3-28 魔女と英雄⑥
全ては、一瞬のうちに行われた。瞬きをする間も無かった。それくらい、私は何一つできなかった。槌矛を手に持ったまま呆然と突っ立って、ただミルーニャ・アルタネイフという、つい先程まで軽口を叩き合っていた仲間が無残に殺されるのを見ていることしかできなかったのだ。
「嘘」
嘘なんかじゃない。人はとても簡単に死ぬ。手練れの斥候であるカインはエスフェイルを罠にかけて仕留めたが、そのために死んだ。優れた修道騎士であるキールとマフスは私が殺した。テールとトッドもあれだけ頼もしかったのに死ぬ時はあっけなかった。
その他にも、第四階層の無意味な防衛戦で沢山の人が死んでいった。第五階層への無謀な突撃で無数の人が命を散らした。私の言葉に踊らされて。
ああ、私はまた、自分の為に誰かの命を犠牲にしたんだ。
誰も守れず、自分だけが生き残る。
どれだけ悔いても嘆いても、あの快活な毒舌家は帰ってこない。
本当に?
「フィリスッ!」
名を呼ぶ時間すら惜しかった。三回目の金鎖解放によって左手が脈動し、活性化させられた寄生異獣が超高密度の呪力を練り上げていく。時間すら遡って事象を改変する大呪術が発動し、目の前で起きてしまった惨劇を塗り替えようと色のない光を放射していく。
ハルベルトの時と要領は同じだ。万能の医術、あらゆる致命傷を無効化するパラドキシカルトリアージを再現してミルーニャの死を否定してみせる。
だが、極限の集中と共に左手を掲げた私の身体は一瞬だけ無防備になる。その隙を逃さずに無数の斬撃と化したイキューが襲いかかった。
宿主の危機に自動的に反応したフィリスは規定のプランに従って呪文の性質を変更してしまう。摸倣呪文ではなく、対抗呪文【静謐】が発動。細かい斬糸の群れという呪術的な力無しには成立し得ない肉体となったイキューの呪的構造を解析し、解体していく。繊維の如き総体が私の眼前で停止し弾き飛ばされる。そればかりか、全体が依り合わさって一本の長い舌となった。
背中の芯に冷たい氷を差し込まれたような感覚。
呪術を完璧に解体して消去した時の手応えがない。【静謐】は非物質的な呪術構造で肉体を維持しているタイプの相手に使えばその命を奪う事すら可能だ。かつて第五階層で精鋭種の人狼に追い詰められた私は、敵の根幹を成す【平和喪失】の呪詛を解体して打倒した。魔将エスフェイルを成立せしめる【闇の脚】というまことの名を掌握して存在を否定した。その時に感じた相手を滅ぼしたという実感が無い。
打ち消し損ねた。駄目だ、これでは元に戻っただけ。脅威は消えていないし、ミルーニャの死の結果が遡及的に改竄されたりもしない。
【静謐】は結果的に私を守ったものの、誤発動した上に半ば不発に終わっていた。身体性に根ざしていたり、その作用が内的なものに限るような邪視は、対抗呪文に強い耐性を持つ。イキューが使ったような肉体を変異させる邪視は半ば杖に近い。物質的な存在強度と精密な再現性のある系統の呪術を完全に打ち消して『無かったこと』にするには、長い時間をかけて対象の構造を正しく理解しなければならない。今のような咄嗟の発動ではそのような結果は望むべくも無い。
再びフィリスを活性化させる。立て続けの金鎖解放に頭の奧に軋むような頭痛を感じるが、耐え抜いて精神集中を続行する。
「もう一度! フィリスッ!!」
残り二環となった金鎖が輝き、その影となるように色のない左手がのっぺりとした闇を広げていく。闇そのものとなった左手が、今度こそかつて見た至高の復元医療術を再現しようとして――
「――え?」
ぐらり。左手が弾かれたように後ろに流れていく。散っていく呪術の構成。霧散する呪力。無意味に砕け散った金鎖の欠片。信じられない、と吐き出された息。
失敗した。夜という最高の状態であったにも関わらず、失敗できないという極限の状況であったにも関わらず、私は極限を超えた超高位呪文【
何故? どうして? 否、そのような疑問を持つこと自体が間違っているのかもしれない。あの時、ハルベルトを救えたこと自体が奇跡のようなもので、元々私の力量で成功するような試みではなかったのだ。けれど、それでも今ミルーニャを救うにはそれしかなくて。
「フィリスッ! フィリスッ!! フィリスッ!!!」
もう一度。
やめろ、無駄だ、死に近付くだけだと囁く理性の声を無視して、私は残り二つになった金鎖の半分を割り砕く。心を静謐に保つ。一分の隙もない、夜のように澄み渡る心で精神集中を行う。再現する。再生する。星のように煌めく軌跡を、幾万の輝きを映し出す万能の呪術を発動させる。ミルーニャの命を、この手に取り戻してみせる。
静謐。
無音だけが、その結果だった。
血の雨はいつの間にか止んでいて、分かたれた小さな頭と胴体は赤々とした血に沈んでいた。もう遡れない。手遅れになってしまった。完全に損なわれたものは戻らない。死人の操り人形と化してしまったキール隊のみんなのように。生と死はどうしようもなく不可逆なもの。それがこの世界の理だ。それを否と言うことができるのは、不死の女神であるキュトスとその眷族、そして生と死の神秘性を否定して再現性の呪術で死を無かったことにしようとする一部の杖使いたちだけ。ゆえに彼らは疎まれ蔑まれ、邪悪であると排斥されるのだ。
今はその在り方が羨ましい。それがこの世界の理から外れることであっても、大神院の教義に背くことであっても、地上の正義に反することであっても。私は死を否定できるだけの力が欲しい。狂おしいほど――呪わしいほど切実に。
長大な舌そのものが鎌首をもたげる。対抗呪文を受けたことで私を危険だと判断したのか、別の標的を探し始める。体表面すべてが感覚器であるイキューは敏感に好物である兎の存在を察知したのか、その矛先を不用意に近くまで寄ってきていたハルベルトに向けた。
このまま手をこまねいていれば、呪文を唱える暇すら与えずイキューはハルベルトの身体を蹂躙し、大地に横たわるミルーニャのような末路を与えるだろう。
その未来を想像してしまったのか、ハルベルトは竦んだように動けなくなってしまう。瞬間的に、私はある光景を思い出した。単眼巨人を前にして、青ざめた表情で怯える彼女の姿を。血にまみれて私の無事を喜ぶ師の姿を。そして、月明かりだけが照らす場所で、確かに交わした約束を。
今度こそ、守ってみせる。
守らないと、私は。
命じるよりも早く、黒衣の内側で使い魔が役割を果たす。投げ放たれた砂糖菓子。それはほとんど賭けだった。甘さを極限まで追求した糖分の塊、イキューが追求する味覚への刺激と快楽の発生源。不意打ちだからこそ通用する見え透いた罠。だがこの瞬間だけ、幸運は私の味方をしてくれた。長大な舌は砂糖菓子に食いつき、生まれた隙を縫って私はハルベルトの前に立ちはだかる。
黒衣を翻して、杖を展開する。花開いた杖の内側から、月光に照らされて透き通った昼の空の如き天青石が現れ出でる。呪力光が溢れ出して拘束の帯が放たれると、長い舌を頑丈に絡め取った。【
イキューは必死に抵抗するが、拘束から逃れる事はもはや不可能だ。怪物の舌は修道騎士ペイルの全身を抵抗不可能なまでに締め上げ、その屈強な身体を溶解させた。そして日中に対峙したペイルは私の拘束をいとも簡単に打ち破った。単純に呪力を比較すれば、私の呪力でイキューを押さえ込める筈も無い。
だがそれは、あくまでも昼間だったらの話だ。
遮るものの無い夜空に、無数の星と四つの月が輝いているのを感じる。【
私は眷族種における序列第二位、【夜の民】だ。その名の通り、私達の呪力は夜の間だけ飛躍的に高まる――夜の間だけ本来の力を発揮できる。限られた時間だけとはいえ、夜の私達はあらゆる眷族種を上回る呪術適性を得ているのである。
今の私が保有する呪力量は昼間とは段違いだ。ペイルに容易く引き千切られた光の拘束帯は、夜になってその輝きをぐんと増していた。呪的強度は比べるまでもない。上位魔将エスフェイルさえ封じ込めた拘束呪術、破れるものなら破ってみるがいい。
「エスト、今のうちに!」
私が促すと、プリエステラは決然と頷いて、杖を高々と天に掲げた。強靱な
ティリビナの巫女。極めて稀なその資質が、体内に秘められた固有の呪術を発動させているのだった。
突然変異の
緑色の長髪が輝き、頭部の花が呪力を蓄えた粒子を散布していく。すみれ色の瞳が鋭く舌の怪物を睨み据える。その口から紡ぎ出されるのは、長大なる呪文の詠唱だった。
「生と死は流れ、密やかなるせせらぎはほの暗い土の中にたゆたう。ふるえよ目に見えぬ旅人たち、草木の囁きに耳を澄まし、梢の踊るさまを見よ。昼となく夜となく降り注ぐ烈火よ包み込む鏡の影よ、母の腹を突き破り、父の喉笛を掻き切らんと手を伸ばす獰猛なる子らに恵みを与えよ。森の主よ猛り狂え! 我は目、我は口、荒ぶる神意の代行者なり! 矮小なる者どもよ、【
大神院が説くところによれば、ティリビナの民たちは邪悪な存在を崇拝する野蛮人たちであり、非人道的で迷妄な教えを頑なに信奉し続ける愚か者どもなのだという。森の暗がりに子供を引き摺り込む人攫いの邪神、あるいは空虚と腐蝕の魔王レルプレア。大神院が誇張し喧伝する、自然神の荒ぶる側面だけを抽出した解釈。その恐るべき側面が、今この場所に顕現しようとしていた。
大地が鳴動する。草木がざわめき、花が狂乱し、虫たちの鳴き声が途絶える。
アストラルの視界に、雄大な風景が広がっていた。
膨大な呪力の流れが樹木神の巫女の背後に集い、巨大な大樹の如き様相を呈している。複雑に枝分かれしていくその輪郭は、天に手を伸ばす巨大な手にも見えた。
プリエステラの体内を走り抜けた複雑な呪文群が超常の現象を引き起こす。一瞬にして無数の毒草を煎じ詰めて合成するのと同様の工程が行われ、
激しい痙攣と共に舌全体が激しい痛みによって収斂していく。声ならぬ声を上げ、壮絶な苦痛にイキューは苦悶した。だが私は拘束を解くことはしない。むしろより強く締め上げ、更なる苦痛を与えるべく渾身の呪力を込めていく。
表面に垂れ流されるだけではなく、舌の内部にまで穴を開けて注ぎ込まれる腐蝕の猛毒。狂乱せんばかりに暴れ狂うイキューはその命を燃やし尽くすまで蠢き、長い長い抵抗の果てについにその動きを停止させた。
私は、その原形を留めないほど損壊して汚染された舌を地面に下ろすと、そのまま杖を槌矛に変形させて振り下ろした。
何度も。何度も何度も何度も何度も。プリエステラが、その怨恨の全てを叩きつけていた様に。死んでいることが分かっていても、繰り返し繰り返し打ち据え続けた。
多分、プリエステラが振り下ろした回数を超えたのだろう。彼女はそっと私に歩み寄って制止しようとしたが、私は無視してそのまま槌矛を振り下ろした。
ハルベルトが何かを言おうとしている気配があった。私はそれを気に留めず、残骸の更なる破壊を続行した。
細かな肉片と化した怪物を、より細かくなるまで破壊していく。もう破壊しきれないほど小さくなっても、まだ壊す。壊す。壊す。何度でも。
戦いは終わっていた。私達はイキューに勝利した。
三人の修道騎士達は治療を終えたのか、無言で私の狂態を眺めている。
音の無い夜更け。私はただ無言で死体を打ち砕く。
疲労した腕に【安らぎ】を掛けて強引に奮い立たせた。槌矛が持ち上がらなくなったら、今度は逆手に持って突き下ろす作業に移行する。それも限界がきたので、足を踏み下ろして肉片を潰す。けれど、赤い肉片はもうこれ以上ないほどに粉微塵になってしまっていて、それをする意味は殆ど無かった。
やがて私は、何も無い場所をただ踏みつけるだけになった。
そこにはもう何も無い。
音も、そしてあの毒の混じった言葉も。全てが。
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