3-32 言理の妖精語りて曰く③

 張り詰めた空気は今にも破裂してしまいそうだった。

 発光植物の淡い照明だけがその場所で唯一の光源で、横たわった重苦しい闇は静かな沈黙をその場所に強いている。

 洞窟の中、並んで横たえられたメイファーラとプリエステラの前で、黒い肌の医療修道士が額に汗を浮かべながら【修復】の術を行使していた。


 二人の状態は傷口を塞いで出血を一時的に止めただけであり、未だに予断を許さない状況らしい。特にプリエステラの胸を刺し貫いたナイフには毒が塗ってあり、極めて危険な容態であることが告げられていた。


 イルスという男が使う【修復】は極めて強力だったが、それでも二人を安全な状態に持ち直させる事は容易くはないようで、治療に取り掛かってからかなりの時間が経過している。こうしている間にもミルーニャか骨花、どちらかの追っ手が追撃を仕掛けてくる可能性がある以上、そう猶予はないと思っていた方がいいだろう。


 座り込んでいたペイルが、居心地悪そうに身動ぎをする。恐らく交代で哨戒にあたっているナトの所に行きたいのだろうが、無防備なイルスの身を守るためにこの場所を離れられないのだ。やはり、これ以上ここに居続けるのはどんなに剛胆な心の持ち主でも堪えるのだろう。


 周囲から放射される、強烈な敵意――いや、それすら超えた殺意。

 私は、ティリビナの民たちの集落に辿り着いた直後のことを回想する。

 ティリビナの民は先に私達が訪れた時とは打って変わって、極めて敵対的な態度になっていた。子供達はひとかたまりになって大人たちの後ろに隠れ、ひどく怯えてこちらを窺い見ていた。


 先程までは私がローブで素性を隠すことでどうにか誤魔化せていたが、必死に逃げてきた為にペイル達にそのような偽装をする暇がなかった。迂闊だったが、思い至った時にはもう遅く、松明の紋章を胸に刻んだペイル、破損しているとはいえ修道騎士の甲冑を身に纏ったナト、誤解のしようのない祭服を着たイルスはティリビナの民の前にその姿を晒してしまっていた。


 ティリビナの民にとって修道騎士とは自らの故郷を焼き払った最悪の仇であり、修道騎士にとってティリビナの民とは討伐すべき異獣である。一度出会えば戦いの他に道は無い。それが本来の両者の在り方である。


 しかし、昏睡し続けるプリエステラの存在が状況をややこしくしていた。

 現在、ティリビナの民の集落には医術士と呼べる存在がいなかったのだ。定期的に外部から運ばれてくる物資には高位の治癒符も含まれていたのだが、それではとても治せないほどプリエステラの状態は悪い。しばらく前までいた高齢の医術士は先日病没しており、その医術の全てを受け継いだのはよりにもよってティリビナの巫女たるプリエステラただ一人。彼女から少しずつ教えを受けていた者もいるのだが、その技量は到底長年の訓練を受けた専門家に及ぶべくもない。


 そして、この場にいる最も優れた医術の使い手はイルスなのだった。

 ティリビナの民達は反発した。仇敵たる修道騎士に大切なティリビナの巫女の命を預けることなどできないと口々に言い立て、さりとてプリエステラを救う代案もなく、場は荒れに荒れた。ティリビナの民たち同士で二派閥に分かれて激論を交わし、果ては殴り合いの騒動にまで発展しかけたその時、イルスが動いた。

 

「医術に携わる者として、目の前で失われようとしている命を見捨てることはできません。どうか、俺に彼女を治療させていただけませんか」


 それはティリビナの民も用いている亜大陸方言だった。イルスがそれを使えるのは、恐らく彼が黒檀の民系の人種だからだろう。かの黒い肌の人々は、かつては南方の亜大陸に住んでいた。ティリビナの民と共に。

 真摯に頼み込む男を幾つもの視線が貫いた。やがて、一人のティリビナの民が前に進み出て、イルスに声をかけた。


「その訛りからするとトゥルサ辺りの出身か」


「はい。生まれはハルムシオンでしたが、両親の改宗を期に北の境界域に移りました」


「なるほどな。まあそんなところだろう。若さからして、お前さんらは虐殺には参加していなかったんだろうが、だからといって我々がお前さんらを信用できるかどうかは話が別だ」


「承知しております」


「特にお前さんが一番信用できん。言っている意味はわかるな」


 黒檀の民はかつてティリビナの民と同様に亜大陸――地上の南方に位置する大きく突きだした半島に住んでいた。金色もしくは黒色の髪に黒色の肌という身体的特徴は、明らかに樹木系の種族よりも霊長類寄りではあったが、本大陸では迫害されていた。黒檀の民たちは辿り着いた亜大陸でティリビナの民をはじめとする諸部族と上手い具合に共生関係を築くことに成功した。黒檀の民が信仰する自然の精霊たちはティリビナの民が信仰する樹木神レルプレアと同じものであり、その文化や風習、呪術的な技術までも相互に補完し合うことができる特性があったのだ。ティリビナの民たちの姿は霊長類よりも樹木のそれに近かったが、彼らは黒檀の民と共存できていた。亜大陸は見た目や宗教、文化によって迫害されてきた者たちが行き着く地上最後の楽園だったのだ。


 だが、その平穏は大神院によって破壊された。

 亜大陸の教化と改宗が一向に進まないことに業を煮やした大神院は、ついに松明の騎士団に『聖絶』の命令を下したのである。


 聖絶――すなわち、亜大陸に住まう全ての異教徒を滅ぼし、その文化を破壊し、聖なる松明の火であらゆるものを灰燼に帰して槍神に捧げよという指示である。


 かつての亜大陸には広大な大森林が広がっており、緑の霊峰と呼ばれるミューブラン山が聳えていた。その美しくも雄大な自然、幽玄な光景は世界有数の秘宝とも言われていた。その麓には数多くのティリビナの民たちが住まい、自然と共に生きていたのだ。


 現在では、亜大陸と聞けば誰もがまず不毛の砂漠を思い浮かべる。ミューブラン山と言えば木の一本も生えていない三角錐を想起する。

 松明の騎士団は天使ピュクティエトの名の下に大森林を焼き払い不毛の砂漠とし、美しい深緑の霊峰を禿げた錐体に貶めた。そしてティリビナの民を文字通りに一人も残さずに絶滅させるべく徹底的な虐殺を行った。そこに老若男女の区別は無い。文字通り、生きたまま炎にくべていったと言われている。


 私達の世代はそれを歴史的な事実としてしか知らないが、しかしティリビナの民たちの中にはその凄惨な体験を生き延びた者が多くいるはずだった。子供達もその恐ろしさを聞かされて育ったのだと思われる。


 修道騎士が掲げる象徴たる松明は、大神院にとっては人間の未来を照らす希望の灯りだが、『人間以外である』と定められた者達にとってはあらゆる希望を焼き尽くす地獄の業火だ。いや、地獄に逃げた者達にとっては、それは地獄の業火などより余程忌まわしいものに違いない。

 

「その歳じゃあ自覚もなかろうが、お前さんら黒檀の民は私達を裏切った。我が身可愛さに私達を売ったんだ」


 黒檀の民は槍神教に改宗しており、現在でも地上で生きることを許されている。その結果が全てを物語っていた。皮肉にも、地上では黒檀の民といえば敬虔な信仰者のイメージと共に語られる存在だ。そう振る舞わなければ生きることすら許されない。地上ではあらゆる人種が監視され、管理される。


 黒檀の民の守護天使として設定されたのは、第八位の天使ピュクティエト。松明の騎士団の守護天使でもあり、亜大陸を焼き払った炎の化身でもある。それは大神院が用意した枷であった。


「我々の先祖は行き場の無い漂泊の民に同情して共に生きることを選んだ。それ以来お前さんらは樹木の名を冠する黒檀の民と名乗ることになった。そして霊峰ミューブランに誓ったのだ。共に大いなる自然、女神レルプレアの手に抱かれて生きていこうとな」


 黒檀の民たちはかつての文化や信仰、そして共に生きてきたティリビナの民を捨ててでも生き残る道を選んだ。私達と人狼のように。天眼の民と蜥蜴人のように。ティリビナの民の糾弾は、私達のような眷族種たち全てに当てはまる。


 生き残るために他者を切り捨てる。これは地上が抱えた呪いだ。そこから自由になるには、異獣となって地獄に堕ちるしか無いのだ。

 あの――自由と正義、平等と幸福に満ちた、清らかに狂い続けている異形の大地に。

 ティリビナの民はそこにも馴染めず――結果、どこにも行き場の無い漂泊の民となっている。奇しくも、かつての黒檀の民のように。


「俺は、子供の頃に死にかけたことがあります」


 イルスはそう言って、感情の見えぬ無表情で語り始めた。


「仰るとおり、俺は『聖絶』以前の時代を知りません。ですが、当時のハルムシオンの様子は知っています。あそこにあったのは行き詰まりだけでした。街路では統一主義者たちが本大陸の言語で槍神教の教えを叫び、国粋主義者たちが独立を訴えていました。デモ隊の衝突や暴動は日常で、呪符や端末での爆破テロがあちこちで起きていた。レルプレア神の守護天使認定を大神院に訴える改宗者を精霊原理主義者が公然と私刑にかける。彼らもその翌日には修道騎士たちに逮捕されて処刑される。あそこは今もそうです」


「全員が裏切ったわけではないと、そう言いたいのか。それとも生きるためには仕方無かったと?」


「いいえ。少なくとも俺は自ら望んで裏切りました」


「なんだと」


「国教が槍神教になると言われても、即座に人の意識が切り替わったりはしません。上の方で政治家や宗教家が勝手に決めた事。そう思っていた者は少なくなかった。俺の家は精霊呪術医の家系で、信仰を捨てる事が失業に繋がるという事情もありました。たびたび訪問してくる大神院の神官たちの目を盗んで、レルプレア神と精霊に祈りを捧げていました。ある時、治療時に唱える精霊への祈祷の文言を聞かれて患者に密告されました。幸か不幸か、知らされたのは松明の騎士団ではなく統一主義者の団体でした。密告先が松明の騎士団だったなら俺は生きてはいられなかったでしょう。家は爆破され、両親も兄弟達も、そして俺も瀕死の重傷を負いました」


「そのような境遇でありながら、何故槍神教に鞍替えした? 奴らが憎くはないのか」


「その時に俺と家族を救ってくれたのは、ある医療修道士でした。槍神教の病院修道会に所属していた彼は、亜大陸の医療環境を改善する為にハルムシオンを訪れていて、偶然その現場に居合わせたそうです。かろうじて意識のあった俺は治療を拒否しました。理由は、多分あなた方と同じです」


 必要だとわかっていても割り切れない感情がある。憎しみ、恨み、敵意。感情を排して合理的な判断をすることを、あえて選ばないという道もある。誰しもが、憎悪や怨恨を否定したくは無いからだ。私だって、仲間の仇であるエスフェイルへの怒りや憎しみを捨てろと言われたら否定するだろう。命を救われるなど更に耐え難い。

 それでも、イルスは言葉を続ける。必死に、それしかないというように。


「俺は異教徒であることを明かして殺せとまで言いましたが、彼はそれを関係無いと言い切りました。たとえそれがどのような主義主張や信仰の持ち主であったとしても救う。それが自分の為すべき事だからと。彼は五人の部下と共に、俺たち家族を救ってくれた。俺達が改宗して本大陸との境界付近に移住したのはその直後です。俺は自ら志願して槍神教の医療修道士になりました」


「お前さんはつまり、全ての槍神教徒が邪悪ではないと、そう主張したいわけかね」


「いいえ。槍神教徒である限り、俺達は常に誰かを踏みつけにし続けている。それでも、尊い行為とはそれを為す人物とは別に、確かに存在する。人を救うための技術や道具は使い手に関係無く尊いと、俺は思います。実を言えば、俺は槍神など碌なものではないと思っている。ですが、進んだ槍神教の医療神働術を学ぶために本大陸に渡りました。そうすればより多くの人を救えると信じたからです。俺が信じているのは槍神ではなく、医術そのものです。俺の神は医術だ。俺が憎いのなら憎めばいい。治療によって恩義を感じる必要も、憎い仇に救われたと感じる必要もない。救うのは技術であって俺じゃない。あなたたちは存分に俺を憎み、そして技術によって彼女を救わせればいいんです」


 一気呵成に捲し立てるイルスの勢いに、ティリビナの民たちは少しだけ息を飲んだようだった。当惑、ざわめき、ひそひそとした話し声。それでも隔意が消えることは決して無い。そこで、イルスは駄目押しとばかりに決定的な材料を投下した。


「俺は精霊祈祷による呪術医療の心得があります。家にある書物を読んだだけの独学ではありますが、ティリビナの民や樹妖精アルラウネの体構造に関しても把握しています。この技術を用いれば、きっと、いや必ず彼女を救えます」


 それが決定打だった。憎い仇の技術ではなく、あくまでも彼らの知る亜大陸の医術がティリビナの巫女を救うという事実。実際にはイルスは神働術も組み合わせて治療行為を行うのかも知れないが、それでも心理的な障壁は幾分低くなったようではあった。多分それが、ティリビナの民たちが自分たちに『仕方無い』と言い訳ができるぎりぎりの線だったのだと思う。


「もう一つ、ハルからも補足しておく。間もなくこの場所に、彼女を傷つけた敵がやってくる」


 そう言ってハルベルトが端末を操作すると、録音された音声が流れ出した。『殺すべきです』『またとない機会ですよ。枯れ木族の固有種――』ミルーニャの声だった。プリエステラに対しての『狩り』の提案――確かにそんなやり取りがあったが、ミルーニャはあの後その言葉を撤回していた。しかし録音は編集され、ミルーニャが探索者としての冷徹な顔を覗かせた場面だけが強調されていた。


「敵はまだ健在で、とても危険。敵が標的と定めている相手だけでなく、その他にも累が及ぶ可能性がある。力を合わせなければとても撃退できない。あなたたちの力が必要――そして、ティリビナの巫女の力が」


 ハルベルトはあからさまな嘘を使わなかった。微妙に真実を歪ませて、強引にティリビナの民を巻き込んで利用しようとする、まさしく邪悪な魔女の手管。

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