3-27 魔女と英雄⑤


 そろそろ到着するというプリエステラの知らせで、皆の空気が引き締まっていく。真剣になるのはいいが、緊張しすぎるのも良くないと思った私は、空気を和ませる為に話題を探し出す。


「私が聞いたことのある昔話だと、イキューってカッサリオのやられ役だった記憶がある。実際には大した事なかったりしてね」


「あたしもそれ知ってる。甘い蜂蜜につられて出てきた所をカッサリオに見つかって必死で逃げたんだよね」


「兎も好物だって聞きますね。確かどこかの根暗女、初対面で兎の混血とか言ってませんでしたっけ。ちょっとでも呪的な因子があると集中攻撃されるらしいので、まあ精々死なないように気をつけることですねー」


「――アズが守ってくれるから大丈夫」


 ミルーニャの手当が効果を発揮して、ハルベルトは軽口に言い返せるくらいには回復していた。後衛として待機している分には大丈夫だろう。約束通り、彼女には指一本触れさせないという決意を新たにする。


 やがて私達五人はその場所に辿り着いた。

 鬱蒼と生い茂る木々を掻き分けた先に、広大な空間が広がっていた。

 月光に照らされて風にそよぐ、一面の金色。

 その名の通り箒のような花々が、遙か彼方までずっと続いていく。


 幻想的といって差し支えの無い光景だ。私は感嘆の溜息を吐こうとして、それに気がついた。

 花に埋もれるようにして膝を着く、三つの人影。身体の各所に深い手傷を負い、皆それぞれ満身創痍の状態だった。ペイル、ナト、イルスの三人の修道騎士たちだ。おそらく鴉の使い魔で上空からこの金箒花の群生地を発見してやってきたのだろう。


 その正面に、異形の怪物が立ちはだかっている。

 長い舌を垂らし、強酸の涎が金色の花を溶解させ、貪婪な食欲だけを周囲に放射している。あの怪物にとって、周囲の全ては捕食対象でしかない。

 激しい既視感を覚える。なんだかこれと似た光景を前にも見たことがあるような気がしてならない。


 戦慄する私達の目の前で、舌獣イキューが全身を震わせて甲高い鳴き声を上げた。

 それが戦いの幕開けを告げる合図となった。

 舌獣イキューが邪視を使う怪物であると言われても、直感的には納得しづらい。

 この怪物には、目が存在しないからだ。

 代わりにその異形を特徴付けるのは、途方もなく長大な赤い舌である。


 邪視というのは知覚によって発動する呪術であり、イキューは味覚を引き金として邪視を発動させる。全身は滑らかな白で、尾は両生類、下半身は霊長類の赤子、馬の前足と胴体、たるんだ首の皮から長い舌を生やしている。頭部はなく、感覚器官は胃袋から直接生えた舌。既存の生物に喩えるなら、ひどく痩せた白いモルゾワーネスと言ったところか。


 舌獣、あるいは舐舌獣イキュー。イキューというのはリクシャマーの言葉で『舌』を意味する。奴の舌は目であり手でありそして脳でもある。イキューは舌で知覚し舌で思考する。脳は退化し、殆ど舌と同化しているのだ。胃袋に直接繋がっているというが、実のところ消化というプロセスさえ味を感じるという欲求の前には些事でしかない。あれは味覚の化け物だ。甘いものを求めるということしかしない。思考などと言う上等な活動はイキューにはできない。生きた機械もしくは昆虫。それがイキューだ。


 小動物、とくに霊獣である兎を好んで食べるが、基本的に雑食。舐めて感覚しただけで【生命吸収】を発動させるため、呪術に対する抵抗力が低いものならば舌に触れた瞬間にその箇所を溶かされて消化吸収されてしまう。

 

 恒常的に呪術を『構えている』ためか、アストラルの視界で見ればだらしなく垂れ下がった長大な舌の周囲に高密度の呪力が凝縮しているのがわかる。かの魔将エスフェイルもその足下、影の中に広がる本体は途方もなく巨大だった。イキューの舌は物質的にはいかにも柔らかそうだが、呪術としては極めて高い優先度を誇っている。あまりにも強烈に呪力が集中しているので、金色に光って見えるほどだ。もっともあの怪物には色などわからないだろうけれど。


 金色。一面の金箒花に埋もれるようにして蹲っていた一人が、全身から金色の闘気を立ち上らせていた。武闘家の鍛え上げられた肉体に宿る呪力、闘気。黄金に輝く流体と同化するようにして、不定形のなにかおぞましいものが揺らめき、男の筋骨隆々とした体躯にまとわりついた。


「うおおおぉぉぉぉぉぉ!!」


 人のものとは思えぬような大絶叫と共に、男がイキューに突進する。修道騎士ペイルの全身が光に包まれている。その突進に理性は無く、その絶叫に思考は無い。憑依型の寄生異獣――亡霊を肉体に取り憑かせてがむしゃらに敵に突撃する狂戦士となっているようだった。憑依された肉体は限界を超えて駆動し、霊的な攻防力は飛躍的に向上している。


 だが、それも無駄な足掻きでしかない。

 白く滑らかな胴体に拳が叩きつけられる。一撃、二撃、三撃と、凄まじい威力と速度の連撃がその馬ほどの全身を打つ。修道騎士であれば見上げるような巨体の異獣と戦う事もある。長身のペイルにとってイキューは恐れるような体躯の相手ではない。その筈だった。


 動かない。打撃が通用していなかった。イキューが地面に着いているのは前足のみであり、極端な前傾姿勢だ。後肢は赤子のように小さく未熟で、強烈な打撃に耐えられるようには見えない。そもそもあんなバランスの悪い体型でどうやって動くのか。


 ペイルの拳が、初めて空を切った。

 イキューの姿がかき消えたかと思うと、一瞬のうちにその背後に回り込んだのだ。凄まじい勢いの体当たり。ペイルの体勢が崩れ、その全身に長く巨大な舌が巻き付く。


 締め上げた。唾液が全身にまとわりつき、屈強な皮膚をどろどろと溶かそうとする。憑依した寄生異獣の亡霊が悲鳴を上げていた。憑依型の寄生異獣と特殊な皮膚型の生体呪動装甲があるため、頭部を一撃で溶かされた蛇の王の如く即死することはないようだが、このままではペイルの命は間もなく絶えるだろう。


「やらせるかっ」


 ナトが叫ぶ。高速で飛行する攻撃端末が伸び上がった舌に直撃する。

 そして、一瞬にして融解――いや、消滅した。

 呪的防御の低い攻撃端末は舌が発動した邪視によって塵にまで分解されてしまったのだ。


 ナトは舌打ちして、自らの手足たる鴉に命令する。金鎖を砕きながら、より小さな烏を出現させて二羽が螺旋の軌道をとりながらイキューの本体に突進する。旋風が巻き起こり、金色の花びらを巻き込みながら高密度の呪力が怪物の身体に激突した。


 たまらず舌がゆるみ、ペイルが拘束から解放される。腕や胸の皮膚が爛れ、赤い筋繊維や骨までもが露出していた。白目を剥いて倒れ伏すペイル。

 舌を震わせながら、イキューが奇怪な鳴き声を上げた。赤子の後肢をばたつかせて、風のように疾走する。それは翼を持つ者の飛行速度を軽々と超えていた。二羽のカラスたちに追いついたイキューは、そのまま真っ赤な舌をべろりと伸ばして一口で飲み込む。


「貴様ぁぁぁぁっ」


 ナトが槍を手に立ち向かうが、渾身の刺突は軽々と回避され、背後に回り込んだイキューに舌で一撫でされる。呪動装甲の表面で呪力が放電し、舌が弾かれる。だが衝撃で鎧は破壊され、ナトはそのまま花畑を転がってそのまま動かなくなった。


 残るイルスは片腕を負傷しながらもペイルを治療しようとしているが、イキューに立ち向かうだけの気力が無いのは明白だった。

 三人の修道騎士たちに、戦う力はもはや残されていない。待つのは死のみ。

 この場に、誰も介入しなければ。


 飛来した呪石弾が増幅効果の呪文式を展開し、そこに赤い文字列と赤い呪石弾が突入する。拡大、膨張した【爆撃】の呪文が二重に炸裂し、イキューの全身に爆圧と熱を浴びせていった。


 私とミルーニャによる先制攻撃は成功した。続いて、メイファーラとプリエステラが勢いよく前に出て行く。

 甲高い叫びを上げて、舌先を巡らせるイキュー。その奇怪な超知覚でようやくこちらを認識したのか、断続的な叫びで威嚇しながらこちらに向き直った。


「気をつけて。イキューの後肢は洗礼を受けずに命を落とした赤子のもの。冥府と直接繋がったあの脚は呪力を蹴って自在な移動を可能とする」


 ハルベルトの助言。基本的に手出ししないという姿勢は徹底しているが、仮想の使い魔を呼び出して負傷した三人の修道騎士たちを離れた場所に避難させようとしていた。


 イキューは俊敏に動いて攻撃を躱す。躱しながら、舌を伸ばして反撃する。呪術に対する抵抗力が無ければ致命的な攻撃、たとえあったとしても大きなダメージは避けられない攻撃だ。


 その全てを見切り、回避し、時に払いのけ、完璧に防御してのける。メイファーラの『天眼』は凄まじい回避能力と邪視に対する抵抗力を与えてくれていた。邪視攻撃を完璧に見切って受け流すことで、その被害を最小限に抑える技術。【天眼の民】の特性が可能とする高速の攻防。まさしくイキューと相対するのに最も適した人材と言えた。


 メイファーラが盾となってイキューの攻撃を凌いでいる間に、プリエステラは攻撃の準備を整えていた。長大な木の杖を手にしながらイキューの背後に回り込む。


 袖口から放った蔦と茨が鞭となってしたたかに白い身体を打ち据えた。痛みに呻くイキューをメイファーラの追撃が退かせ、再び隙を作り出す。

 プリエステラは、杖先を足下に向けた。蔦が杖に巻き付いて、細腕では充分に扱いきれぬであろう重量の杖をしっかりと支えた。繁茂する花々を掬うように、大地すれすれを滑らせていく。杖の先に収束していくのは金箒花が地脈からたっぷりと吸い上げ、蓄えていた呪力だった。


「くらえ、父の仇っ」


 旋回する杖先が、十分な加速をつけてイキューの胴体に叩きつけられる。杖は打撃武器であり、同時に呪術を発動させる端末でもある。衝撃と同時に解放された呪力が炸裂し、白い身体を吹き飛ばす。


 宙を流れるその身体が、突如として上空に逃れる。そのまま空中で反転、直角の方向転換を繰り返し、大きく距離を取る。虚空を蹴る赤子の脚から生み出される機動力は全く侮れない。メイファーラが前に出て短槍を構え、プリエステラが杖を突き出す。私もまた呪文を唱え、ミルーニャが投石器スリングショットに呪石弾を装填した。


 いける、と思った。敵は素早く、攻撃は強力だが手も足も出ないと言うほどではない。なにより、メイファーラの前衛としての相性の良さが効いている。このままあの舌での攻撃を受け流してくれれば呪文攻撃で仕留められる。


 その長い舌が再びメイファーラを襲った時も、私は楽観的な思考から落ち着いて呪文を唱えることができていた。メイファーラが正確な短槍捌きで舌を突く。呪術によって加工された鋭利な尖端から逃れる舌。逸れた軌道の先には円形盾が待ち受けており、メイファーラの右側頭部で髪束を結わえている天眼石が輝くと同時に対邪視の障壁が展開される。舌は完全に弾かれ、無防備になった瞬間を狙ってプリエステラが懐に飛び込んで一撃を加えようとする。その瞬間だった。


 舌が裂けた。

 最初はメイファーラが切り裂いたのかと思ったが違う。あれは分裂したのだ。根本から無数の触手に枝分かれして、細く長い肉の束となって空中をうねる。プリエステラが咄嗟に杖を払って防御し、メイファーラが短槍を旋回させながら攻撃を捌いていく。


 だがあまりにも数が多い。小さくなってその速度まで増したのか、無数の舌が二人の防御を貫通し、手足に裂傷を刻んでいく。呪術に対する防御は共に高かったのか、致命傷は負っていないようだ。


 大気を切り裂いて呪石弾が呪術を発動させる。青く清浄な光がメイファーラとプリエステラを照らし、【安らぎ】の呪術が鎮痛効果をもたらして前衛二人の途切れかけた集中力を回復させる。更にミルーニャは矢継ぎ早に次なる呪具を解き放つ。今度は呪石弾ではなく小瓶で、それはくるくると回転しながら飛んでいったかと思うと、メイファーラに直撃して透明な液体を浴びせかけた。


「だ、大丈夫なの?!」


「感覚を鋭敏にする薬で、お気楽修道騎士の邪視能力を高めてくれます。あと瓶は割れやすい砂糖と澱粉の加工品なので怪我もしませんよ」


 ミルーニャは冷静に答えつつ、呪石弾を複数手に取って吟味する。前方で戦っている二人を見ながら私の方を向いて続ける。


「敵は素早い上に防御もかなり硬いようです。呪石弾もあまり残っていないですし、無駄に撃って注意を惹き付けるだけの結果にしてしまうのも避けたい。攻撃は二人同時に、最大威力のものをぶつけましょう、アズーリア様」


「うん、わかった」


 ミルーニャの冷静な言葉が、私の乱れかけていた心を落ち着かせていく。理性を重んじる杖使いの錬金術師アルケミストは時に冷酷で機械のようだと言われがちだけれど、こうして戦場で肩を並べるとこの上なく頼もしい。


 イキューの攻撃は絶えることのない波濤のようだった。だが終わりのない舌の嵐が不意に途切れる。引っ込められた舌に代わって口から飛び出してきたのは大量の液体。触れるものを溶かす強酸の胃液だった。


 さしものメイファーラもこれを受け流すのは無理だ。前に出たプリエステラが杖で地面を叩くと真下から土の壁が迫り上がって強酸を受け止める。イキューの攻撃はそれで終わらない。後ろ肢で虚空を蹴ると高く跳躍して障壁の背後に回り込み、上空から酸と舌の攻撃を加えていく。メイファーラのローブが溶け、プリエステラの防御が崩れていった。私とミルーニャは同時に【爆撃】をイキューに叩き込んだ。


 地面に墜落したイキューにすかさず繰り出される前衛二人の攻撃。胴体にめり込んだ短槍の穂先と凝縮された呪力とが実体と霊体の両面を損壊させ、血と呪力が噴出した。


 絶叫を上げるイキューが身をよじってその場から逃れる。振り回される舌先に二人が後退するが、そこでメイファーラが愕然と自らの得物を見た。


「まずい」


 ミルーニャの、かつてないほど切迫した声。私もまた、穂先が丸ごと失われたメイファーラの短槍を凝視していた。胴体に突き入れた時に失ったのか。何故? まさか、細く鋭くした舌を体内に穿孔させて、突き入れられた槍の穂先を舐め取ったというのか。


 邪視は己の世界観、つまりは知覚を世界に強制する呪術だ。他者からの認識による干渉が及びにくい体内で発動させる方が効果を発揮しやすい。受信・受動型の邪視を使うメイファーラがそうであるようにだ。『舌に触れたものはすべて分解吸収される』というイキューの確信はその体内では比類無き強さとなり、メイファーラの槍を破壊した。これで彼女の攻防力は半減する。


 無数に枝分かれした舌が襲いかかり、残された柄と盾でどうにか凌ごうとするが、以前よりも捌ききれる数が減っている。私の貸していた衣が剥がれ落ちていき、軽装の鎧が露わになっていく。


「私が前に出て加勢する。ミルーニャ、援護を」 


「駄目ですよアズーリア様。鎧が壊れてる今の状態じゃ危なっかしくてしょうがありません。防御や回避が低い後衛は、じっと機会を待つのも仕事なんです」


 あくまでも冷静なミルーニャの言葉にはっとさせられる。しかしミルーニャにしても今の状況は危機感を抱かせるものだったらしい。メイファーラは明らかに劣勢だし、プリエステラの攻撃も次第に通用しなくなっている。無数の舌で大気の動きを読んでいるのか、打撃の軌道が読まれてきているのだ。機敏な動きで回避と防御を同時に行う怪物からは隙というものが消えてきていた。


「仕方無い。あまり気乗りはしないんですが――」


「何か手があるの?」


「えっと、アズーリア様。ちょっとの間、こっち見ないでもらえません?」


 何故だろうと思いつつ、言われたとおりにミルーニャから視線を逸らす。少しの間をおいて、腹の奥から絞り出すような凄まじい悲鳴が聞こえて私は思わずミルーニャの方を見てしまった。目を丸くする。


「な、何やってるのミルーニャ」


「見ないでって、言ったのに――」


 痛々しい。そうとしか形容できない光景。ミルーニャが、自ら左手中指の爪を剥がしていたのである。べりべりと引き剥がされていく生爪から血が滴り、生み出される壮絶な痛みがミルーニャの額に汗を浮かばせ、歯を軋らせている。なによりもまず視覚的に痛い。実際の痛み以上に精神に負荷がかかりそうな行為だった。

 

「痛い、痛、いたた、うぐっ、うぐぅぅぅ」

 

 自ら爪を剥がす痛みに、ついに泣き出してしまう。なぜか、どきりとした。嗚咽の中に混じる熱を帯びた吐息が、どこか艶めいているようにも聞こえた。やっていることはただの自傷行為であるはずなのに、どこか見ているものの嗜虐心を煽るような感覚がある。思えば、普段の挑発的な毒舌や態度もやたらと敵意を煽るようなものだった気がする。

 

「ああ、見られてる、自分で爪剥がして、痛くて泣いちゃってるところ、アズーリア様に見られてる!」

 

 吐息の中になにか苦痛だけでなく悦楽めいた気配を感じて、思わずぞっとする。

 まさかとは思うが。

 

「痛い痛い痛い、痛いところ見られて、ミルーニャ気持ち良くなっちゃうぅぅぅ!」

 

 引いた。

 それはもう、物理的に一歩二歩、念には念を入れて三歩退いた。考えてもみれば失礼な行為で、色々な人がいるのだから痛みで快感を得たりそれを見られて快楽を覚えたりする人がいてもいいとは思うのだが、しかしなぜ今そんな事をしているのだろう。 

 

「見ないで、ミルーニャの恥ずかしいところ、見ないでっ」

 

 私は言われたとおり視線を逸らした。見るに堪えなかったというのもある。そのおかげで、直後に起きた現象の始まりを見損なうことになったのだが。

 

「ぁぁぁあ――左手中指、解錠アンロック。 おいで、【スーサイダルブラック・レプリカ】」

 

 巨大な呪力が唐突に出現する気配。

 視線を向けると、ミルーニャの前方にいつの間にか奇妙な物体が現れていた。

 ねじくれた形状を持つ、木の枝とも未知の生物の骨格ともつかぬ漆黒の長槍。それが槍であると直感的に理解できたのは、その放出される呪力の質があまりにも殺戮にのみ特化したものだったからだ。


 異様だったのは、柄から伸びた黒い管がミルーニャの傷痕――爪の剥がれた指先に繋がっていることだ。管はあきらかにミルーニャの指よりも太い。しかし指の手前で縮尺がおかしくなって、細く小さい管は彼女の内部に入り込んでいた。


「これがミルーニャに使える唯一の邪視――痛覚を引き金にして内的宇宙と接続する、変則的な【ハイパーリンク】の呪術。ミルーニャの工房アトリエにして大倉庫、そして【アルタネイフ呪具百貨】の品揃え、ご覧あれ!」 


 邪視は自分の内側に効力を発揮する方がずっと難易度が低い。本来他系統を得手とする術者――例えば杖使いでも、身体性に根ざした邪視ならば使えてもおかしくはない。それが自らの内部に影響を及ぼす術であれば猶更だ。


 彼女の能力は爪を剥がすことで【扉】を開き、積載量を超える物品を呼び出すことなのだろう。それは事実上、無尽蔵のリソースを使えると言うことだ。地味なようにも聞こえるが、ちょっと凄い呪術なのではないだろうか。――ちょっとどころではなく彼女に対する人物評が揺らいだのだけれど。

 

「ああっ、見られてる、ミルーニャの恥ずかしい爪の中、全部見られちゃってる!」

 

 私はかつて全裸で現れたアキラを変態と呼んだ。しかし今ではそれが不適切な評価だったと思える。本当に変態と呼べるのは、例えば目の前で悶えているミルーニャみたいなのだろう。


「アズーリア様の侮蔑の視線が辛気持ちいいですぅ♪ もっとミルーニャを蔑んで! ああ、でも駄目、嫌いになって欲しくないですー!!」


「大丈夫だから、嫌いにならないから。いいから早くその槍っぽいのをメイに渡そう? そのつもりで出したんだよね?」


「はい、あの――その」


「なに?」


「後で罵って貰っていいです?」


「さっさとやれこの露出被虐趣味の変態雌豚」


「きゃぁぁぁぁん♪」


 喜びの嬌声を上げながら剥がれた左手中指の爪を右手で弾く。爪の表面に血の文字が浮かび上がり、白い光を放ちながら巨大な文字列を立体投影する。指から無数の管が切り離され、肉をぶちぶちと引き千切り血を飛び散らせながら文字群の中心を漆黒の槍が通り抜けていく。加速した武器は矢のようにメイファーラの背後に向かうと、隙無しの『天眼』によって背後を正確に把握していた彼女の手にしかと収まった。


 無数の黒い管がメイファーラの腕に巻き付いて、頑丈な籠手のような形状になる。奇怪極まりない生きた武装。見ただけで強力な呪詛が込められた一級の呪具だとわかる。


 一閃すると、無数の舌が小刻みになって地に落ちた。溢れる血、上がる絶叫。

 二度、三度と繰り出される穂先は先程よりも速度を増し、その鋭利さも今まで使っていた短槍の比では無い。込められた呪力は膨大で、可視化した呪力が漆黒の靄となって穂先にまとわりついている。胴体に突き入れて引き抜くが、もはや穂先が失われるということもない。槍自体の呪力がイキューの邪視の攻撃力を凌駕したのだ。


 形勢は一気に傾いた。強力な武装を手にしたメイファーラの攻撃は見る間にイキューを追い詰めていき、繰り出されたプリエステラの打撃はその胴を打ちのめす。私とミルーニャの息を合わせた支援攻撃が白い肉体を焼き焦がすと、繰り返される絶叫もやがて力無く途切れていった。


 黒い槍が突き入れられ、串刺しの状態で宙に固定されたイキューを杖による強烈な打撃が襲った。胴体が潰れ、ついに破裂した皮膚から血肉と臓物が溢れ出して踏み荒らされた花畑を汚していく。弱々しい声が断末魔となって、怪物は動かなくなった。


 もう一度、止めとばかりにプリエステラが杖を叩きつける。更にもう一度。それでも足りないとばかりに続く一撃。何度も何度も、繰り返し杖を叩きつける。反射や痙攣すら無くなって、それでも抑えきれない激情を充分に吐き出しきるまで。

 血まみれの杖がゆっくりと下ろされて、張り詰めた空気は緩やかに消えていった。


「やった、やったんだ、私――」


 プリエステラが荒く息を吐きながら、震える声を漏らす。槍を引き抜いたメイファーラが、穏やかな目でプリエステラを見つめる。離れた位置で、ハルベルトも三人の治療を終えた様子で、プリエステラたちの所に歩み寄っていく。私とミルーニャは戦いの終わりに安堵して、勝利者であるプリエステラを労おうと近くに駆け寄っていく。


 口々にお互いの働きを讃え合いながら、勝利を噛みしめる。

 貴重な固有種の討伐。死体から素材となる戦利品を分配し終わったら、集落に凱旋して皆で祝おう。勿論、当初の目的であった金箒花もありったけ集めるのを忘れずに。この分なら、競争相手である三人に負けることはまずないだろう。


 完全な勝利だ。私はそう確信した。

 プリエステラは、執拗なまでに止めを刺し続けた。念には念を入れて何度も何度も。それはもう、死体を不必要なまでに痛めつけるような打撃の嵐。恨みの発散、復讐の遂行、喪の儀礼――それは合理的な死亡確認を超えた、儀式的な殺戮と言えた。


 だから、それが油断だなんて、その時の私には微塵も思えなかった。

 五人が集まって喜びを分かち合おうとしたその時。

 完全に動かなくなった筈の死体の中から、長く太いものが蛇のようにしなやかに、それでいて素早く這いだしたかと思うと、一瞬にして高く飛び上がった。


 真っ先に反応したのはメイファーラだった。跳躍した赤い襲撃者に向けて鋭く正確な突きを放つが、空中を地面の上にいるかのように自在に這い回る怪物に刺突は命中しなかった。虚空を泳ぐ凄まじく長大な蚯蚓とも蛇ともつかないもの。ざらついた表面は、紛れもなく先程息絶えたはずのイキューの舌だ。内臓を思わせる感覚器官――それ自体がイキューの本体だったのか。それとも、あれは寄生生物のようなものであの白い胴体と共生関係にあったのか。正確な事はわからない。なにしろイキューの討伐例というのが遠距離から一撃で氷漬けにしたという身も蓋もないものしか存在しないので、その生態については詳しいことがわかっていないのだ。


 赤い管が無数に分裂してメイファーラの腕、肩、脚を貫通し、鮮血を啜って中空を踊る。苦痛に呻きながらメイファーラが倒れた。天眼石の髪留めが障壁を形成して持ち主を守るが、その時には既にイキューは高く舞い上がって空に逃れている。無数の管が一カ所に集まり、蠢きながら奇怪極まりない異形が次なる標的を探す。その矛先がミルーニャに向かう。


 至近距離では呪石弾を撃つよりもナイフの方が早い。振るわれた銀の一閃は容易く空を切るが、それは次なる攻撃の布石。だん、と勢いよく大地を踏みならして呪力を導引すると、高々と持ち上げられた脚が旋回しながら舌の怪物に叩きつけられる。


 衝撃はあっけなく空中で霧散した。繊維のように限界まで細かくなった舌はそれぞれが物質を分解する機能を有した邪視器官と化し、ミルーニャの脚を微塵に裁断していった。ばらばらと落下していく肉片、吹き上がる鮮血、そして先ほど自ら生爪を剥がした時のような叫び。崩れ落ちるミルーニャの胸元に膨大な量の繊維が殺到し、次々と通り抜けていく。背中から、肩から、腰から、脚から、腕から、首から。体内に侵入した繊維質が彼女の全身を蹂躙し、食い荒らし、貪食していく。穴だらけになった全身から血が噴出する。無数の刃となったイキューがその胴体を真横に両断し、肩掛けの大きな鞄がどさりと落ちた。戻る動きで、ほっそりとした首が切断される。


 はね飛ばされた頭部は花々の中に落ちると、そのまま少しだけ転がって停止した。

 首から吹き出した血。金色の花畑に赤い雨が降り注ぐ。異形の生物は、歓喜するように宙を踊りながらその味を舌で受け止めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る