SCENE:7‐5 14時36分 海砦レムレス 管理区 曼荼羅ガレージ

 渚がリビングに入っても、ネムルはまったく気づかなかった。巨大なスクリーンを凝視しながら、両指は鮮烈なメロディを奏でるピアニストのようにキーボードを叩いている。青色の長い髪がパイプ椅子の背もたれを覆い隠し、床にまで届きそうだ。


 気配を消し、忍足で近づいてゆく。


 小さな後頭部に指を近づけ、


 ぴんっ!


 と弾く。


 瞬間、


「ぎゃぶぅ!」


 奇妙な叫びを上げながら、ネムルは机に突っ伏した。


 そのまま六十秒、死んだように動かない。


 渚はしばらく様子を見守る。


 もしかすると、死んだふりをしているのかもしれない。


 奇襲した相手が行動を起こさないと察したらしい。ネムルは細い両手で体を支えながら上体を起こした。


「で、デコピンしたな……っ!」


 振り返りざま、渚をキッと睨みつける。


「歴史的超越的絶対的な頭脳に向かって、デコピンしたなっ! 神の冒涜に等しい行為だぞっ!」


「何が〝神の冒涜〟だよ。人の事務所を盗撮しておいて、よく言うぜ」


 そのおでこへさらにデコピンを喰らわせると、またもや「ぎゃぶぅ!」と呻いて倒れる。


 彼女が夢中になっているディスプレイを見て、だいたいの事情を渚は察した。ディスプレイは百数十もの小さな画面に分割され、あらゆる角度から街の情景が映し出されている。これらはウサギ型の記憶媒体、メモリー・ラビットによるものだ。ベイサイド探偵事務所に紛れ込んだウサギと似た個体が、今も汐生町を監視し続けているらしい。


「〝観測〟と呼んでくれたまえ」


 ごしごしとおでこをこすりながら、ネムルは細かい訂正をくわえる。


「街中を監視しているのはスナーク隊だ。ボクは、彼らを観測しているに過ぎない」


 細い指がディスプレイの一つを差す。そこには屈強な肉体の外国人男性が写っている。彼はカフェテラスで新聞を読むふりをしながら、抜け目なく周囲を伺っている。まるでスパイ映画から切り出したような、かっこいい潜入捜査だ。


 しかし、日本の小さな港町・汐生町ではかなり浮いている。


 おかげで、数ある画面の中から似たような軍人を探し出すのに大した時間は掛からなかった。


「なんだよ、野郎ばかりじゃねぇか……スナーク隊は女性比率が高いんじゃなかったのか?」


 ぶつぶつ不満を漏らす渚の隣で、ネムルは画面の一つををピックアップする。そのデータを五時間前に巻き戻した。これまでの動きを早送りで再生する。


 軍人たちは周囲に怪しまれないよう、時折立ち上がったり歩いたりしているが、決められた持ち場があるらしく、一定の領域から外に出ない。何を見張っているのだろう。


「軍人が配備されたのは、カフェや広場など人が多い場所だ。彼らの視線は常に周囲の人間に向けられている。まるで汐生町の住人の中に、テロリストがいないかと探っているような行動だ」


「テロリスト? おいおい、俺の地元はいつから紛争地になったわけ?」


「あくまで例え話だよ。ボクはリリー・タイガーの企みを知らない。ただ、あのまま素直に引き下がる女ではないと見越して、街の様子を探ってみたところ、悪目立ちしている外国人を何人か見つけた。〈スナーク隊〉は何かを待っている。近いうちに事件が起こるに違いない」


「事件? どんな事件だ?」


「何度も言うように、ボクはリリーの腹の内を知らない。彼女の行動は、予測も理解も不可能だよ」


 呆れ顔のネムルの言葉に相槌を打ちながら、渚は思案する。


 彼女の行動は、予測も理解も不可能。果たしてそれは本当か?


 リリーの目的が「慈悲深き機械」であることを、本当にネムルは知らないのか?


 知らないというのなら〈MARK-S〉の南雲博士は、なぜあんなにしつこく「慈悲深き機械」のことを尋ねてきた?


「渚」


 名前を呼ばれ、渚は顔を上げた。ネムルは緑色の目を細め、じっと渚を見つめていた。


 その目は眠たげに細まっているようにも見えたし、思案に暮れる渚の心の内を探っているようにも見えた。


「ボクの言ったこと、聞いていたかね?」


「えっ?」


「凡人代表の可哀想な頭脳のためにもう一度繰り返してあげよう――ボクに代わって観測を続けてほしい。

 君の一億倍ほど稼働率の高いボクの頭脳は、定期的に糖分を摂取する必要があるのだよ。天才のコンディションなど、まったくもって君には理解できないと思うから共感は求めていない。とにかく、卵焼きを食す必要があるのだ」


「……お前は嫌味の化身けしんか。素直に〝おやつ食べてくる〟って言えよな」


 ネムルは椅子からぴょんと飛び降りると、リビングの冷蔵庫へ向かって駆けていく。その背中はご機嫌なステップを踏んで軽やかに揺れていた。


 複雑なのは頭脳だけで、精神構造は小学生なみに単純明快。彼女が軍隊がらみの嘘や秘密を、仲間内にまで突き通しているとは思いたくないが……。


「あいつ、天才的にアホだもんな……」


 渚はふうっと溜息を吐くと、さっきまでネムルが座っていた椅子に腰を下ろし、足を組んだ。それから三十分ほど監視カメラの動向を追っていたが、代わり映えのない光景に集中力が切れてきた。


 伸びをして、背もたれによりかかる。頭上を見上げると、目に痛いくらい白い電灯の光。停電が起こるそぶりもなく、煌々と輝いている。


 人間の特権は、心というハッキングされない思考装置を持っていることだ。心の中ならいくらでも「慈悲深き機械」について考えを巡らすことが出来る。


 ――争いの前には、奪うものと奪われるものが存在するだけ。


 昨日、リリーが言ったことを渚は思い出した。


 奪うものと、奪われるもの。


 彼女の言う通りにカテゴライズするのであれば、〈スナーク隊〉と〈MARK-S〉は奪うもの、「慈悲深き機械」と「楠木ネムル」は奪われるものだ。


 ただし、ネムルは奪われない。強固な砦の中で自己防衛している。


 しかし、「慈悲深き機械」は……?


 「慈悲深き機械」は防衛されているのだろうか?


 だとしたら誰に? どこで?


 そして、〈スナーク隊〉と〈MARK-S〉。両組織は同じものを狙っている。「楠木ネムル」は奪われないし、「慈悲深き機械」の情報は乏しい。

 その場合、両組織が恐れるのは、敵の先駆けだ。


 だから〈スナーク隊〉はこの街を監視している。〈MARK-S〉が、先駆けしないように。


「……そういうことか」


 気づいたことを伝えようと、渚はネムルを呼ぼうとした。


 しかし、それよりも先に、視線がディスプレイに映る衝撃的な映像に釘付けになった。


 中央より右斜め下に見える、一匹のメモリー・ラビットの視界。そこでは一人の軍人が、何者かに襲われていた。


 軍人は懐から慌てて銃を取り出そうとする。しかし、相手の方が素早かった。


 彼女は手にしたナイフでざっくりと軍人の胸元を切り裂いた。飛び散った鮮血が、黒いシックなワンピースに降りかかる。彼女は腰を曲げて、スカートについた血を払う。


 白い前髪が顔を隠してさらさらと揺れている。


 そのとき、自分を見つめる機械の目に気付いたようだ。


 彼女は顔を上げ、こちらに目を向ける。


 渚は息を呑んだ。


 血塗れの少女の顔――その顔は、紛れもなくユークだったからだ。


 ユークはナイフを構え直し、メモリー・ラビット目掛けて、大きく跳躍した。


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