4-74 死人の森の断章∞ 口付けるのは頬にだけ




 鮮血が森に舞う。

 柔らかな肉に歯が食い込むと、そのまま奥へと押し込まれた白が赤に染め上げられる。肉食動物の補食行動のように獰猛に、吸血鬼の吸血行為のように淫靡に、歓喜の嬌声が夜を鳴らした。


 小さな少女が、美しい蜂蜜色の髪を赤く染めて、自分よりも大きい女性の首に齧り付いている。肉を食い千切り、血管を啜り、丹念に咀嚼を繰り返す。舌がちろちろと蠢いてあらゆる箇所を味わっている。肌を、その裏を、その奥までも。


(神を――喰ってる)


 ちびシューラが呆然と呟いた。

 罰神ティーアードゥ。

 劇の冒頭で機械仕掛けから現れた、物語の始まりと終わりを定める神。

 この劇場の主たるヴィヴィ=イヴロスが演じる役が、年端もいかない少女に蹂躙され、血の陵辱を受けていた。


 あろうことか、それは演技の上だけ、演劇空間の中だけで起きている出来事ではなかった。役者が、役者を喰っている。演技であると同時に、それは実際に起きている惨劇なのだ。

 しかし、俺はその凄惨な光景を止めることができなかった。

 なぜならば。


「嗚呼――ずっとこの時を、んっ、お待ち、はぁ――しておりました」


 苦痛に塗れた喘ぎ声の中に、紛れもない法悦と受容の色が存在していたから。

 演劇の魔女は、自ら望んで死を受け入れている。

 殺されることを、喜んでいるのだ。

 記憶が疼き、身体が震えた。視線が、すぐ近くに横たわる狼の屍に向かう。


(アキラくん)


 わかっている。俺は大丈夫だ、ちびシューラ。

 内心でそう言って、趣味の悪い恐怖演劇グランギニョルを直視する。

 ティーアードゥか、あるいはヴィヴィ=イヴロスか。

 いずれにせよ哀れな被食者はあらかじめこうなることを予期していたに違いなかった。そうでなければ、あんなふうに己を喰らう小さな少女を愛おしげに抱きしめるなどということはできまい。


 かつて俺とチリアットは牙猪バビルサとしてこの場に立ち、罰神に命の期限を定められた。罪なきカインの命を奪ったという罪に対する、それが裁きであり、伸び続けた牙はやがて俺たちの脳天を貫いてしまう。

 気付けば、曖昧だった俺の姿はいつしか牙猪となっていた。


 既に、湾曲した牙が皮膚に食い込み始めている。

 生きているというだけで死に近付いていく牙猪は、自分たちに加護を与える守護神に生まれながらにして罰を与えられる。この死を直視させる牙こそがチリアットたちへの罰であり加護なのだ。


 ヒュールサスを救ったことは、確かに贖罪になったのかもしれない。

 しかし、俺たちの前に現れた神が裁定を下すよりも先に、少女はその剣の切っ先を天に向けたのだ。


 当然と言えば当然なのかもしれない。

 ハザーリャを殺めて神の座を奪った彼女は、今や再生者たちの女王だ。

 死者の摂理を世に広げんとする彼女にとって、『生きているだけで罪』などという裁きを下す神をそのままにはしておけない。たとえそうであったとしても、無制限に下される『罰』は既に暴走した権力に等しい。そして少女の剣は、そうした災厄を切り裂く為に存在するのだ。


(紀元槍に固定された神をそう簡単に殺せるとは思えないけれど、弱体化させることはできる。まして、ああして喰らってしまえば権能を永続的に奪ったり、神の座を横取りすることだって可能かもしれない)


 つまりは神権の剥奪。王位から転落した神は、零落していくだけだ。

 そしてその神がいるべき頂には、新たな女神が君臨することになる。

 あたかも、強大な神が弱い神を習合していくように。

 かくして神殺しは再び行われる運びとなった。

 恍惚とした表情で、ヴィヴィ=イヴロスが吐息を漏らした。


「お姉様がお隠れになったあの時からずっと。いつかまた会えると信じて、迎えることのできる場所を残そうと抗ったのですが、力及ばず――」


「いいのですよ、ヴィヴィ」


 優しい声が血を舐める音と共にかけられて、苦痛と快楽に苛まれる肢体が雷に打たれて痺れるように震えた。


「大半はラクルラールに取り込まれてしまいましたが、私以外にもお姉様を待ち焦がれている者は、沢山――」


「ありがとう。貴方のような妹を持てた私は幸せです」


「ああ、お姉様――」


 消え入りそうな儚い声で、死に行く魔女が笑みを作った。

 不死なる女神の眷族が命を落とすというのは、これまでとは違った形の命となることなのだと、ちびシューラが教えてくれた。彼女たちキュトスの姉妹は死なない。ただそれぞれの不死の形で別の姉妹に『代替わり』する。不死の形はそのままだから、本質的には不死性は変わらないのだそうだ。


(ヴィヴィお姉様は、演じられる限りまた甦るよ。キャラクターとして、その存在を思い出してもらえる限り、物語や舞台から現れるんだ。でも、あれはまるで、自分の不死の形までまるごと捧げようとしているかのような――)


 ちびシューラは、どこか不安そうにその光景を見つめている。

 そして気付いた。小さなクレイが、その横で手を組んだまま厳粛な面持ちで凄惨な絵を直視している。その身体が、注意深く観察しなければわからないほどかすかに震えていた。組まれた腕は、身体の震えを押さえつけるように強く力を込められている。その内心にどのような思いが去来しているのか。何もかもが分からないこの状況では、推測することすらままならない。


「私にとっては、あなただけがお姉様です。たとえその座を追いやられても、私はずっとあなたの妹。だからどうか、私をお姉様に捧げることを許して下さい」


 ヴィヴィは命を、存在を捧げている。

 血に塗れた献身。生贄のように、殉教者のように、魔女は肉を啄まれ、血を啜られ、骨をしゃぶられる。


「はじめから、私の供物となる覚悟だったのですね――いいでしょう。ヴィヴィ、あなたを私の森に招きます。その血肉を捧げ、再び我が王権を律する正義の剣となりなさい」


「お姉様、おねえさま――!」


 歓喜の絶叫が、そのまま断末魔となった。

 夥しい量の血液、呪力の象徴たる命の水が、余さず全て少女の中に取り込まれていく。朽ち果てた残骸が、少女の足下の大地に引き摺り込まれていくのが見えた。地の底から骨の手が幾つも現れて、神の屍体を仲間に引き入れていったのである。再生者の王国は、神すらその摂理の中に取り込んでしまうということだ。


(今のは、【生命吸収】? 神を飲み干すほどの吸収なんて――使えても不思議じゃないけど、それにしてもまるでセスカみたいな)


 ちびシューラが戦慄しながら目の前の意味不明な光景を俺に噛み砕いて説明しようとしてくれていた。

 【世界劇場】は、主を失った事で少しずつ崩壊しようとしていた。

 その世界観を飲み込んだ少女が完全に壊れるのを遅らせているらしいが、当人に浄界を維持し続ける意思がないようで、着々と世界は崩れていく。


「そう、今の私が貴方を喰らってしまったから、私は絶対遵守の権能を手にすることになったのね――そうとは知らず、生得的なものだと思っていたけれど」


 小さな独白。

 消えそうな声で、意味の分からないことを呟く少女。


「それとも、食べたのはずっと昔だったのかしら。私が忘れてしまったから、甦ってしまったの? だとすれば、これは私の手落ち――そして、あの色のない輝きのせい。未来から転生した私に与えられた運命は、こんなにも歪」


 暗い、底知れない感情が世界を軋ませていく。

 軽度の地震が断続的に続くような、そんな時間がしばらく続いた。

 やがて、振動が停止する。

 世界の至る所に、亀裂が走っていた。崩壊現象は一時的に抑え付けられただけで、いつまた地震が始まってもおかしくないのだ。

 少女がこちらに向き直って、血まみれの顔のままやわらかに微笑んだ。

 そして、何事も無かったかのように続きを演じる。


「さあ、可哀想な狼さん。どうか目を覚まして、貴方の声を聞かせて?」


 ゆっくりと。

 命無き骸が、骨の四肢を動かした。

 よろよろとおぼつかないが、しっかりと立つ四つ脚の獣は、まっすぐに濁った瞳をこちらに向けている。


 その奥に、どのような答えが秘められているのか。

 俺は恐れながら、何一つ決断できないまま――。


「さあ、こちらへ」


 全てを外部に委ねて、一歩を踏み出した。




 少し話をしましょうか、と少女は言った。


「【生存ウィクトーリア】という価値は、勝者の敗者に対する権力関係を規定しています」


 生者の死者に対する権力。

 未来から過去に対する権力。

 そして、選ばれたものから選ばれなかったものに対する権力。

 それは振りかざされるもの。一方的な力関係。

 世界はそのように不可逆だ。

 至極当然なあるべき摂理。けれど子供のように運命を拒絶する者がいる。


「生者は死者へと一方的に意思を押しつけることができてしまう。だからこれは冥府からの叛逆です。闇の底で魂の声を聞き、天に抗う不遜を心に抱き、終端を喰らって在るべき終わりを破綻させ、忌まれながらも冥道をこじ開けて、悲劇的な結末に否定を突きつけ、どうしようもない死の絶望を反転させる。神を殺して摂理をねじ曲げるという願いの成就。そう――私たちの今までの旅は、全てこの為に存在した」


 だから、俺に死者の声を聞かせるのだと少女は語る。

 そして、死者の代弁という行為がひどく暴力的な行為であると、強く詰る。

 ここにはいない誰かへの批難。


「言理の妖精は生きた言の葉。ゆえに、生きている人々の為に世界を彩り語るように作用します。その中に、私たち再生者は含まれていない」


 死者は疎外されている。

 穢れと忌まれ、弔われることで禊ぎとして共同体から放逐される。

 冷たい土の下に埋められて、燃やされて、鳥や獣に啄まれる。

 そうしておいて、都合のいい時にだけ見えているだとか、こう言っているだとか、好き好きに名前だけを使い倒していく。

 

「そんなひどいことを、そのままにはしておけません」


 少女の訴えに応じるように、狼が掠れた声で鳴く。

 寂しいのか、悲しいのか、弱々しい鳴き声だった。

 もしかしたら、怒りや恨みを向けようとしているのに上手くできないだけかもしれない。いずれにせよ、彼の内心とは関わりなく俺の行為はただの殺人だ。


 それでも、アズーリアの呪文は俺を救ってくれた。

 俺はカインを殺した事実を悔やんではならない。

 それは、俺があの時に受けた恩を――解釈を書き換えるあの優しい呪文を嘘にしたくないという身勝手な欲望から生まれた意思だ。被害者であるカインの心と死者の尊厳を踏みにじることで、俺は今の自分を肯定している。だからこれは俺の個人的な欲望でしかない。


 つまり俺は、自分の手で殺したカインの事を、あろうことかどうだっていいと考えているのだ。

 醜悪の極み。

 自分さえ良ければそれでいい。

 それが、俺を苛むものの正体だった。


(アキラくん、それはね、裏返しにもできる理屈だよ? 死者の尊厳の為に、アキラくんの心の安寧を犠牲にしていいということにはならない)


 ちびシューラは、そう言ってくれる。

 杖という合理性は、常に正しく前向きな結論を出してくれる。

 だが、俺はこの小さな魔女が誰よりも魂の尊厳を求めていることを知っている。この世界において、その形の無い聖なる価値が、途轍もなく重いのだということを理解できている。前世でなら下らないと一蹴できたような理屈であっても、この世界でならそれは切実なことなのだ。


(アキラくん、だめだよ――?) 


 こんなふうに、俺のことを案じてくれるちびシューラを蔑ろにはできない。

 彼女の言葉に耳を傾けることが正解だ。

 けれど、今ここで問題にされているのは、選ばれなかった不正解の方なのだ。

 間違った、非合理的な、選ぶべきでない、呪術的思考。

 誰かが幸せへと向かうというその足下で、土に埋められた死者を想うこと。

 それこそが、死人の森が求めていることなのだと、そう思う。


 そして、俺の罪はそれだけではない。

 人殺しを忌まわしいと思い、殺人を悔やみ、それを心の傷とするような人格こそが倫理的に正しい。その前提に立つならば、少なくとも『罪を悔やむ罪人』というポーズはとれる。反省している加害者という盾を掲げて身を守ることができる。『私はこんなにも自責の念で苦しんでいるのでもうこれ以上責めないで下さい』などと、加害者の分際で俺はそうやって保身に走る。そうだ、だから俺は殺人鬼でなければならない。利潤を得る為に自殺を幇助するだけの、醜い悪魔そのものでなければ余りにも卑劣だろう。


 加害者と被害者の関係は、常に加害者側が裁かれるべき存在、許されざる悪でなくてはならない。罪の所在を赦しによって曖昧にしてはならない。殺人鬼は呪いに塗れた我欲の化身。俺は自らを悪魔のような存在だと強く実感する必要があった。


 俺は決断をトリシューラに委ね、勝手気ままに世界を弄ぶ魔女の使い魔となることでその願いを叶えたが――死人の森の女王はそんな俺の欺瞞を暴き立てる。


「赦されたくない――それが、あなたの自己愛」


 かつて、トリシューラとはじめて会話した時にも指摘された俺の醜さ。

 自罰的な甘え、俺は悪くない、これは本意じゃない、罪の意識を感じているから俺は本当は善人で反省しているから許して下さいほら情状酌量の余地がありますだから裁かないでください減刑されてしかるべきでしょう?


 いっそ、黙っていればいいのに。

 言葉が通じないままであったなら、そんな悩みも存在しなかった。

 ただ暴力に溺れていればよかった。生きることに必死でいればそれ以外には何も考える必要が無かった。


(アキラくんは、悪い魔女の使い魔だよ。笑いながら沢山の命を弄ぶ殺人鬼だよ。それじゃあダメかな? アキラくんは、いいひとでありたい?)


 寂しそうに問いかけてくるちびシューラに、俺は答えを返すことができない。

 全ては、俺が放置し続けてきた嘘の対価だ。

 醜さ、邪悪さ、卑劣さ、その全て。

 それを、甦った死者は明らかにしてしまう。

 代弁ではなく、墓の下から掘り返された真なる死者の言葉。

 カインは、変わり果ててしまった屍の犬は、何を思うのか。


 脳すらも全て交換可能となった俺にとって、意識の連続性など些細な問題に過ぎない。カインはカインだ。コルセスカがコルセスカであるように。

 だから、俺は跪いてその言葉を聞くことしかできない。

 カインはもうかつての思考を保っていないのかもしれないが、それでも。

 人狼の喉が響かせたのは、次のような言葉だった。


「痛い」


 そして、


「苦しい」


 それから、


「死にたくない」


 そうした言葉の、繰り返し。

 考えてみれば当たり前の、原始的な欲求。

 死に際に人が何を考えるか。

 恨みや怒り、憎しみといった感情ももちろんあるかもしれない。

 けれど、それよりもずっと強いのはただ苦痛であるということ。

 耐え難い痛みから逃れたい、楽になりたいという願い。

 その最後の手段として、人は死を望むのだ。


「苦しいですよね。ごめんなさい、今、肉を全て取り去ってあげますね」


 少女が狼に手を触れると、腐りかけの肉が全て灰になって、後には白い骨だけが残った。神経がどこにも通っていない白骨狼は、もう苦しみを感じることはないのだろう。頭を持ち上げて少女の足にすりつけると、元気よく辺りを駆け回る。楽になった身体をめいっぱい動かせるのが心底から嬉しいようだ。


「歴史を変えてしまいました。本当は、貴方に見せつける為に屍肉を残したまま甦らせることになっていたのですけど。もう、その必要は無いみたいですから、いいですよね?」


 そんな言葉も、どこか遠く感じられてならない。

 俺は、あの狼に何を期待していたのだろうか。

 決まっている。アズーリアの呪文を肯定して欲しかった。

 楽にしてくれてありがとうと言って欲しかった。


 同時に、絶対に許さない、お前が憎いと責めて欲しかった。

 それを自然な感情だと納得して、安心して裁かれることができる。

 罰を受け入れられる自分は、邪悪ではないと思い込める。

 罪という穢れを罰という禊ぎで清算したい。

 さっさと楽になりたい。俺を責めるな。俺は悪くない。

 矛盾する意思は、全てが自分に都合良くあってほしいというどうしようもない欲望から生じたものだ。


 笑おうとして、失敗した。

 もう俺を守る嘘は消えている。

 逃げ場などどこにもない。


 目の前には、罰神を喰らってその権能を奪った新たな罰の女神がいる。

 縋るように、目を合わせてしまう。

 どうして、彼女はこんなにも優しく厳しいのだろうと不思議に思う。

 甘えと自己愛、それだけしか残っていない俺という汚物に、血に濡れた少女はまっすぐな言葉を贈ってくれた。


「あなたは屑です。生きる価値がありません」


 少女は、どこまでも優しい。

 甘やかな想いがとても心地良く感じられた。

 小さな両の手で、幼子を抱きしめる母親のように触れてくる。


「けれど、赦します。その甘え、その自己愛、その苦しみ。あなたの自罰意識は理想的な自己像を守る為の防衛機制。正しくありたいという肥大化した自尊心の慰撫。それを、裁定神の名において、この私が赦します」


 そんなものは、もう審判でも何でもないだろうに。

 それでも彼女は、そんなことを俺に言うのだ。

 赦すと、それでいいと。

 つまり、それが意味するところとは。


「赦されたくない、裁かれたいという欲望があなたの慰めになるのなら、私はあなたを赦さず、その罪を裁くことであなたの醜さへの赦しとしましょう」


 差し伸べられた色のない左手を思い出す。

 危険を顧みずに金鎖を砕き、救い出してくれたあの人の記憶を確かめようとして、何度も反芻してきた感触が消えていることに気がついた。


 ずっと護り続けてきた、一番大切なものが砕け散ってしまった。

 言理の妖精語りて曰く。

 すくいは、夢のように消えてしまったのだ。


「俺は加害者だ。カインの命を、死を、意思を、尊厳を、全て踏みつけにして、だから、俺は、俺は――」


 『本人に望まれた死』と『殺してくれたことへの感謝』が俺の苦痛だった。

 だが少女は死者が望んだことの裏面を示すことで俺を救ったのだ。

 代弁ではない、死者当人の言葉。

 実行に移されなかった内心。

 生の継続を願う、カインの『選ばれなかった意思』は救いだ。

 それがただの悲鳴であっても、それが事実であるのなら、それは優しい呪文によって編まれた真実を切り裂いて、『ほんとう』になるのだ。


 今更になって気付いた。

 俺にとって、再生者の有り様がどんなに魅力的だったことか。

 俺だけではないだろう。それは万人にとっての救済だ。 

 痛みによって意思を制限されることを、俺は憎む。


 ――そんなものは、選択肢が無いのと同じだ。


 選択できないことが、それを強要されることがたまらなく嫌だ。

 だから、暴力も死も、その価値を零落させてしまえばそれが理想。

 殺人鬼だなどと、出来もしない願望を口にする必要は無い。

 全てを赦す死人の森が、俺が本当に選ぶべき世界だった。

 今、そう確信した。


 小さな妖精の声が耳の奥でしていたけれど、もうすでに聞こえなくなっていた。クレイの剣が、その華奢な身体を切り裂いていたからだ。

 蜂蜜色の髪の少女に傅いて、全てを委ねる。

 それだけでよかったのだ。

 俺の中には、もうこの人しかいない。


「帰りたい――」


 知らないうちに、そんなことを呟いていた。

 どこに帰るというのだろう。居場所など、もう全て捨て去ったというのに。始まりの呪いも、主従の契約も、もはやどうでもいいものでしかない。


「いいんですよ。これからはずっと一緒。ママのお腹の中に帰りましょうね」


「お母さん――」


 気を抜くと、目蓋が落ちてきそうになる。


 ひどく眠い。このまま微睡みに身を委ね、この人に抱きしめられて眠りたい。

 この世界はとてもつらくて寒いから、お母さんのお腹の中が一番安心できるんだ。無条件で包み込んでくれる、暖かな愛情がそこにはある。


「『罰』とは『きまりごと』と『契約やくそく』を破らないために仮構しておく抑止の力。想像されることで人を縛る、未だ訪れないがゆえに恐れられる未知――されど、条文や過去の先例を参照することで誰もがそれを恐れ、形の無い『罰』は力を持つのです」


 お母さんが、叱ってくれる。

 優しく、お仕置きをしてくれる。

 構ってくれる、愛されている、自分の為を想ってくれている。

 ただそれだけで、他の全てがどうでもよくなってしまう。


「だから、これは呪術なのです」


 幼い唇が、ひどく艶めかしく感じられる。

 この世で最も愛おしいひとは、この相手なのだと確信する。

 繊細な指が、額を軽く叩いてくれた。


「おいたは、めっ、ですよー」


 罪人は法によって裁かれる。

 それが正しさ。

 白い骨で組み立てられた模型のような狼が、近くに座ってこちらを見ているようだった。森の中で、彼と一緒に過ごすのも悪くない。それはきっと幸福だ。贖罪は長い時間をかけてゆっくりとしていこう。再生者には無限の時間があるのだから、焦ることは無い。誰もが優しく許し合える。


 全てが蕩けるようで、そこは夢の中のようだった。

 少女が微笑みかけてくれる。

 心が満たされていった。


「ねえ、おままごとを、しましょう?」


 ぼんやり頷く。

 そういえば、もうすでにきちんとした演劇になっていなかった。

 せめて最後くらい、過去にやってきた未来人という役を演じてみるのもいいだろう。全てのしがらみを忘れて、物語に結末をつけるのだ。


「私は、幸せで蕩けるような恋の話がしたいです。偶然出会った二人は旅をして、恋に落ちて、別れ際に約束を交わすの。私たちはそれぞれ帰るべき王国があるけれど、大人になったらまた出会って、きっと結婚しようって」


 夢見るように、夢のような話をする少女のことが、とても眩しかった。

 少し照れくさい筋書きだったけれど、それは紛れもなく幸福だ。


「ねえ、あなたは私のもの。もう誰にも縛られない。呪われない。約束をするのは、私とだけ。私だけにあなたを守らせて。私だけを守って、愛して」


 頷いて、約束した。

 それはおままごとのような、拙い劇だった。

 ただ二人で、それらしい台詞を読み合わせるだけ。

 けれど、俺たち役者の事情など何の関係も無く、ただ純粋に恋の物語を演じる登場人物二人はとても幸せそうで、それを肯定したいと思った。


 俺は意識を未来へと帰還させて、肉体を死人の森の中に眠らせて女王に預けることを決めた。それが、あるべき流れだったのだ。

 遙かな未来で、目を覚ました俺は彼女の中から新しく生まれる。

 俺は再生者オルクスとして転生しよう。


 大いなる女神の使い魔となって、俺たちの敵を全て倒すのだ。

 迷いは無い。

 これこそが、俺の本当の望みだったのだ。







 何と愚かな約束だろうか。

 劇の中の少女は何も知らない。

 女王の意識が未来へと帰還すれば、いつか必ず会いに来るという言葉を信じて、ひたすら待ち続けることになってしまう。


 死人の森を統治する傍ら、指折り歳月を数えて約束が果たされる日を切望する。再生者の時間は永劫だ。だから長い時を、ずっとずっと待つ事ができる。

 絶対遵守の権能は、神々の権能を奪うことで生まれた掟の力。

 だから、彼女の約束は必ず果たされる。

 必ず遵守されるのだから、一方的に破棄することなど赦されない。

 いつまでたっても待ち人が来なくても、約束を信じ続けるという選択肢しか存在しないのだ。

 

 どうしてだろう。

 少女はある時気がついた。

 彼の顔が思い出せない。

 心の中に愛しい人の表情を浮かべようとすると、それは霞のように消えてしまって、別の誰かが微笑んでいる。

 彼は、そんな風に優しく笑ったりはしていなかった。

 これは、自分の願望なのだろう。


 春が来て、夏が過ぎ、秋を待って、冬に祈って。

 そうして順繰りに巡っていく季節をただ待つ事だけに費やした。

 けれど、いつまで経ってもその甲斐は無く、白銀に染まった森の中、ぼんやりと誰かを呼び続けるのだ。


 名前も知らない。顔もわからない。

 それでも、忘れられない。

 待つ時間は悪夢だった。

 約束は呪いだ。


 来ないことはわかり切っていた。

 悪夢は永遠に循環し続ける。自分が望む幸福な結末は弾けて消えて、膨れあがった時間は切り離されて浮上していく。

 夢の底で眠り続ける私の意識は、絶えず悪夢を海面へと送り出していく。


 ――私の見た夢が、待ち続けるだけの苦痛が、せめて貴方に届けばいい。


 いつしか、そんなことを考えるようになっていた。

 この胸の痛みを少しでも共有してくれる人がいたのなら、その誰かが自分を見つけてくれるかもしれないから。


 浮かび上がった悪夢の泡。

 どうかこの痛みが、彼を苦しめてくれますように。


 気付けば、誰もいなくなっていた。

 傍にいてくれた従僕たちは、皆、女王の森の中で眠っている。

 あまりに長い時に、疲れてしまったのだ。


 女王も、再生者たちも。

 生も死も無い再生者にとって、眠りはどうしても必要だった。

 睡眠は疑似的な死だったから、再生者たちはもう得られない死をそうやって抱きしめて、生きているという実感を得るのだ。

 女王も長い微睡みを繰り返して、いつしか再生者の王国は忘却の中に溶けていった。存在が薄れていく。疲れ果てた長命種族の、典型的な末路だった。


 このままではいけないと、そう思った。

 約束がある。

 それは果たされなければならないものだ。

 何か、何かないだろうか。

 そんなことを考えている時だった。

 それが現れたのは。

 

「私の名はグレンデルヒ=ライニンサル。貴様を征服する男だ」


 利用できる。

 自ら、一歩を踏み出すことに決めた。

 待つのはもうやめよう。

 だからといって、ただ自分から会いに行って求愛するなんてことはしない。

 彼を私と同じ存在にしてあげよう。

 同じだけ、苦しめてお預けを食わせてやるのだ。


 無限の時間、永劫の運命、絶えざる揺らぎ。

 その悦楽と苦痛の全てを、彼と共有できたなら。

 それはきっと、とても嬉しいと、そう思うから。


 ずっとずっと、貴方だけを待っていた。

 呪いのように、長い時間。

 心が凍えるような、恐ろしさ。

 

 待ち人来たらず――それが、私と貴方が共有する悪夢の形。


 でも、貴方は来てくれなかったから。

 なら自分から会いに行こうと思ったの。

 私は、あの『色無し』とは違う。

 だからどうか、お願いだから。


 私を求めて。

 私のことを、ちゃんと見て。


 浮かれた約束を、後悔なんてしていない。

 お話というものは、だいたい最後は結婚式で幕を閉じるものだ。

 それは、望まない結婚なんかではなくて。

 運命で決められた恋人との聖婚などでもなくて。


「だめです。私はまだ結婚ができる歳じゃありません」


「いくらでも待つ。大きくなったら一緒になると、約束してくれないか?」


「それなら、ええ、喜んで。約束しましょう?」


「ああ、約束だとも。たとえこの身が朽ち果てても、君を迎えに参上しよう」


 ――もちろん、それがお約束。







 トライアンドエラーの果て。

 どうしようもないしっぱいが自分の起源なのだとすれば、今度こそ夢を叶えたくなったとして、誰が責められるだろう。

 運命とは関わりのない、自由意思で選んだ相手がいい。

 誰かに決められた約束ではなく、自分で交わした約束がいい。

 世界を終わらせる結婚式なんて嫌だった。

 未来に希望が見いだせるような、そんな幸福が欲しいだけなのに。

 だから、子供のように約束したのだ。


 口づけるのは、ほっぺたにだけ。

 続きは大人になってから。 

 だから、ちゃんと私を迎えに来てね?

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