3-4 欠けた姉妹①


 

 


 繰り返し繰り返し。私はまた、幼い頃の夢を見る。 


 こんなことを言うと奇妙に思われるかもしれないが、私は妹を妹だと感じたことが一度もない。今度は私が薄情な性格をしているかのようだが、それについてははっきりと否定できる。私はあの子を家族として、姉妹として大切だと思っていた。ただ、庇護すべき『妹』として可愛がったり手を引いてあげたりといったことができなかっただけ。


 もっとも私に限らず、妹を知る誰もがそんな不遜なことを思いつきもしなかっただろうけれど。幼い私が妹に対して抱いていた認識というのは、「年下の姉」とか「自分より小さなお姉さん」というようなものだったのだ。


 妹は神童だった。

 そのあまりに特異な生まれから、両親のどちらかが不義を働いたのではないかと騒ぎになったが、生まれたばかりの妹はしわくちゃでなめらかな顔に落ち着き払った表情を浮かべると、慌てふためく大人達に向かって理路整然と対立遺伝子だとか隔世遺伝だとかの『メンデル』なる司祭が築き上げた遺伝学の基礎について説き、場を見事に収めて見せたという。

 生後数十秒のことである。


 大人たちは口々に妹を褒めそやし、同時に畏れ崇めた。

 神に――私達の村ではそれは槍神ではなく黒衣のマロゾロンド神のことだったけれど――愛された子供だから、失礼があってはいけない。


 妹は村の中心に、そして最も高みに祭り上げられた。その特別扱いを、誰もが当然のこととして受け止めた。それが最善であると納得させられてしまうだけの圧倒的な呪力がその赤ん坊の内側には充溢していたのだ。


 【猫に名付けられた子供達】の例に倣って、妹はベアトリーチェと名付けられた。というより、妹が自分自身で決めたのである。妹は生まれた瞬間から何もかも完璧で、村の誰よりも優れた存在だった。大人達と対等に話すことが可能なほどに賢く、貪欲に様々な知識を学び、そして急激な速度で成長していった。


 誰よりも傑出していながら、彼女は誰かを蔑んだり偉ぶったりするような事も無く、むしろ多くの難事をその卓越した才覚で解決していったことから、村の誰からも尊敬されるようになっていた。


 妹と比較すると出来の悪い私は周囲の子供たちから馬鹿にされたけれど、妹が私に彼らを見返すための方法を教えてくれたおかげで私は苛められなくなった。妹は私をどんな時でも守ってくれた。そうと分からないように私を立てながら、いつでも優しく手を引いて、背中を押して、見守っていてくれたのだった。


 あの頃の私はどんなときでも妹の後ろをとことこ付いて回るような懐きっぷりで、二人でおつかいを任されて人里に下りて行った時などは私があまりにぴったりと妹に寄り添っていたために、妹の影かなにかのように思われてしまったほどだ。


 一般的に想定されている役割というものは、私たち二人の間ではきれいに逆転していたと思っていい。その姿が見えなくなると「ビーチェ」と妹の愛称を呼んで、返事がないとすぐにぐずり出すような子供が私で、たびたび迷子になる私を見つけ出して叱りつけたあと、優しく頭を撫でてあやしてくれるような子供が妹だった。


 私は『お姉ちゃんっ子』ならぬ『妹ちゃんっ子』というわけだ。そのことを周囲に揶揄された私の、素晴らしい褒め言葉を送られたと勝手に勘違いしてわざわざそのことを妹に報告しにいくような、圧倒的な馬鹿さ加減は今考えても頭を抱えたくなるけれど――幼い頃の私にとって、妹は世界の中心だった。きっと、今でもまだ。


 時が経ち、私達は幼い子供と言える年頃から抜け出そうとしていた。

 たった二つ――村の外だと一つしか歳が違わない妹は美しく成長し、村の誰よりも聡明な少女になっていた。

 誰からも尊敬され、褒めそやされる完璧な少女。


 けれど、ずっと近くで彼女を見ていた私には分かった。

 妹は心に何か鬱屈としたものを抱えている。

 隠し事は誰にも共有できないもので、彼女はその完璧さゆえにそれを一人きりで胸にしまい込んでいくことしかできないのだ。


 その事を理由も無く直感して、私はその悲しさを想って泣いた。

 妹は「どうしたのですか、幾つになってもアズは泣き虫さんですね」と言って、優しく頭を撫でてくれたけれど、本当は私の方があの子の頭を撫でてあげたかったのだと、今になって思う。


 幼い時間は飛ぶような速度で流れていく。

 忘れることのできない瞬間が、やがて訪れた。


 そのとき私たち二人は村の外れの小高い丘でのんびりと月光浴をしていた。

 そうやって夜の月明かりから呪力を浴びるのが私達の日課だったのだ。

 大きくなったら長老様みたいな立派な呪術師になろうと、私達はよく話していたものだった。


 妹の方は既に村一番の呪術師である長老の技量を超えつつあったのだけれど、その事にはあえて二人とも言及せず、ただ仲睦まじく寄りそう時間を愛おしんでいた。

 それがどんな会話の流れから展開された話題なのか、未だに詳細が思い出せない。けれど、確かその奇妙な問いを投げかけてきたのは妹の方からだったと記憶している。


「本来なら誰かが送るはずだった人生があるとして――死ぬ筈だった者が横からその席を奪い取り、新たな人生を送るということは、果たして正しいことなのでしょうか」

 

 その質問が人の魂を乗っ取って甦る転生者についての言及であることを――そして人が人を押しのけて安住の地を奪い合う椅子取りゲームのアナロジーであることを、今ならば理解できる。


 妹がその問いを口にした真意についても、確信に近い推測は組み立てられている。

 だけど、それをどうしてあの時、そして私なんかに訊ねたのか、それだけがわからない。

 どうして私でなければならなかったんだろう。愚かで未熟で、ものの道理などまるでわからない私なんかに。


 私があの時、あんな答えを口にしなければ、もしかしたら今とは違う未来があったのかもしれない。全ては「かもしれない」だけの後悔だ。


 これは夢。失った過去の虚しい残響。

 だから私の愚かさは、ずっと取り返しがつかないまま。


「誰かの人生を犠牲にしてまで生きるなんて、私だったら耐えられない」


 今の私では口が裂けても言えないようなことを、あの頃の愚かで想像力のかけらもない私は平然と、臆面もなく口にした。


 そのときに妹が見せた反応は、思い返すたびに可哀想になるほどだった。今にも倒れてしまいそうなほど青ざめて、それからは何を話しかけても気もそぞろに何事かを真剣に考え続けるばかり。彼女が私には理解できない難しい物事を考えているのはいつものことだったけれど、あのときの妹は、傍目から見ても明らかなほどに思いつめていた。


 その後に決定的な出来事が訪れるのだと私は知っていたから、目を閉じて耳を塞いで、早くその時間が終わり、夢が覚めて欲しいと必死に願う。それでもその光景は記憶の中から私の意識の表側に手を伸ばし、こちらの目を強引にこじ開けようとしてくるのだ。目を逸らすことなど、決して許されないのだと教えるように。


 早回しで流れていく、断片的な最悪の記憶。

 打ち棄てられた古代文明の遺跡。探検しようと子供の思いつきで妹を連れ出す愚かな私。そこで出会ってしまった、致命的な運命。


 雲が流れ、一時隠れていた月がその光を地上へと差し込ませる。

 遺跡の表面で凍り付いた分厚い氷に月光が反射して、幻惑的な光の回廊が私達の目の前に現れ出でる。感じたことを何でもかんでも妹に伝えなければ気が済まない私が、あの時ばかりは言葉を失ったことを覚えている。天青石を散りばめたような、という妹の喩えを、色彩を知らなかったあの頃の私は理解できなかったけれど、その一帯が絢爛で荘厳な光の城塞であるという事実の幾ばくかはその未成熟な情緒でも感じられたものだった。


 氷の封印。内側に封じ込められた九体の異形たち。

 そしてその中心で眠る、形の無い、何か曖昧な光の偏り。

 魅入られたように『それ』を見上げる妹。


 月光に照らされて輝くその横顔が――美しく成熟し、少女へと開花しようとしているその姿があまりに儚くて、私は今でもその瞬間を忘れることができないでいる。

 永遠の少女。

 あまりに容易く失われ、奪われた、私の宝物。

 私の犯してしまった、取り返しのつかない過ち。


 『それ』は不可視の手を伸ばし、感応の呪力でより自分が乗り移るのに適した器を探しているようだった。おぞましい何かがいることを理解して、私は怯え、妹に縋った。縋ってしまった。そして、私は愚かにもその時になってようやく気付いたのだ――妹もまた、目の前の脅威に対して恐怖していることに。


 私が妹を妹として守ってあげられる最後の瞬間はそうして失われ、ベアトリーチェは私の代わりに犠牲になった。怯える私を守るために。

 目に見えない手に絡め取られ、呪力を宿した月光が散乱して妹の像を歪ませていくその光景をただ呆然と見ているだけだった私は、最後にかき消えそうなほどか細い呟きを耳にした。


「――どうせ、誰かを踏みつけにして手に入れた人生だもの」

 

 その言葉が、耳からずっと離れない。

 あの表情が、目に焼き付いて今もまだ鮮やかなまま。

 当時の私には意味の分からなかった独白。


 今なら分かる。妹は神童で、天才で、あまりに傑出しすぎていた。異端でありすぎた。きっと彼女は、転生者だったのだ。外世界から来たのか、過去から来たのか、それとも未来から来たのか。詳しくはわからないけれど、きっと妹は転生者。それも、誰かの魂を上書きしてこの世に生まれるタイプの憑依転生者だった。


 とても優しい心の持ち主だった彼女は、そのことをとても気に病んでいて――ある時、それとわからないように、身近な人物に悩みを相談したに違いない。

 当時の妹に教えてあげたかった。相談相手の人選を間違っていると。その相談相手はあまりに愚かで、相談するに値しないのだと。


 誰かの人生を犠牲にして生き延びる事を否定した幼い私は、無自覚のうちに妹に対して犠牲を強いていた。そして、妹の犠牲の上で今もなお生きながらえている。

 なんて愚かな私。

 そして、なんて愚かな妹だろう。


 その命が誰かの犠牲の上に成り立っているとしても、今ある命が否定されていいなんてことにはならないのに。

 死者は尊いけれど――同じように、生者だって尊い。


 犠牲になった命を想って胸を痛くさせるほど優しいのに、どうしてあの子は自分の命を大切にしてくれなかったのだろう。

 決まっている。あの子が優しく強いから。

 私が、愚かで、弱くて――想像力が、優しくないから。


 軋みを上げて、氷の封印が砕けていく。

 過去の英雄が封じた九体の異形。それらを従える最悪の魔女。

 いにしえの地獄が地上に再び顕現し、目を覆いたくなるような災厄が溢れ出る。

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