九章

ロンドの草稿 その十一 1



 グレウスは二十二歳になりました。

 誰もに好かれる美しい声と容姿を持って……でも、ほんとはとても空虚な青年でした。尊敬していた祖父もなく、母もなく、姉妹もおおむね遠くへ去り、友もなく、一人。


 いつか、オスカーがゾナチエの打算的な本性に気づいてくれるのではないか。もう一度、彼と心をわけあう無二の親友に戻れるのではないか。

 そんなことを、ただあてもなく細々と願うだけの、からくり人形のような……。


 時だけがすぎていきます。

 グレウスのさみしい心をちぎっていくように、少しずつ。


 跡継ぎの誕生であきらめたのか、やっとのこと姉のジュリエッタは嫁に行きました。

 グレウスはお祝いの宴をひらき、くりかえされるお決まりの文句にウンザリして、一人でバルコンに出ました。追ってきたのは、ゾナチエですした。


「君がこのパーティーに来ているとは知らなかった。またオスカーの差し金か?」

「待って。逃げないで」


 なかへ入ろうとするグレウスに、ゾナチエがしがみついてきた。気味の悪いやわらかさ。少年のように細いのが好きなんだと、エスリンにも少女の体型を保つよう要求しているのに、女性らしさの誇張された豊満なゾナチエの体は、グレウスには吐き気のする代物以外のなにものでもなかった。


「いきなり抱きついてくるとは失礼な。君にはオスカーという恋人がいるんだろう?」


 顔をしかめて彼女をふりはらう。ゾナチエは首をふって、ふたたび腕をからめてくる。


「オスカーはただの友達よ。わたしは、ずっと——」

「オスカーはそう思ってない」

「わたしはずっと、あなたに恋していた。初めて会ったときから、あなたに惹かれていたわ。後悔してるのよ。少女のとき、つまらないプライドで、あなたを傷つけたこと。ほんとは嫌われたかったんじゃないの。ふりむいてほしかった」


 グレウスは抱きついてくる彼女を押しかえした。


「じゃあ、なぜ、オスカーの気持ちを弄ぶようなまねをしたんだ。あいつは君と結婚するつもりで……」

「あなたがわたしを近づけないからよ!」


 ゾナチエは叫びながら、しがみついてくる。


「愛してるのよ。どうしても、あなたに会いたかった」


 ゾナチエの唇が吸いついてくる。

 ゾッとする感触。

 魔女……ようやく解放された悪夢。


 セイレーン——

 ぼくのセイレーン姫は死んだ。


 こばんでも、こばんでも、しつこく何度でもからみついてくる。グレウスは彼女をつきとばし、彼女はすがりつく。

 まるで、標的にされた草食動物と、それを追う肉食の獣だ。必死になって逃げたり、逃がすまいとする。


 そのとき、背後で声がした。


「ゾナチエ? そこにいるの?」


 オスカーだ。

 髪をふりみだして、グレウスに抱きついていたゾナチエのおもてに、一瞬、悪魔の表情が浮かんだ。

 そして、彼女はとつぜん悲鳴をあげる。自分の服をひきさき、走りだすと、オスカーにしがみついた。手足にはすり傷。泥まみれでやぶれた服。


 彼女をひとめ見て、オスカーは顔色を変えた。

 立ちつくすグレウスの頬を平手でたたく。


「見損なったよ! グレウス」


 それでようやく、グレウスは自分がどんな立場に置かれているのか悟った。ゾナチエにハメられたのだ。


「違う……これは、違うんだ」


 だが、ゾナチエは演技過剰に泣きくずれる。


「怖かったわ! オスカー。彼が急に、わたしの服を……」

「もう大丈夫だ。ゾナチエ」


 オスカーがゾナチエを抱きしめる。オスカーの肩越しにこっちを見るゾナチエの視線で、グレウスは気づいた。

 彼女は知っている。グレウスがオスカーを愛していることを。二人で踊る彼らに妬いたことを。グレウスの視線のさきに、いつもオスカーがあったことを。彼女は恋する者の敏感さでかぎつけていた。


 ゾナチエの目が告げている。

 あなたがどうしても、わたしのものにならないなら、わたしはあなたからオスカーを奪うわ。


 グレウスはカッとなって叫んだ。


「ゾナチエが嘘をついてるんだ! 彼女が勝手に抱きついてきて、自分で服をやぶった!」

「もういいよ。グレウス。君がなんで、僕たちの結婚に反対するのかわかった。君も、ゾナチエを……だからって、こんなことはゆるされない」

「信じてくれ。オスカー。僕は嘘をついてない」


 しかし、オスカーは哀れむようにグレウスを見た。


「言いわけは見苦しいよ。グレウス」

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