3-3 もうひとつの左手②

「そいつは通常の寄生異獣とは異なり、君の肉体や霊体ではなく、世界の中にある君というメタテクストを浸食する」


「それは、言葉についての言葉、とかそういうことですか?」


「そういう意味もある。例えば注釈だな。記述と記述の連関、相互に与える影響や参照性。そういった構造の中のはたらきを示す呪文系統の用語だよ。信仰基盤という高次存在の索引を参照して神の奇跡を再現する神働術も、呪術の枠組みで言えば引喩アリュージョンというメタテクスト操作系呪術に分類される」


 ラーゼフの口調に熱が籠もり出す。もう呪術だとか神働術だとかの区別は頭から消えてしまったようだった。


「引喩ですか。聞いたことはあるような」


「話が早くていい。それが引喩の長所である速さだ。語らずとも雄弁に物を語る、言葉の狭間を伝う呪文だ。例えば、引喩という言葉をどこかで見聞きして知っていれば、それに関する説明を省略できる上に、任意のテクストを想起させることができる。この時、今まさに私が言及している引喩についてのテクストと、君が思い描いた引喩についてのテクストとの間に働く何かしらの相互作用が間テクスト性と呼ばれるものだ。メタテクストはその一種だな。そしてこれは伝播と流動を繰り返して変質していくミームの概念にも近い、つまりは呪術の根幹を成す力なのだよ」


 実際、このような呪術理論は神働術的な解釈では説明しきれないことも多い。

 何でもかんでも槍神の御業で説明してしまうその性質上、過去に起きたことがある具体的な現象ならばともかく、抽象的な物事を扱うような術では呪術体系に分があるのだ。


 神働術の理論で呪術と同じかそれ以上に曖昧な事象を引き起こそうと思えば、かなりの才能と霊力、そして強烈な信仰心や信念の類が必要になることだろう。


「この世界には人の数だけ無数の視座、視野が存在し、それらが相互に影響を及ぼし合っている。君という存在だけ見ても、君自身が認識しているアズーリア、私から見たアズーリア、その他の誰かが捉えているアズーリアと、常にゆらぎ、君の事を正確に記述しようと思ってもその内容が安定しない。そうやって多層的に広がる地下茎リゾーム型の世界観群が、君がよく遊びに出かけているアストラル界の正体だ」


「では世界の中にある私を浸食するというのは、アストラル界に存在する霊体を浸食するということでしょうか」


「いいや。フィリスがやっているのはもっとスケールの大きな改変だ。浸食しているのは構造それ自体。つまりフィリスは世界そのものに対して浸食を行う寄生異獣だ」


 眉をひそめる。言っている意味がよくわからない。規模が大きいというのはわかるけれど、それは具体的にどういった影響を及ぼすことなのだろう。


「通常、寄生異獣は宿主の肉体と霊体、両方を浸食していく。そうしてまず宿主自身の自己認識が揺るがされ、本人の視座が改変されてしまう。変質した異獣憑きを見て、周囲もまたその異獣憑きへの認識を改め、緩慢に変化が進行していくんだ。つまり寄生異獣が影響を及ぼせる範囲はあくまで宿主のみに限る。しかし、フィリスは違う。こいつはまず世界の構造そのものに干渉し――どうやって、とかは訊くなよ。私だってそれが知りたいんだ――まったくの同時に君自身の視座とその他の全知性の視座とを改変しているんだ。それがどれほど凄まじいことか、わかるだろう?」


 この世界の全ての視座を同時に改変する。それほどの呪術の処理能力が、この左手に秘められているのなら、それは。


「ちょっと無茶過ぎませんか、それ」


「私もそう思う。その他にも、こんな仮説が立てられる。実はこの世界にある全ての存在、全ての事象は、たった一つの根本原理によって記述されているのではないか、という。それならばフィリスはただ一つの対象にだけ影響を及ぼしていることになる」


「私達――ラーゼフ先生もこの寝台や機器類も、全て同じものを参照して存在しているってことですか? それってあれですよね、古い俗説の」


「紀元槍神話だな。天地を貫く複数の世界槍は、原初ただ一つの巨大な槍であり、全ての存在はそこに由来する。俗説というが、大神院でもたびたび議論される、歴とした神学論争の係争中案件だよ」


「はあ。でもそれ、単に侵略の大義名分ですよね?」


「こら、迂闊な事を言うな――まあその通り。だが大神院がそういう思惑で全ての起源は槍神とその持ち物である紀元槍にあると主張しているからと言って、それがたまたま正解でないとも言えまい?」


 乱暴な理屈――これを理屈と言ってはあらゆる学者に失礼だろう。これはもはや空想の類である。まさしく呪術的思考の極みと言えた。その意味では、ラーゼフの推論方法は呪的生物である寄生異獣の本質を捉えるための正しい手段なのかもしれない。


「まあ仮説に仮説を重ねた私の妄想だ。しかし、そうすればわかりやすく説明できるのだよ。君の左手はそれほどに異常なんだ。荒唐無稽なこじつけでもしなければ、まともに論証することすら困難な条理を外れた存在。それが【呪祖フィリス】だ」


「論証不能って、単に前提がおかしいだけでは」


「だろうな。だがこういう記述が含まれた呪文という可能性もあるぞ。たとえば『この記述は論証できない』というような。論証不可能なのが定義だから、論証した瞬間に定義した呪術ではなくなってしまう。ゆえに、たとえば科学的な分析によって君の左手を把握し、その神秘性を零落させようとしても、それは適わないというわけだ」


 呪術の定義を『科学的ではないもの』として規定した瞬間から、科学ではどうやっても呪術を捉えられなくなる。

 科学的な思考と論証によってその定義を定めてしまった以上、この世界の事象、その全てを科学で説明したとしても『それ以外の何か』を仮構することで言い逃れることが可能だからだ。


 原理的に、科学はその科学的な思考の枠組みゆえに呪術を包括できない。『ありえないなんてありえない』とする条理の中にはありえない特異点。そんな、あらゆる【杖】の呪術師を無力化するような凄まじい呪術が行使できるとすれば、それを操る術者は既存の枠組みでは括れないだろう。


「君は真理ロゴスと対置される存在。神話ミュトス――物語を揺り動かす者、さしずめ【神話揺動者ミュトスフリッカー】とでも言った所かな」


 呪術師見習いとしての私には、大まかに四つの進路があると今までは想定していた。けれど、私の適性は邪視者ファシネイターでも言語魔術師ストーリアでも支配者ルーラーでも呪具製作者エンチャンターでもないらしい。強いて言えば、言語魔術師が近いのかもしれないけれど――。


 彩度を持たない左手。二度と再現できないだろうとまで言われた、貴重な試行であり重要な寄生異獣。随分と話が遠回りになったけれど、その浸食率が上昇しているということが何を意味するのか。


「このままフィリスを使い続ければ、浸食されるのは君だけに留まらないだろう、ということだ。世界そのものか、より根源的な何かか、ありとあらゆる存在か――もしかしたら、条理を外れた侵しがたい何かにまで手を伸ばしているのかもしれない」


「浸食率が上昇し続けたら、一体何が起きるんでしょうか」


「わからんが、無闇に濫用するのは控えろ。それこそ前回のような、魔将との戦いの時でもなければできるだけ自らの力で乗り切るようにすべきだ。実際、何が起きてもおかしくないんだ」


 あらためて、自分がとんでもないものを左手に宿しているのだと思い知って息を飲む。後悔は無い。修道騎士の誓願を立てた時――異獣憑きになると決意した瞬間から、私はこの左手と運命を共にすると決めたのだ。たとえその結果として、自分以外の誰かを巻き込んだとしても。


 けれど、積極的に犠牲を生み出したいというわけでは無いから、私はラーゼフの忠告をしっかりと心に刻み付けて頷いた。


「もし今後、寄生異獣の追加を申請するつもりなら、憑依型か使役型にしておけ。擬態型に比べれば浸食速度が低いからな――その代わり、発狂と造反の危険性が高まるが」


「そうですね。これから戦いも過酷になっていくでしょうし、戦力の増強は必要――装備も寄生異獣も、それから呪術の修練もしなければ」


「――これを返しておく。正式に君の装備として登録しておいた」


 そう言ってラーゼフが渡してきたのは、見覚えのある黒表紙の書物と槌矛だ。第五階層で託された魔導書と、ラーゼフ謹製の呪術杖にして打撃武器。


「調査したが、やはり魔導書の詳細は不明なままだ。かなり古い時代に書かれたもののようでな、暗号の鍵がわからない。潜在呪力は相当なものだが、はっきり言って相当な難物だぞ、それは」


 私はエスフェイルとの戦いでこの魔導書を完全に掌握したと思い込んでいた。

 けれど本当に力のある魔導書というのは、素人が一見しただけでは分からないように二重三重に暗号化が施され、多層的な解釈を許す構造になっている。


 これはそういった本物らしいと、地上に戻ってから知った。

 思いがけない収獲だったわけだが、反面自らの呪術師としての見る目の無さを露呈させることにもなってしまった。この魔導書を使いこなせるようになることも課題の一つだ。


「それと、杖のほうは牽引帯の数を減らして持続時間を伸ばす調整をしておいた。後で試運転しておくように」


「わかりました。どうもありがとうございました」


「あとはきちんとした師がいればいいんだが、生憎と私の技量は褒められたものじゃないし、大神院の通り一遍な訓練過程で神働術を学んでも、君には合わないだろう。独学でどうにかやってみるか、それか外に目を向けるか、だろうな」


「外、ですか」


「世界中とまではいわずとも、この広い迷宮都市のどこかにはとびきりの突然変異である君に教えられる高位呪術師がいるかもしれない。探して、教えを請うてみてはどうかな」


 簡単に言うけれど、この街は広い。その上、今の私にそんな余裕は無い。


「といっても毎日毎日、端末経由で任務の指示が来てますし、ここに来る時間だってようやく捻出できた貴重な機会なんですよ」


「どうせろくに意味も詰まっていない空虚な儀式ばっかりだろう。そんなもん放り出せ。私からも言ってやるからスケジュールに訓練とだけ書いて提出してしまえ。君が強くならないと困るのは、英雄と持ち上げてる連中だって同じなんだ」


「それは正論ですけど、肝心の訓練する方法とか、師匠の当てが――」


 無くもない。アストラル界で知り合った談話室のメンバーならどうだろう。今度それとなく訊ねてみるのもいいかもしれない。問題は、一番高位の呪術師だと推測されるジアメアさんには何かを教えてもらえるような気が全くしないことだった。


 その他の高位呪術師――そう考えて真っ先に頭に浮かんだのは、あの綺麗な歌声と黒玉の瞳を持つ美貌の少女のことで、私は慌ててその考えを振り払う。あんな得体が知れなくて失礼な変態、たとえ高位呪術師であってもこちらからお断りする。


「ふむ。確かにそうだな。さしあたっては、六区の呪具店街を回ってみるとか、あとはアストラルネットで――いやダメだな、実際に会う必要がある以上、迂闊に素性を晒せない。【騎士団】の英雄が頼りになる師匠を探していますというのは外聞が悪いしなあ」


「別に、上には上がいる、でいいんじゃないかと思いますけど、そんな理屈じゃ納得してくれないですよね」


「上や周りがどう感じるか、という問題だからな。同じ理由で探索者協会に行くのも駄目だ。同じ上方勢力でひとくくりにされているとは言え、修道騎士と探索者はライバル同士。弱みを見せるのはまずい。匿名で探してもどうせまともなのは集まらんだろう。とすれば、やはり足で探すのが一番だな」


「結局人力ですか――とりあえず、何とかしてみます。六区に行って駄目だったら、迷宮区まで足を運んでみるつもりです。あそこなら、無所属の高位呪術師と遭遇できる可能性もありますし」


「構わんが、一人では行くなよ。申請を出して分隊の仲間を――」


 途端、ラーゼフの息に感情が交じる。しまった、という言葉を飲み込んだのがわかった。私から何か言うべきだと判断して、迷いながら口を開く。


「再編の人事って、どなたに決定権があるんでしたっけ」


「総団長どのと私、それから君の希望も加味することになっている。指名したい相手がいれば考慮しよう」


「私、キール隊以外だとあまり知り合いがいなくて」


 今となっては、ラーゼフが一番話せる相手である。同期や直接の上司が第五階層で軒並み討ち死にした為、知人レベルですらほとんどいないのだ。


 魔将エスフェイルは倒せたと言っても、あの時に受けた大打撃は【騎士団】に深刻な損耗をもたらした。加えて、第六階層の攻略も難航しており、ついこの間も有力な探索者グループが一人を残して壊滅したという情報がもたらされたばかりだった。


 【騎士団】の人員不足は深刻で、私という面倒な存在を直接の麾下に組み入れたがる者も少ない。私の扱いについても意見が割れたと聞いている。処刑か脳を洗うか幽閉かそれともいっそ功績を讃えて祭り上げてしまうか。


 最後の意見が採用された裏には、ラーゼフの強い希望があったと誰かが噂しているのを耳にした。彼女はしばし悩ましく唸って、それから少し迷うようにしてこう言った。


「――私の部下に、一人器用な奴がいる。そいつも異獣憑きでな。環境適応能力に優れている。汎用的に使うために手元で雑用をやらせていたんだが――端末のアドレスを教えるから迷宮に潜る時には呼び出して組め。貸してやる」


「ええっと」


「実力は信用できる。序列は二十九位だ。【守護の九槍】とまではいかないが、騎士団内部では上から数えた方が速い」


 それは凄い。私は素直に驚いた。聖騎士の序列を決めるのは武技、神働術、そして寄生異獣との同調率などを総合した純粋な強さだ。戦いが激化する中で何度も欠員が出ているとはいえ、上位三十位以内というのは相当な実力者だと思っていいだろう。


「ちなみに、君も魔将討伐の功績で暫定三十位に昇格することになった。喜べ、そして隣の序列同士で切磋琢磨するがいい。不良と不良で波長も合いそうだし、実際に顔をつきあわせてもまあ上手くやれるだろう」


 私の序列については初耳だったが、それならば行動を共にするのに相応しい――のだろうか。まだよく分からない。知らない相手と実際に面と向かって上手くやれるかどうか。


「というか、不良なんですか?」


「まあ会って話せばすぐ分かる。初対面の相手と接するのに苦手意識がある君でも、あいつなら問題ないはずだ」


 正直あまり自信が無いのだが、まさか断るわけにもいかない。それに厚意にはできるだけ応えたかった。


「了解しました」


 至れり尽くせり。ここまで甘くされているのは、それだけフィリスが大切なのだろう――そうであっても、今このとき私が親切にされている事には変わりない。

 深い感謝を胸に抱いて、もう一度「ありがとうございました」と気持ちを言葉に変える。ラーゼフはそれを聞いて、薄く笑って私を追い払おうとするように手を外側に振った。


 研究棟の敷地を離れて、数区画離れたところにある宿舎に一度戻る事にする。考え事をしているため、歩みはゆっくりだ。黒衣の裾をひきずりながら、私は【騎士団】の管理区画を闊歩する。


 第六階層の本格的な攻略は、上層部での政争や騎士団の再編などの影響で当分先のことになるだろう。攻略の目処すら立たない今、上層部としては探索者たちに露払いや調査をさせて、自らは労力を払わずに十分な準備を整えてから動きたいのだと思われる。


 当分は第四階層で拠点防衛に専念するはずだが、私は以前その第四階層の防衛を放棄した前科持ちだ。

 もう防衛戦には参加させないとはっきりと言われていた。第四階層の掌握者――序列第七位のあの男の方も私を敬遠しているらしく、私があの場所に駆り出される事はなさそうだった。


 つまり、私はしばらくは地上にいることが決まっている。

 この時間を無為に中身の無い儀式で空費するよりは、自らの強化と修練に当てるべきなのは明らかだった。

 私は強くならなければならない。魔将を倒し、迷宮を踏破し、そして取り戻したい大切なものがあるからだ。


 フィリスを使いこなせるようになれば、現代の呪術では到底不可能と言われた事もきっとできるようになると、ただ一人私が戦う理由を知っているラーゼフは保証してくれた。例えば、一つに融け合ってしまった魂や、上書きされてしまった魂。この世界の理では失われたと解釈するしかない死者の魂を呼び戻す、反魂の術すらも可能になるのだと。


 死者蘇生。あるいは、呪術による人為的転生。どちらも最高難度の呪術であり、その上その前には迷宮と魔将という途方もない障害が立ち塞がっている。

 それでも、絶対に立ち止まるわけにはいかなかった。


 なにより大事なもの――魔軍の総帥にして迷宮の主、二重転生者セレクティフィレクティに魂と影を奪われた、私の妹を取り戻す為に。

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