ロンドの草稿 その七 2
城に帰ると、エスリンの出迎えがない。たとえまだ形ばかりの夫婦とは言え、夫の伯爵が数ヶ月ぶりに帰ってきたというのに、おかしなことだ。
「わたしのグレウスや。よく帰ってきてくれました。少し見ないうちに、こんなに背が伸びて。ますますお父様に似てくるわ。おまえが帰ってくるのを今日か明日かと指折り数えて待っていましたよ。可愛いわたくしの坊や」
母の派手な抱擁から解放されるのを待って、グレウスはたずねた。
「エスリンはどうしたのですか? 姿が見えませんが」
母は一瞬、白い目でグレウスを見る。
「おまえはお母さまにキスもしてくれないのね」
グレウスはしかたなく、母の頬の両側にキスをする。
「母上もお元気そうで何よりです。それにしても……」
グレウスはこんな家系の自分に嫁がせたエスリンに、ひそかな負いめを感じていた。男女の情愛ではなかったが、せめて妻として大事にしていこうとは思っていた。
その妻の姿が見えないことは、不吉の前兆のような気がしてならない。
グレウスの予感は的中した。
母は薄笑いして、こう言ったのだ。
「エスリンは病気です。部屋で休んでいますよ」
グレウスは出迎えにならぶ従僕たちに《《ねぎらい》の言葉もかけずに城内へかけこんだ。
四階のエスリンの部屋にとびこむと、歌声と笑い声がグレウスを迎える。四人の姉たちが寝室の四すみに立ち、歌っていた。その歌を聞いた瞬間に、グレウスは青くなった。
「姉上たち! なんてことしてるんだ! それは
古い時代にドラマーレ家と敵対する者や、戦で敵軍に呪いをかけるために用いられた歌。ドラマーレ家にだけ代々伝わる
エスリンは寝台のなかで布団を頭からかぶってちぢこまっていた。姉たちはグレウスを見て、笑い声をあげると歌をやめる。
「あら、だって、歌を聞きたいと言ったのは、エスリンだわ」
「ねえ、お姉さま」
「わたしたちが何を歌っても勝手よねぇ」
「だからって、ドラマーレの人間の声で呪いの歌を歌うのは、相手の首に手をかけて絞めるのといっしょです! 今後、あなたがた四人がエスリンの部屋に入ることを禁ずる。いや、あなたたちの声がエスリンの耳に届く範囲に近づくことを禁ずる。わかったら、さっさと出ていけ!」
姉たちは四人のセイレーンのような顔をして出ていった。
「エスリン。大事はないですか?」
グレウスは寝台に歩みより、優しく布団をめくりあげた。その下のエスリンを見て、言葉を失う。
これが頬のふっくらした、彼の幼妻だろうか。なんという変わりよう。髪はぬけおち、両目は落ちくぼみ、骨と皮にやせほそっている。
おびえて、うずくまるようすが、グレウスがいなかったあいだに受けた、彼女の心の傷の深さをあらわしている。
「エスリン」
エスリンに対して、ある種の……恋ではなかったが、愛情を感じたのは、そのときが初めてだった。
グレウスはエスリンを抱きしめた。
「いったい、何があった? 私がいないうちに、姉たちが君にひどいことをしたの?」
エスリンは声もなく、ふるえている。だが、聞かなくてもわかった。グレウスの遊び相手にしていたように、姉たちはエスリンをいじめたのだ。手をかえ品をかえ、しつように。そして、エスリンを追いだすつもりだったのだろう。
(ベレッタ姉上はもう二十一。一番下の姉のエミリエンヌでさえ十六だ。早く、みんな片づけてしまわなければ)
鳥になった叔母は、十八だった。
「オスカー! オスカー! 来てくれ」
グレウスは優しそうなオスカーの母を思いうかべて、彼を呼んだ。
「悪いが夏休みのあいだ、君の家にエスリンを預かってくれないか」
「僕はかまわないけど」
エスリンは涙を浮かべて首をふった。
「エスリン。いいかい? 夏が終わるまでに皇都に屋敷を買っておく。休みが明けたら、僕といっしょに皇都へ行こう。旬末の休みには会いに行くから」
「…………」
「だから、夏のあいだ、君はこの城を離れて元気になる。いいね?」
今度はエスリンもうなずいた。
安心させるようにオスカーが述べる。
「僕のうちなら、エスリンと同い年の妹もいるし、きっと、すぐ友達になれるよ」
「じゃあ、オスカー。エスリンをたのむよ。君も長らく家に帰ってないから、父上、母上に会いたいだろう? しばらく、あちらに帰っていていいよ」
グレウスにとっては残念だが、エスリンを預かってもらう以上、しかたがない。
「なら、夏休みが終わる十日前までには、エスリンをつれて帰ってくる」
「ああ。たっぷり甘えておいで」
「僕ら、もうそんな子どもじゃないよ」
だけど、そういうオスカーの顔は嬉しそうだ。
オスカーはその日のうちに、エスリンをつれて出発した。
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