3-30 言理の妖精語りて曰く①
月光は何色だろう。
黄色、黄金、銀色、青ざめた色。時には血を思わせる赤や橙。
夜空に浮かぶ四つの月は様々な表情を私に見せてくれる。
千差万別。輝度も彩度もそれぞれ様々で、どこまでも広がる夜をどこか不自然なぎこちなさで照らし続ける、それは歪な天蓋だ。
金色の花々が視界の脇で揺れている。仰向けで夜空を見上げながら、ぼんやりと思考を巡らせる。月の色など見る人の気持ち次第。ならば、今宵の月光はきっと白だと私は思った。この夜で最も力強く輝いている色彩は、目の醒めるような純白なのだから。
白い光に照らされて、可憐な少女が金の花畑の中でくるくると舞い踊っている。フリルが踊り、白を基調とした色彩がゆらめいて、淡い軌跡を夜に描いた。
まるで映画のワンシーンだ。あるいは、美術館の立体動画展か何かでこんな光景を見たことがあったかもしれない。
けれど、見るだけの創作物とは決定的に異なる点がひとつだけ。
嬌声。童女のような、甲高いはしゃぎ声が冷えた大気に響く。
少女の血に濡れた中指から小瓶が現れ、回転するたびにそれが軽やかに投擲される。
「ぽーんっ」
擬音を口にして、少女は楽しそうに笑った。中指からは小瓶が一つ、二つ、三つ、それからまとめて六つ。いくつもいくつも、毒々しい緑や紫色の液体が入った瓶を投擲し続ける。宙を舞う脆い小瓶はどのような仕組みか上昇の最高点で砕け散る。
「がしゃーん、ばりーん、どっかーん!」
散らばった透明な硝子の破片――砂糖と澱粉を混ぜ合わせた飴のようなそれが、月光を反射してきらきらと光の幻像を描く。
爆発、酸毒、幻覚作用。鮮烈な色とりどりの輝き、強烈な熱と衝撃、致命的な破壊をもたらす劇物に、精神を侵す無味無臭の気体。【安らぎ】で抑え込んでいても感じる強烈な頭痛。容赦のない物量攻撃が、まるで遊ぶような軽やかさで私を、私達を襲う。
――どうしてこんな事を?
――貴方と戦いたく無い。
――どうか話を聞いて。
嘲笑と投擲がその答えだった。困惑の渦に叩き込まれながら、私はただ脅威から逃れようとするばかり。
皆殺しの意思を快活な笑顔の中に示して、ミルーニャ――メートリアンは小瓶を投げる。放物線を描きながら、倒れた私に酸毒が迫る。跳ね起きて回避した私を襲う、小瓶とは別の脅威。
重い、あまりにも重すぎる衝撃。圧倒的質量。槌矛を前に出して防御しなければ、そして今が夜でなければ確実に即死していたであろう打撃。
途方もなく巨大な拳が、私を吹き飛ばした。槌矛の頑丈さと、それを作ってくれたラーゼフに感謝する。花畑を転がりながら、今度は無防備に倒れ込むことなくどうにか受け身を取ることに成功した。
くるくると楽しそうに踊る少女の傍らに、守護者のように立つ巨大な影があった。
それは言葉通りの巌だった。
腕は私の胴体よりも太く、足を持ち上げればどのような人類であっても容易く踏みつぶされるであろう質量。たとえば私を圧倒してみせた修道騎士のペイルは平均的な霊長類男性の身長を優に超える巨漢だが、彼ですら見上げるほどにそれは大きかった。人に数倍する巨体を誇る、頑強な岩で出来た人形――杖使いが使役する人造の使い魔。
錬金術師の中には、木や粘土、岩や金属などを素材にして人形を操るものがいるという。命令に忠実に動く感情と知性を持たない巨大な石像は、少女が戦闘の意思を露わにした瞬間、地中から出現した。
金箒花は、パレルノ山に埋蔵された呪鉱石の影響を受けて多量の呪力を蓄える。そしてこの辺り一帯は呪鉱石が大量に埋蔵された呪波汚染帯だ。白い錬金術師は地下に眠る呪鉱石を素材にしてあの巨大な石像を作り出したのだろう。
ただの石像ならば呪術で粉砕できる。しかし、呪鉱石の塊なら話は別だ。
ハルベルトが遠くから放った【爆撃】が石像に直撃する。私の唱えるものよりも遙かに強力な爆圧は、しかし石像に傷一つ与えることができなかった。
灰色の全身に埋もれるようにして見え隠れする、色とりどりの呪鉱石。赤、青、緑、茶、灰と様々な色彩が呪力を放ち、どのような呪術も石像に蓄積された高密度の呪力によって弾き返してしまうのだった。
万全の態勢を整えた錬金術師ほど怖いものはない。杖使いは呪具がなければ何も出来ないが、呪具さえあれば物質的には比類無き強さを誇る。呪文使いの曖昧な力など、軽くねじ伏せられてしまうのだ。
「ああ、素敵、素敵、とっても気分が爽快です」
彼女を何と呼ぶべきか、私は未だに迷っていた。メートリアンという名乗りを受け入れると、なんだか取り返しのつかないものが失われてしまうような気がしてならない。
だから私は内心で悪足掻きをする。
ミルーニャ。白い少女は、意地の悪そうな笑みを浮かべてこちらを見た。突然に流血して倒れたメイファーラを嘲笑う。
「面倒な三つ目の奴を先に潰せたのは僥倖でしたぁ。咄嗟の事とは言え、確認もせずに【
よくわからないことを良く回る口で軽やかに捲し立てていく。その意味が、彼女のしていることが、この期に及んでもまだわからない。
「どうして、こんな事を」
その問いを口にしたのは私ではなかった。距離を置くことで攻撃をどうにか回避してのけたハルベルト。今はペイルたち三人の近くにいるようだ。
彼女の疑問は私と同じものだったが、その質は少し違うようにも感じられた。私よりも、より多くの事に気付いていながらそれでも信じ切れないでいるような――。
「メートリアン。あなたは【杖の座】の予備候補。ハルたちの支援に回るはずのあなたが、どうして」
「はぁー? 白々しいんですよヴァージリア。私が【呪文の座】の候補でもあったこと、貴方ならよぉく知っているはずでしょう。この私を蹴落としてその座を勝ち取ったのは、他ならぬ貴方なんですから」
憎々しげにミルーニャは口にした。彼女は、ハルベルトをどうしてか別の名で呼ぶ。いや、その理由は私にもなんとなく察することができる。ハルベルトは教えてくれた。彼女は【最後の魔女】の候補者なのだと。つまりこれは、【星見の塔】の勢力争いなのだろう。ハルベルト――言葉の意味はわからないけれど、それはつまり【呪文の座】の候補者が襲名する役割名なのだ。
「なにせ私たち【黒百合の子供たち】はみぃーんな『そう』なんですからね。誰も彼もが脱落して、最後まで残ったのはヴァージリアひとり。私は敗北を認められずに醜く足掻いて、予備候補の支援役なんて端役未満の座にどうにかしがみついた。要するに根暗で鬱陶しいあなたや苛つくトリシューラの雑用係。屈辱ですよ――なんて差でしょうね、ヴァージリア? 私、とっても惨めだと思いませんか?」
「こんなことをしても、九姉評議会はあなたを正式な候補者とは認めない。こんな争いは無意味」
「無意味、そうですねえ。確かにそうかもしれません。でも私思うんです。だからといって、何もかも諦めていいんだろうかってね。機会を逃して後悔するくらいなら、行動してみるべきだと思いません?」
二人の会話は半分くらい意味が取れなかったけれど、大体の流れは想像で補完できた。ミルーニャの名前や探索者としての顔、道具屋としての立場が全て偽りだったのかどうかはわからない。直感だけど、それらも真実だったのではないかと思う。けれど、ミルーニャにはもう一つの裏の顔があったのだ。
それが【星見の塔】の魔女、その末妹の候補者という顔。ミルーニャはかつてハルベルトと同じ立場だった。そして、競い合った結果ハルベルトに及ばなかった。
それ故の叛逆。その為の追い落とし。
だが、どうして今なのだろう。
きっとこの探索はほとんど全て仕込みだったのだろうと思う。ハルベルトが使い魔候補である私を鍛え、見極める為の試練――茶番だ。ミルーニャはその協力のために駆り出されたのだろう。ひょっとしたら、メイファーラも。
少なくとも、先程までハルベルトもミルーニャが裏切るとは微塵も思っていなかったに違いない。それがここにきて唐突に裏切って見せたから、動揺を隠せずにいるのだ。
「絶好の機会なんですよ。この場所なら余計な邪魔が入らず、誰の目にも届かない。私以外の予備候補も一網打尽にできて、最大の障害であるヴァージリアを排除できる。なにより念願のグロソラリアが手に入るじゃないですか」
「アズは、あなたのものじゃない」
「この世の全ては『もの』ですよ。少なくとも私たち杖使いにとってはそうです。この私自身がそうであるように、ねっ」
言い終わると同時に投げ放たれた小瓶が砕けて、中の薬品が大気と反応して閃光と爆風を撒き散らす。だが何か不可視の壁にぶつかったかのように、ハルベルトの目の前で爆風は遮断された。
「うーん、どうにもこれだけだと、その防御結界を貫通できませんねえ。それ、正体がさっぱりわからないんですけど、【霧の防壁】三枚重ねとかなんです?」
「教えるわけない」
「でっすっよっねー。じゃあどうしよっかなー。とりあえず色々試してみますか。幸い物量だけはあるので。この日のためにあくせく働いて蓄えてきたんですよー」
ミルーニャの攻撃は悉くハルベルトの眼前で阻まれる。
「じゃあこれは?」
ならばとばかりに呪石弾が次々と投げ放たれ、
「ではこれでどうでしょう」
爪の中から引き抜いた投げナイフが回転しながらハルベルトの目の前で弾かれる。柄に括り付けられていた呪符が起動して爆炎を撒き散らした。
「これで駄目となると――そうですね、こんなのだったら?」
ミルーニャは指先から眼鏡を取り出した。ただし、イキューに切り刻まれた時に何処かに行ってしまった四角いフレームの眼鏡ではない。レンズは右側だけの、
より精密な視力を得た彼女は、続いて左手内部の倉庫から新たな道具を出現させた。
「それ、は」
ハルベルトの声が、それまでとは異なる色合いを帯びる。恐怖、緊張、あるいは危機感。そういった危険の響き。
杖使いの呪具を形容するのに当たり前の事を言うようだが――それは杖めいていた。
片手で持てる程度の小さい木の筒に複雑な形状の鉄の部品を組み合わせていて、持ち手の部分が緩やかに湾曲していた。握りの部分は人差し指がかかる程度の金属の環と突起物。
ミルーニャは右手でそれを握ると、上部に取り付けられた曲がりくねった金属を手前に引いた。その金属に何かが取り付けられている。あれは、呪石だろうか――?
人差し指が金属の突起を引いた瞬間、何かが弾けるような音がしてハルベルトの眼前に極小の質量と巨大な呪力が激突する。
目にも留まらぬ速度だった。恐ろしく小型の呪石弾が高速で射出され、凄まじい弾速と合わさって凄絶な破壊力を生み出していた。着弾と同時に発動した【炸撃】は、初級の呪術とは思えぬ程の勢いで一点に凝縮され、【爆撃】と同等の破壊力を生み出す。
「
快哉を上げるミルーニャは、杖の尖端にふうと息を吹きかけた。私の視線に気付いて、にこりと微笑む。
「いわゆる
銃――それは、杖の呪術が生み出した投射呪具の極致。
傑出した杖の才覚と卓越した器用さが要求される呪具兵装。
その代償として凄まじい呪波汚染に曝され、自らを蝕んでいく呪われた武器。
ミルーニャの右手が、見る間に黒ずんでいく。大量死、工業的な精密さ、神秘の零落、戦場からの名誉の剥奪、英雄性の衰退――数々の杖的な、それでいて他のあらゆる呪術に反発する意味を背負わされた『銃』という形を、世界そのものが否定しようとして牙を剥く。
使い手のミルーニャは罰によって害されているのだった。この世界の摂理に対して叛逆するという大罪。あの呪具はこの世界にとっての敵、呪術にとっての異物だ。たとえ銃を撃てたとしても、世界そのものからの反動に耐えられるだけの強靱な杖体系への確信を有する者など数えるほどもいまい。
ミルーニャの右手が炭化して崩れていく。銃を使った者の当然の末路といえたが、驚くべき事に肘の辺りから肉腫が膨れあがると、瞬時に無傷の右手が新生する。
「反動があるならその都度再生すればいいわけです。どうせ先込め式なので連発できませんしね。腕も銃も使い捨てで行きましょうか」
ミルーニャは次から次へと左手から銃を取り出して、小型化した呪石弾を発射していった。鳴り響く銃声。防御結界を維持し続けるべく延々と続けられる詠唱。結界の再展開の間隙を縫うようにして撃ち込まれる銃弾。
「ばーんっ、ばーんっ! あっはは、ほらほらもっと頑張って維持しないと穴だらけになっちゃいますよー?」
ミルーニャは笑う。楽しそうに、愉快そうにハルベルトに殺意を向ける。相手を損耗させる以上に、自らを損壊させながら。
射撃の度に右手が崩れ、銃弾の狙いが逸れ、銃身が暴発して右手ごと吹き飛び、木片で顔が傷付き、不発に終わり――そんな、破滅的な攻撃を繰り返しながら。
「あらら、
ひび割れた片眼鏡を放り捨てると、ミルーニャは血まみれの頬をぺろりと舐めた。傷はとうに再生して、綺麗な右手は次なる呪具を取り出している。
対するハルベルトは、荒く息を吐きながら両手を前につきだして防御結界の構成を維持し続けている。不可視の障壁とそれを維持する精神は確実に摩耗している。
銃という呪術は杖を体現したような呪力を内包している。いわば再現性の極致だ。先程までのミルーニャは、呪術を否定して崩壊させる因子を連続して叩きつけていたようなものだった。
呪術を否定する呪術。再現性、体系化、工業化などの属性を有する杖の呪術は神秘を手繰る呪文の防御と極めて相性が悪い。ハルベルトは今や壊れかけの板――そこには『盾』とか『壁』とかの文字が記されている――で必死に身を守ろうとしているような状態だった。
ハルベルトを助けなければならない。けれど、その為に私はミルーニャを傷つけることができるだろうか。たとえ再生すると分かっていても、この槌矛を彼女に叩きつけることが、私に。
しなければならない。私はそういうふうに生きてきたし、これからもそうしていかなければならない。キール隊のみんなを、多くの人を切り捨てて生き残ってきた。人の命に順番を付けて、優先順位の高い方を選び続けてここまできたのだ。
ここで躊躇うことは許されない。けれど、ミルーニャはまだ生きている。意思もしっかりとしている――あるいは今まで以上に――ように見える。ならば、まだどうにかなるのではないだろうか。
甘え、あるいは逃避にも似た感情。
動きを止めて、束縛すれば事を収めることができるのではないか。
私は槌矛を杖状態に変形させてミルーニャを拘束しようと動くが、その前に立ちはだかる呪鉱石の巨像。
「拘束する、というのは正着です、アズーリア様。不死者にどうやって勝利するかを考えれば自然に行き着く答えですよね。でーもー、そう簡単には捕まえられてはあげませんよー?」
迫り来る巨大な腕から走り回って逃げ続ける。こうして私が石像を相手にしていれば、少なくともこの巨大な質量がハルベルトに向かう心配はないわけだ。しかし対峙する黒と白の呪術師のうち、劣勢なのは黒の方。
ハルベルトの詠唱と同時にミルーニャの全身が炎に包まれる。更に爆風で肉体が千切れ飛び、閃光が肉片を薙ぎ払う。
その直後には、肉塊が蠢いて膨張し、瞬時に元の白い少女が再生してしまうのだった。幾ら攻撃しても効果が無いのに、向こうからの攻撃は確実にハルベルトの精神をすり減らし、防御結界に亀裂を入らせている。
ハルベルトは攻め手を変えた。幻獣――仮想使い魔を呼び出したのだ。
「狂いて回り、乱れて踊り、惑いて解けてくるくる落ちる。機械仕掛けを裏返し、溢れて零れて歯車壊せ――言語魔術師ハルベルトの名に於いて命ず、【
出現した幻像はコウモリめいた翼を持つ小さな人型だ。しわくちゃの肌は滑らかで、灰色の身体はどこか滑稽だった。素早くミルーニャに近付いた使い魔が細かな粒子となって降り注ぐ。彼女が手に持った
「へえ、対杖用の呪文ですか。これは困りましたね。使ったら必ず暴発するとか、大方そんな効果でしょうけど――」
自らの天敵を前にしてもミルーニャの不敵な態度は揺るがない。深まる笑み。そして、次の瞬間、彼女の背中が裂けた。
胸元、そして背中が大きく開いたドレス。その胸には幾何学模様、そして白く滑らかな肌を晒すその背中には緩やかに隆起する肩胛骨があるのみ。
その肩胛骨が膨れあがり、肉腫あるいは骨腫となって膨張していく。
そしてミルーニャは、羽ばたいた。
純白の翼。
遠目に見れば、それは鳥のように見えたかもしれない。
異形の羽毛が夜に舞う。広がった翼は小さなミルーニャを覆い隠せるほどに大きい。本来は腕に相当する器官であるはずだが、そのような条理は骨格や総質量ごと無視して奇怪に蠢き、対の触腕として縦横無尽に金色の花と土を抉っていく。触れるもの全てを抉り砕く巨大な刃がミルーニャの背中から生えていた。
「やっぱり。効果範囲は呪具限定で、私の肉体は対象外みたいですね。あのぽんこつ女に使った場合どうなるのかちょっと気になります」
ゆらり、とミルーニャの膨れあがった影が動いた。その足取りは、真っ直ぐにハルベルトを目指している。
「呪具が使えないなら直接手に掛けるまで。純粋な後衛の限界ってやつですね。護身術の一つも修めていなかった己の怠慢を呪いなさい、ヴァージリア」
「くっ、【
恐らく事前に詠唱を済ませて待機させておいたのだろう。呼び出された螺旋の角を持つ兎が、以前に見た時よりも濃い存在感を持って顕現する。呪文の構成が物質寄りになっているようだった。物理的な干渉によってミルーニャの接近を防ぐつもりだ。
だが、それは悪手だった。宙を蹴って突進した兎を仰け反って躱したしたミルーニャは自在にうねる翼で交互に兎を打ち据えようとする。兎は軽やかに回避していくが、そこに叩き込まれるのは彼女が最も得意とする技――ミアスカ流脚撃術。つまりは上段蹴りだ。大地に満ちる豊富な呪力を纏わせた蹴りは、物質であろうと実体無き仮想使い魔であろうと容赦なく破砕するだろう。
迫り来る脅威に対して、独角兎は真正面から立ち向かった。鋭利な螺旋状の角を真っ直ぐに構えて、足を突き刺す構えだった。硬度や鋭利さで勝れば、それがどれだけ重い一撃であろうと生身の足は耐えられない。イキューの時と同じ破壊が繰り返される。私の期待はあっけなく打ち砕かれた。
硬質な衝突音。
鋭利な角はミルーニャの剥き出しになった足と激突して、そこで停止していた。
硬化した角質の層は分厚く堅牢そうに見える。翼と同じく純白のそれは、紛れもない鱗だ。更には足の形もまた通常の霊長類のそれとは異なり、前に三本、後ろに一本のつま先があるというものだった。
地面に落とされた兎を、更なる衝撃が襲った。
ミルーニャの腰から衣服を突き抜けて生えている、尻尾のような何か。だがそれは断じて尻尾などではない。頭上を飛び越える、凄まじく長大な多関節の足。両足同様、全体的に鳥のものに似ているが、このような条理を外れた生き物は地獄にすらいるとは思えない。
三本目の足が兎を捕らえ、高々と掲げる。ぐしゃりと握りつぶすと、仮想の使い魔は輪郭を失って消えた。
白い翼、三本の足。そこから自然と思い浮かぶ名前があった。
【ロディニオの三本足の民】――眷族種の序列第五位。守護天使ペレケテンヌルに加護を受けた、『鴉』と通称される者達。使い魔と杖の適性に秀でた彼ら彼女らには優れた呪術師が多い。当然、迷宮都市エルネトモランには数多く住んでいる。ミルーニャがそうであったとしても何の不思議もない。だがまさか、一日に二回もその眷族種と戦う事になるなんて、誰が思うだろうか?
「言っておきますが、私に下らないまやかしの類は通用しませんよ。幻術破りの眼鏡もありますし、それにどっちかっていうと霊長類寄りなんですよ私。そこの根暗女と同じ混血なので」
白い翼と尾のような足を暴力的に蠢かせながら、ミルーニャが言った。
白い鴉と黒い兎。
対峙する二人は、奇しくも共に霊獣とされる鴉と兎に縁のあるものたち。格としては対等の筈だが、両者の均衡は一方に傾きつつある。
じりじりと後ずさりするハルベルトだが、その前に立つべき前衛はいない。彼女の下へ走ろうとする私の前に巨像が立ち塞がる。私は石像の足に光の帯を巻き付けて転倒させようと試みるが、夜になって強化された身体能力をもってしてもその重量は如何ともしがたかった。
物理攻撃ではどうやっても歯が立たないし、かといって呪術も無効化される。フィリスを使えば一撃で解体できるのだが、金鎖が残り一つとなった今、ここが使うべき時なのかどうかと言う迷いが私の手を止めていた。最後の一回を使ってしまえば、ミルーニャが更なる脅威を保有していた場合に打つ手が無くなってしまう。
自問する。私は、そんなにも自分の命が惜しいのか。
決まっている。迷宮の攻略。地獄にいる妹を取り戻す。それまで死ぬわけにはいかない。けれど、助けられる相手を見殺しにすることはなによりも耐え難い苦痛だ。
だって私は、妹をそうやって失ったのだから。
もしこれで私が死ぬ事になっても、このままハルベルトを見捨てるよりはいい。
思えば、第五階層でシナモリ・アキラにフィリスを使った時もこんな気持ちだったような気がする。私は近視眼的で短絡的だ。情に流され、理を見失う。
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