四章

四章1



 夢……を見ている。

 誰かがワレスをひざまくらで寝かせている。髪をなでる優しい手つき。ワレスはその人の手を感じると、とても安心した。


「あなたは、ひどい……おれをこんなに苦しめて……」

「ひどいのは、おまえのほうだろう? 私を殺して逃げたくせに」

「だって、あれは、あなたが……」

「おかげで私は四千年も眠りにつかなければならなかった。バラバラに四散し、くずれおちた体をかきあつめ、その傷が癒えるまで、苦痛にさいなまれながらな。私を見すてたおまえは、ちゃっかり人間になって、新しい恋人と笑っている」

「アンドソウル……」

「今だから言うが、おまえを愛していた。シリウス」


 唇がふれあった。甘い……キス。


「今のおまえなら、応えてくれるな?」

「それは……」

「今すぐでなくていい。私は待っている。四千年待ったのだ。この上、一年や二年待っても大差ない」


 彼に対する答えは決まっているような気がした。だが、それを言いだす前に、彼の姿は消えていた。蜂蜜色の夢がとけていく。


 目がさめたとき、ワレスは夢の内容を忘れていた。ただなんとなく、胸のさわぐ感覚だけは残っていた。自分の存在より、もっと深いところで知っていた、なつかしい人と会った……そんな気持ち。


(おれは、いつのまにか眠っていたのか)


 司書の部屋には寝台しかない。よこになっているうちに寝てしまっていたらしい。

 空腹を感じて、ワレスは起きあがった。そういえば、今朝は何も食べていない。


(こんなときでも腹は減るのか)


 ワレスは自嘲ぎみに扉をたたいて、見張りの兵士を呼んだ。


「食事はもらえないのか?」


 たずねると、扉ごしに返事があり、上官にゆるしを得るという。しばらく待たされたあと、料理を運んできたのは、ワレスの愛人のエミールだった。


「あーん。隊長。会いたかったよ」


 そのへんに盆を置くやいなや、ワレスの首にしがみついてくる。お腹が減って貧血ぎみのワレスは、そのまま少年の重みでベッドに押し倒された。


「ちょっと、何してるのさ。おれ、今、そんな気分じゃないんだけど」

「おれだって、それどころじゃない」

「そう?」


 エミールはちょっぴり残念そうだ。


「おれたち、どうなっちゃうの? たいへんなことになってるんだろう?」


 ワレスは答えなかった。口をひらけば、絶望的な答えになるとわかっていたからだ。エミールの求める安心感なんて、今のワレスにはあたえてやれない。盆をひざの上にのせて、黙々と食事をとる。


「ねえ、ウワサになってた血を吸う魔物らしいけど、ほんとなの?」

「うるさいな」

「だって、こんなふうに、みんなで閉じこもるなんて、今までなかったじゃない。そんなに強いヤツが相手なの? おれたち……みんな、死んじゃうの?」


 ワレスが黙っているので、よけいにエミールは不安になったようだ。肩にピッタリすがりついてくる。


「分隊長は? あの人、いつも、あんたにくっついてるのに」

「ハシェドは……東の内塔の、おれの部屋に……」


 急に食べたせいか、胃が痛んだ。ワレスは食事をやめて、盆をすみに押しやった。それより喉が渇いている。


「分隊長、逃げおくれたの?」

「ああ」

「じゃあ、心配だね」

「…………」


 ワレスのほんとの気持ちを知っているエミールは、どうなぐさめていいのかわからないという顔で、肩にもたれてきた。エミールの髪が、目の端でゆれる。エミールの赤い髪。夕焼けのように。したたる血のように……。


 なんだか、ワレスは体の奥がムズムズしてきた。痛んでいた胃のあたりが。それとも、渇いた喉の奥が……?


「エミール」

「何?」


 さっきはああ言ったが、無性に少年が欲しい。ワレスはエミールのまだ一人前の男になっていない細い体を寝具に倒した。


「あ、ちょっと、待ってよ」


 おどろくそぶりも技巧のうちだ。ワレスは強引に襟元をひらき、白い肌にくちづけた。とくとくと脈打つ首筋のあたたかさが、喉の奥のむずがゆさを増長する。何度も何度も唇をよせていたが、ついにたまらなくなって、かみついた。


「いたッ!」


 エミールが両手でワレスをつきとばす。


「ちょっと! 今、本気でかんだよね? 痛いじゃないか。こんなの、あんたの趣味だった?」


 ワレスは呆然として、エミールを見つめた。

 今、自分は何をしようとした? エミールの首にかみついて、肌を裂き、血を……。


(血が……欲しい)


 喉の奥のムズムズは……パンやチーズでは満たされないこの空腹は。


(おれは……魔物になりかけている)


 ヤツらのようなするどい牙は生えていない。だが、すでに血への渇望は始まっていた。

 アンドソウルにかまれたからだ。かまれて、血を吸われた。

 おぞましい。このまま自分はどうなってしまうのだろう。


(おれの血を飲むまでは、アンドソウルは影だった。おれの血が口にあったから、実体をとることができたと言った。ということは、ヤツはもともと実体を持たないものだったということ)


 精神体?

 以前、退治した黒魔術師は、思念の力で霊体を作っていた。アンドソウルなら、思念のパワーはあの黒魔術師とはくらべものにならないほど強いに違いない。思念で本物そっくりの実体まがいを作ることも可能かもしれない。だとすると、今の彼のあの姿は本体ではない。


「エミール。ロンドを呼んでこい。いや、魔術師なら誰でもいい。大事な話がある」

「え? うん」


 エミールは戸惑いながら出ていった。そのうしろ姿を見送るとき、うなじで赤い髪がゆれるのを見て、とびつきたい衝動を抑えるのに苦労した。


 ところが、そのすぐあとだ。エミールが出ていってまもなく、廊下ですごい悲鳴がした。エミールの声だ。

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