3-6 言の葉遣いは躊躇わない①

 日の光を浴びた私は、ぐっと背を反らして伸びをする。外なので流石に手まで伸ばしたりはしないけれど、身体がほぐされていく感覚が心地良い。

 久々に儀礼でも式典でも訓練でも防衛でも斥候でも裏面の露払いでもない、自分の自由に使える時間を手に入れたのである。開放的な気分にもなろうというものだ。それも休暇ではない。休暇なんてどうせ申請しても通らない。


 そうではなく、個人訓練という名目での事実上の自由行動である。いやできた時間は基本的に訓練に費やすつもりだけれど、それでも自分の裁量で時間を使えるという開放感はちょっと筆舌に尽くしがたい。毎日のように秒単位で行動を決められていると本当に息が詰まるのだ。


 もういっそこのまま【騎士団】なんて辞めて自由な探索者にでもなってみようか。そうして最下層を目指すのだ。後ろ盾も足場も無くなって生活は不安定になるだろうけれど、やってみたら案外と気楽で伸び伸びと行動できるかもしれない。色んなしがらみから解放されて自由に生きる人々は、きっと毎日が充実しているのだろうなと思う。


 もちろん、つまらない空想だ。左手の金鎖は私に【騎士団】から離れることを許さないだろう。物理的にも霊的にも、私が監視の目から抜け出すことはありえない。

 けれど、それは望んだ束縛だから。全ては力を手にして、妹を捜し出す為に。


「師匠捜し、なんとかしないと」


 私はこの左手を制御できるだけの高位の呪文使い――言語魔術師という高みに辿り着かなければならないのだ。そうでなければ、迷宮の第九階層、地獄にいるであろう妹を取り戻すことなどできるはずもない。


 強くなりたい――その為にはなんでもする。誰かの力を借りてでも。誰かの犠牲を踏み越えてでも。自らとどめを刺した、かつての仲間達のことを、少しだけ思い出す。


 街並みに降り注ぐ陽光が不意に途切れた。

 一瞬だけ影が差したのは上空を巨大な巡槍艦が飛行していったから。雲や散らばった大地の間を行き交う艦船たちは今日も人や物を運び続けているようだ。


 天より降り注ぐ強烈な陽光は複雑な回折を経て最適な光量に調節されていく。見上げると、細く長く張り巡らされた透明な通路が大樹の枝のように放射状に広がっている。

 枝の幹となるのは、街の中央を貫く途方もなく巨大な槍。


 鋭利な穂先と複雑に枝分かれした区画が効率的に陽光を吸収し、膨大な呪力を蓄えて都市に供給している。

 ここは【世界槍】を中心に形成された都市、エルネトモラン。


 世界槍――九層からなる迷宮を内包する槍の形をした小世界群。

 地獄からこの地上までを貫く天廊にして戦場。


 地上に露出した部分だけでも人類が現行技術で積み上げることが可能な高層建築の限界を超えている。神話時代の遺産にして古代文明が遺した超技術の結晶。その恩恵に与るため、人類はその周囲に人造の枝を伸ばして樹状の積層都市を築き上げた。多層構造を成すこの大都市の人口は五百万に届く。


 迷宮都市エルネトモランは、その名の通り世界槍の迷宮を中心に発展した街である。地上部分には地獄からの侵攻を防ぐ為に【松明の騎士団】が要塞を築き上げ、幾層もの防壁が重ねられ、内側に向けて防備を固めている。


 このアルセミット国の主要な司教座都市の一つにして、世界槍を擁する槍樹都市であり、地獄の侵攻を押し止める要塞都市でもある。

 更には数多くの【門】によって各地と繋がる門前都市という側面も有し、交易と軍事の中継点として無数の人と物が行き交う大都市だ。


 見渡す限りの人、人、人。遙か空に伸びている透明な枝の中にも、下から内部は窺えないものの、多くの人が暮らしている。

 道路とその上の中空を行き交うのは様々な形状の車輌で、光学呪術によって表示された誘導帯に従って規則正しく天地を走っていく。


 最近は車輪を用いた車も減ってきて、街を走る乗り物の多くはクロウサー社の製造する大型箒が主流である。四人も積載可能な箒なんて私の故郷では想像すら出来ない代物だったから、都会ではこんな技術の産物が走っているのが当たり前なのか、と驚いた覚えがある。今思えば田舎者丸出しであった。恥ずかしい。


 活気に溢れる街を歩いていく。目指すのは宿舎から少し歩いた先にある列車の駅。目的地である第六区は樹状階層の枝の一本を指しており、徒歩で向かうには少々遠い。街を立体的に周回する公共交通機関を用いるのが一番手っ取り早い移動方法だ。


 黒衣で全身を隠している私に少々の視線が集まるが、すぐに関心を失って各々の目的地へと足早に歩んでいく。

 都会とはそういうものだ。多少奇異な格好をしている者がいてもそう悪目立ちはしない。それに、私は少数派とはいえ一般的に認知された種族であり、この服装もそれなりに許容されている正式なドレスコードである。


 のそのそと街中を進む私の横合いで、信心深そうな老女が熱心にこちらに向けて祈りを捧げているのが見えた。

 もごもごと、どこかの方言で「ありがたい」というような事をしきりに呟いている。


 すぐ傍に付き添っている女性――娘だろうか――が足を止めている老女に困ったような視線を送るが、老女は気が利かない相手を責めるように女性を急かす。

 女性は嘆息してこちらに近寄って話しかけてきた。


「あの、これを。どうかお納めくださいませ」


 そう言って、手提げ鞄から小さな包装を取り出して差し出してくる。中に入っているのは間違い無く心付けプロフィトロール――菓子の類だろう。たまたま購入した帰りなのか、それとも信心深いために持ち歩いているのか。いずれにせよこういう時、私は無言で応えなければならない。それが作法だ。


 黒衣の袖に包まれた両手を差し出して、恭しく捧げ物を受け取る。そのまま黒衣のフードの中に仕舞い込み、左手で軽く女性の手に触れた。


 びくりと身体を震わせ、一瞬恐れを表情に浮かべる女性だったが、すぐに気を取り直して「ありがとうございます」と礼を述べてその場をそそくさと立ち去っていく。私も同じようにその場を後にした。背後で「良かったねえ」という老女の声が聞こえて、内心で息を吐く。緊張した。


 こういう風に道ばたで拝まれたり祈られたり、甘い物の捧げ物をされたりといったことは良くある。とりわけ、【騎士団】の鎧ではなく眷族としての黒衣を身に纏っている時には。

 面倒なので鎧を着ていればいいのだが、それだと修道騎士としての立場を表明していることになるので別種の面倒さがある。かといって黒衣を脱いでしまえばもっと悪目立ちしてしまうので、結局この姿が一番無難という結論に落ち着く。


 私は地上にあって霊長類と共存することを許された数少ない異種族だ。

 地獄にあって地上の敵とされる異獣たちとの違いは、大神院が敵だと定めているか、そうでないか。


 槍神という絶対の基準が、その明暗を分けてしまう。

 そうした事は表面上受け入れられていて、中には私達のことを御使いのように神聖視する信心深い人達までいる。


 けれど、この地上世界もそう一様な考えの人ばかりではない。

 こつん、と頭に何かがぶつかる。見ると、小さな石ころだった。

 投げたのは小さな子供。就学年齢にも満たないだろう少年が敵意に満ちた表情でこちらを睨み付けている。


「どっか行け、この化け物! お父さんを返せよっ! 異獣なんかみんないなくなればいいんだ!」


 ――そう珍しいことでもない。

 そう自分に言い聞かせるけれど、ああやって小さな子供にまで憎しみをぶつけられるのは、正直言って堪える。


 俯いてその場を立ち去ろうとした時、怒りに震える少年を横から叱りつけるものがあった。一つ二つしか違わないであろう、幼い少女だ。小さな手で少年の頭を叩くと、そのままぐいと頭を下げさせる。


「ごめんなさい使徒様、うちの弟が失礼な事をしてしまって」


「なんだよ、止めろよ姉ちゃん」


「馬鹿! いい子にしてないと、マロゾロンド様に嫌われちゃうんだよ! そうしたら、お父さんだって地上で彷徨ったまま、空の上に連れて行ってもらえないんだから。それともあんたはお父さんが悪霊になって人を襲ったり、お父さんの同僚の人達に退治されてもいいっていうの?」


 少女が語っているのは、大神院の教義において第二階級の天使とされる黒衣のマロゾロンドについての言い伝えだ。

 黒衣を纏った矮躯のマロゾロンドは死者の魂を導き、槍神のおわす天の御殿へと導くと言われている。


 天の御殿そのものが意思を持たない第一階級の天使とされているため、マロゾロンドは最も位の高い神の使いだと見なされることが多い。

 私のような異種族が地上で生活できているのは、ひとえに種族全体がそのマロゾロンドの加護を受けているためだ。


 少女はなおも抗弁しようとする少年をきっと睨み付けて黙らせると、私に向かって不安そうに問いかける。


「ねえ使徒様、この間の大きな戦いで、お父さんはお墓に入ることになってしまったんです。マロゾロンド様は、ちゃんとお父さんを天の御殿に連れて行ってくれますよね? うちの弟にはちゃんと言い聞かせますから、だからどうか――」


 無言のまま、左手で少女の頭を撫でる。

 夜月の運行方向である左回り、死と不吉、陰や闇を暗示する左手で霊的な象徴でもある頭部を撫でることは、しかし私のような眷族種が行えば『聖なるもの』へとその意味を変える。


 死者の魂が安らかに天に召されるということをその仕草で保証すると、少女は安心したように表情を緩めた。

 私はなおも不満そうにこちらを睨み付ける少年に、黒衣の内側からお菓子の包装を取り出して渡した。


 僅かなおびえを見せたものの、引き下がることを幼い誇りが許さなかったのか、ひったくるように手に取って、中から甘藍のような菓子を取り出す。

 ふっくらした皮の空洞にクリームが詰まっており、私達の種族を思わせる黒いチョコレートがかけられた焼き菓子をえいやっと頬張る。


 強張った表情が少しだけ緩み、けれどそのまま遠ざかると、こちらを振り向いてべえと菓子のくずが付いた舌を出して見せる。少女がすみません、と謝罪して、少年を怒鳴りながら追いかけて行った。


 諫められていたものの、あの少年の態度はまだ社会的に許容されうる性質のものだった。

 異獣への敵意は大神院によって奨励されている正義だ。

 きっと時間を重ねるにつれて彼も己の中の怒りと憎しみを制御する術を覚えるだろうが、その火が完全に消えることは無いだろうと思える。


 それでいいと私は思う。地上では、その方が安全だ。異質なものは選別し切断し、更には序列化して排除と包摂を秩序と定める。それが地上を支配する大神院の掲げる規範だから、地上で生きる以上それに逆らうことは難しい。


 逆に自らとは異なる相手への共感を求めてしまった人にとって、地上はとても生きづらい場所だ。たとえば、彼のように。


「【騎士団】の行為は野蛮な侵略戦争でしかない! 修道騎士、そして探索者たちは退治と言ってまるでそれを正義の行いであるかのように喧伝しているが、彼らが敵と信じて殺してきたのは我々と同じ意思と感情を持った人間だ! 姿形、奉じる神は違えど我らは同じ世界に住む人類同士! 知性ある者たちとの融和こそ正しき道である! 下方勢力との対話と共存を!」


 私は駅前でプラカードを掲げて一人きりで自らの主張を世間に訴えようとする青年に視線を向ける。言論が一瞬で検閲削除されるネット上ではなく、現実で声を張り上げようと志を高くして立ち上がったのだろう。けれど、この【騎士団】のお膝元でその行為はあまりにも無謀と言えた。


「我々ひとり一人の命が尊いように、彼らの命もまた尊い! 異獣と呼ばれ蔑まれている下方勢力の人類にも愛する家族や大切な友人たちがいるのだ! 我々は敵対以外の道も模索するべきではないだろうか!?」


 異獣は実は理解不能な怪物などではなく、地上人類と同じ知性ある『人』である。このような『発見』は天地の間で戦いが始まって以来、幾度となく行われてきた。

 たとえ思想や情報が統制されていても、情報化が一定以上進んだ社会でそんな単純な事実を隠蔽しようという方が無茶というものだ。


 地上は異獣を殺し、地獄を侵略し、知性ある人を食い物にすることで平和を享受している――そんなことは、誰もがわかっているのだ。

 その事を分かっていてなお声を上げずにはいられないどうしようもなさ。


 青年の心中を察することなどできないが、せめてあの無謀な真似だけでも止めようと歩み寄る。彼は私に気付くと、気色ばんだ顔に一層の熱を宿した。


「おお、君ならわかってくれるだろう? 異獣であるか、天使の眷族であるかを定めるのは大神院の都合でしかないのだと! 我々は薄汚い神官や政治家たちの操り人形ではないと、共に証明しようではないか!」


 危険過ぎる発言だった。ネットでこの程度の事を書き立てるだけならばまだいい。けれど、こんな人目のある場所でこうした『地獄的な思想』を公言するのは――そう危惧して警告しようとした矢先だった。


 がしりと青年の腕が両側から掴まれる。いつのまにか彼の左右に立っていたのは、銀色の光沢も眩しい全身鎧の姿。その胸には松明の紋章が刻まれている。

 何もかも遅きに失したのだ。こうなってはもう手遅れ。私に出来ることは何も無い。


「よ、よせ、離してくれ! 大神院は私から言論の自由を奪おうと言うのか!」


 青年の叫びを意にも介さず、鎧は無機質に駆動し、その決して軽くはない成人男性の身体を引きずっていく。自動的な動きに、青年が気がついた。


「くそっ、こいつら、自動鎧リビングアーマーかっ! 話の通じない奴らめ、私は貴様らには屈しないぞ!」


 次第に遠ざかっていく青年の声。引っ立てられていくその姿を、ただ見ていることしかできない。

 近くで誰かが小さく呟くのが聞こえた。


「あーあ可哀想に。あれは順正化処理だろうな」


 ――次にあの青年を見た時には、きっと大神院の教えに忠実で、異獣を心から憎む模範的な地上人になっていることだろう。

 それがこの地上世界での正しさなのだと、誰もが分かっている。


 小さな騒ぎなどあっという間に忘れ、それぞれの日常へと帰って行く。

 私もまた、同じように駅の構内へと進んでいった。

 この黒衣が人の中を歩く時、私の意思とは関係無しに様々な人が何かを感じ、何かに動かされ、何かを口にする。


 そうした色々なものに、どう応えればいいのか、未だによくわからない。

 性質も方向性もばらばらな私以外の無数の意思。

 言葉という選択肢は膨大で自由自在だけれど、だからこそたった一つの正解を選び取ることは難しい。


 だから私は沈黙する。正しく言葉を紡ぐには、私は愚かに過ぎるから。

 ふと思い出すのは、あの外世界から来た彼。

 その失われた左手のようだと、漠然とした類推が胸に去来する。


 必要な言葉は私には重すぎる。

 だから、フィリスという言葉の義肢が必要なんだと、そう思った。

 自分の魂を捧げなければ必要な言葉も口に出せないだなんて、みっともないことこの上ないけれど。それが、今のアズーリア・ヘレゼクシュにとっての限界だった。

 

 

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