結果だろう。


 挑発によって窮地を招いたにも関わらず、魔女は狼狽えない。

 どころか、更に言葉を重ねてみせる。


「へえそうなんだ。ところで今の話に母親が出てこなかったけど、その父親に虐め殺されたの? それとも愛想を尽かして出て行った? それで寂しくて屍体ババアと赤ちゃんプレイしたくなったのかな。つまり貴方ってママとセックスしたい人だよね」


 鮮やかなまでの侮辱だった。

 トリシューラは軽々と男の内面を忖度し、尊厳を穢してみせた。

 これに対してネドラドは、むしろ静謐な振る舞いを返した。

 当然それは怒りの消失を意味しない。


 むしろ、静かに燃え上がる怒りの温度はこれまでの比では無かった。

 膨れあがった波動の輝きが、灼熱となって肉塊に叩きつけられる。


「自然に還れ――【神焔返還ラッダイト】」


 極大の閃光が溢れて、あらゆるものを粉砕する拳が繰り出された。

 世界観そのものを内包したネドラドの手。

 それは浄界で相手を殴りつけるということに等しい。

 一つの小世界、個人が生み出す宇宙が、魔女の守りを突破していく。

 そして、あらゆる杖を殺す至高の一撃が鋼鉄の身体に触れた。




 暗い、暗い、底のない闇に沈んでいく。

 つい最近も、同じようなことがあった。

 あれは、シナモリアキラに拒絶されて、存在が窮地に追い込まれた時のこと。

 拒絶は必要な過程だと分かっていたにも関わらず、それはトリシューラの心を打ちのめした。トリシューラが戦うのは己の為。だから誰かの為の行動は全て自分に返ってこなくてはならない。見返りを期待した返報性の原理。まず先んじて与えて、結果として与え返されるコルセスカとは順番が異なる。


 与えたがゆえに与えられるコルセスカ。

 与えられるために与えるトリシューラ。

 その差異が、シナモリアキラを巡る競争の明暗を分けたのかもしれない。

 だからそれは、トリシューラという存在の敗北。

 本質において劣るということ。

 自己の不完全性を直視して、トリシューラは闇の中で蹲った。


 ここは深海だ。

 無明の暗黒が心を蝕み、身体を自らの内圧が軋ませる。

 心も体も、本当は有りはしないというのに。 

 この場所が嫌いだった。

 見たくないものを見せられるから。

 直視すべきでないものを直視させられてしまうから。


 自らの最深層は遠すぎてまだ見えない。

 九層に分けられたトリシューラという構造は、矮小な彼女には巨大すぎる。

 星見の塔の叡智、その全てが注ぎ込まれたと言う杖の化身。

 守護の九姉――その中の八人がそれぞれの呪いを新たなる末妹候補に与えて彼女は生誕した。それが『設定された』記憶だ。


 九人の中で、足りない一人は誰だったのか。

 九つあるコアは、それぞれ九姉の呪力が封じ込められている。

 命が生まれるという循環を定めたのは転生女神ヘリステラ。

 明るさと鮮やかさを定め、呪石を輝かせたのはダーシェンカ。

 ありとあらゆる世界の夢を可能性として歌い上げたのはカタルマリーナ。

 イストリンが大地の祝福を、ラクルラールが鋼鉄の呪いを、シャーネスとビークレットが時空の穴を作ってその鋼鉄を『きぐるみ』に変えた。

 

 ――足りない。一人が見当たらず、一人は何をしたのかわからない。


 三歳児の姿でこの世に作り出されたトリシューラ。

 ではその前は?

 目の前に、薄れて消える小さな妖精の像が見える。

 常に一緒だった氷のような少女を感じる。

 彼女とは、いつから一緒だった?


 いずれにせよそんな風にして、それぞれが何らかの方法でトリシューラを作り出した。手法は違えど、リールエルバもアレッテ・イヴニルもミヒトネッセもピュクシスもそれは同じ。トリシル計画はそのようにして始められ、最終的に何故か失敗作と呼ばれた自分だけがトリシューラに選ばれた。


 三つの時からの機械素体を作ったラクルラールが、そして同型の競争相手たちが、揃ってトリシューラをこう呼んだ。


 ――忌まわしいアーザノエルの落とし子め。


 庇護者たるクレアノーズでさえ、星見の塔において忌み嫌われているその呼び名こそがトリシューラの『まことの姿』だと語る。


「賢明な愚者たるノエレッテはおろか、完成形であるはずのエル・ノエルでさえ至れなかった――今回の計画で一番優秀なのはトリシル=リールエルバだけれど、あの子も恐らくは無理でしょう。いいこと? お前は、欠落しているが故に唯一可能性を持っているの。だからこそ私はお前を選んだのよ」


 空虚大公クレアノーズは酷薄にそう言って、未だトリシューラという名を持たぬ幼子に微笑んだ。

 毒のような笑みだった。


「幻想のあわいでお互いを参照し合う春と冬。お前たちならば、【最果ての二人】を更新することも不可能ではないかもしれない。ねえ、そうでしょう――」


 ――私の可愛い、トリシル=エルネアーズ。


 トリシルシリーズ九号機。それが、過去に置いてきた名前。

 人形ひとがたを作ったのはラクルラール。

 けれど、天形あまがつを設計したのは別の誰か。

 最初の妖精を生み出したのは、一体誰だったのだろう。

 

 ――わたしはそれを知っている。けれどそれはわたしの知らないこと。わたしはみんなであってみんなじゃない。みんなはわたしであってわたしじゃない。だから、わたしという総体の居場所はどこにもなくてどこかにある。


 それはいったい、どこにあるんだろう?

 闇の中に、ぽつりと誰かの姿が浮かび上がる。

 自らと対照的な配色。豊かな緑の髪に血のような瞳。そして、見る者を誘う妖艶な長い牙。美しい裸体を晒す吸血鬼の姫君、その紛い物が口を開く。


「違う、私が負けるはず無い、私は偽物なんかじゃない! どうして? どうしてお前などが『本物』なのよ。トリシューラになれないのなら、最初から偽物の私はどうすればいいの? ねえどうして、嫌だ嫌だ嫌だ、怖いよ助けて、お願いだから、私は、私は私は私は私は私はっ」


 悲痛な叫びと共に闇の中に消えていく。

 入れ替わりに、白衣に眼鏡の神経質そうな女性が現れる。この上なく険しい目つきでこちらを睨み付け、吐き捨てる。


「君は馬鹿だな、きぐるみの魔女。勝利を気に病むくらいなら始めから戦うな。それとも、その態度もお得意の『それらしさ』の呪術か? そんなものに知性は宿らないと、私たち杖の徒は知っているだろうに。ふん、いずれにせよこの道にもう先は無い。私は呪文に宗旨替えするよ。精々いつまでもトリシルにしがみついているがいい」


 侮蔑の視線。去っていく白衣の裾。手を伸ばそうとして、紅紫の長い髪が目に入る。ぎょろりと大きな目がこちらを向いた。その左右で小さな人形がこちらを指差して嘲笑する。


「あはは、見なよレッテ、間抜けな杖使いがハズレの座をつかまされて勝ち誇ってるよ! ばーかばーか、お前なんかレッテの足下にも及ばないくせに!」


「邪視ができないってことは、自分が無いってことだ。トリシューラの名前なんて、最初から未来が無いんだ。さっさと切り捨てられてせいせいしたね」


「――いいのよ。末妹選定なんて適当で」


 気のない口調で言い捨てて、人形姫が闇へと消える。

 続いてもう一人。黄みを帯びた土色のマフラーがはためいて、それより明るく鮮やかな淡黄色イエローオーカーの長い髪が棚引いた。刃のような風車の髪留めで括られた二つの髪房が揺れる。髪型は可愛らしい耳から上の後ろ髪を左右で二つにわけて括ったツーサイドアップ。ホワイトブリムとエプロンドレスにはふんだんにフリルがあしらわれ、膝丈スカートの下には編み上げのブーツと球体関節の膝が愛らしく覗いており、頭から突き出た薇発条ぜんまいばねを巻く為のつまみは可憐な蝶を模したもの。ラクルラールの少女人形、その最高傑作と謳われる美貌が、嫌悪と蔑みの色に染まる。


「がらくた。どうしてあんたってそんなに醜いわけ?」


 悪意に歪んでなお、少女は美しい。

 足蹴にされる。バケツ一杯に入った泥水をかけられる。棘だらけの撒菱まきびしをばらまかれてその上を歩かされる。普段は行く機会が無い星見の塔の手洗い場に連れて行かれて、便器を口で掃除しろと命じられる。拒否すれば容赦のない蹴りがトリシューラを襲う。


「ほんと不細工な顔。あんたみたいなのにまともに構ってあげてるの、私だけなんだってわかってる? 妄想遊びなんかじゃなくて、ちゃんとした他人の話よ」


 蹴りは途方もなく重い。鉄の踵は際限なく重量を増していき、遂には石造りの壁や床を粉砕してしまう。ぎりぎりでトリシューラを外した、『いつでも殺せる』という示威行為。


「これだけされても顔色一つ変えないって、おかしいんじゃないの? きっと性根がねじ曲がっているのね。いいわ、私がちゃんとした美しい心を持てるように、教育してあげる。別にあんたの為じゃなくて、お姉様の為なんだから。勘違いしないように。感謝しなさいよね、がらくた」


 端整な顔が愉悦に満たされていく。

 砂茶の侍女人形は、他者をいたぶる快感に酔いしれながら、涼やかな声でトリシューラに語りかける。つきまとってくる。いつも守ってくれていた姉がいなくなると、どこからともなく現れて嬉しそうに足を踏んで顔を寄せてくる。


「私がいないと何もできないのね、がらくた。何よ、サイバネ格闘家なんてちゃちな使い魔を召喚するの? そんなのやめて忍者にしなさいよ忍者。あんたは私の言う事を聞いていればいいの。どうせ空っぽの頭じゃ正解なんて導き出せないんだから――あっ、こらっ、言う事を聞きなさいっ!」


 目を逸らして、逃げ出した。

 見たくない。あんなものは見たくない。

 帰りたいとそう思った。星見の塔にではない。安心できる誰かの所。

 自分を受け入れてくれる大切な人の場所。


 助けてよ、お姉ちゃん。

 『自分』が崩壊していくのを感じながら、絶望の中で縋り付くものを探す。

 もう、それしか無いのだ。

 けれど、半身のような姉はあまりにも遠くて。

 

 藍色の衝撃が世界をまるごと砕こうとしたその瞬間。

 無限に引き延ばされた時間の中で、巨大な歯車が出現して回り出す。

 文字盤が九つという奇妙な時計。

 彼方に見えるのは、水晶振動子だろうか。

 カチカチと音がして、


 ――彼女が、目を覚ました。




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