第7話 出会いに後先はなくても、告白には後先がある
やがて渡辺夫人の親族や友人が集まってきて、それぞれがコンテナを用意して収穫作業を開始した。みんな手慣れたものだ。やれ腰が痛いだのなんだのと言いながらもてきぱきとみかんを集めていく。
しかし向日葵、椿、そして豪の三人は作業に参加させてもらえないことになってしまった。渡辺夫人と池谷父が三人の間に流れる不穏な空気を察知したからだ。
「これからみんなで一致団結作業しようってときにそんな空気だとみかんがまずくなる。みかんに敬意を払って、みかんを懸けて仲良くしなさい」
渡辺夫人が言った。
「なんならおばちゃんが話聞いてやろうか」
「よせや、こういうのは親がしゃしゃり出てくとこじれるって決まってんだよ。三人でよーく話し合って仲直りしろ」
「そうだね。喧嘩両成敗、最後は握手で終わりなさい」
三人は溜息をついた。この二人は三人を幼稚園児か何かだと勘違いしている。本当は男女の愛憎劇なのだが、五十過ぎの成熟しきった二人からしたら子供の喧嘩の範疇か。高齢化の進むこの業界では二十歳そこそこの若者なんて赤ちゃん同然だろう。
いずれにせよ親たちがすぐそばにいるところで痴情のもつれで殴り合うわけにはいかない。とりあえず三人は畑の斜面に腰を下ろした。
豪、向日葵、椿の三人で膝を抱えて海を見る。今日も晴れた空の下の海はきらきらと輝いている。冬の海は深い紺色で一年でもっとも美しい。その海面に立つ穏やかな波が日光を弾いて白くなったりもとに戻ったりする。
冬至の近づく空は日中でも太陽は斜めに傾いていた。それでも直射日光ではある。暑い。
向日葵は首までしっかり留めていたパーカーのチャックを下ろして前を開いた。胸に大きく池谷と書かれている向日葵の体操服を見た豪が「なつかしいもん着てんな」と呟いた。
豪もウインドブレーカーを脱いだ。彼の場合は中に薄手のパーカーを着ていた。
日光、畑の傾斜、無風の海――静岡のみかん農園だ。
「……悪かったな」
最初にそう言ったのは豪だ。
「嫉妬で頭がおかしくなって余計なことした。いちゃもんつけて試してやろうとは思ってたけど、殴るのはやりすぎた」
正直な男だ。いかにも静岡人である。
「俺、思い上がってたな」
ぽつりぽつりと、豪が語る。
「ひまは大学に入る前から卒業したら帰ってくるって言ってたから、俺はひまを養えるように県職員になろうと思った。ひまには大樹さんがいるし、茶畑は大樹さんが継ぐんだとばかり思ってたからさ、将来はひまにこの畑の面倒を見てもらおうと思ってて。――っていうのまでは俺の妄想で、マジで実現するとまでは思ってなかった。けどさ、いざ大学を卒業した時さ、ひま、男に捨てられたって泣いてたからさ、これは俺の付け入るチャンスがある、俺ががんばれば妄想が現実になる、って」
実際に共通の友人たちには「豪はどうか」と勧められたことがあったし、勝手に一対一での飲み会をセッティングされたこともあった。その時向日葵が乗り気にならなかったのは椿を引きずっていたからだ。豪が言う「俺と結婚しようぜ」にも真剣みがなかったので、冗談だと思って受け流していた。
「意気地なし」
向日葵はそう呟いた。
「なんではっきりそう言ってくれなかったの? そういう察してちゃん、わたし、やだ。豪はわたしにそこまで踏み込んだことを察してほしかったんだ。甘ったれちゃん」
「悪ィ」
豪が縮こまる。
「でも実際、結婚しよう、って言ったら、お前考えとくって笑ってたよな」
「酔った勢いで冗談めかして言ってたじゃん、ぜんぜん本気じゃなかったじゃん」
「しらふで真顔で言ってたらワンチャンあった?」
「ないけどね」
「ないんかい」
椿は黙って聞いている。
「ひまは俺の面子潰さないでくれたからな……ひまといるとすごく居心地がよかった。俺プライド高ぇからずっとそういうひまに救われてた。それで、今後もひまがずっと俺のこと支えてくれたら、って」
「わたしがひとを立てようとするのはセッターだから、チームの全員を平等にフォローしようとする癖がついてるから。それを勘違いして自分だけが優しくしてもらってると思ってんならめんどくせーわ」
「頭ではわかってんだけど男ってやつはだめなんだよなあ」
「男であることを言い訳にしようとするやつ察してちゃんの百倍嫌い」
「ごめんな、俺も田舎の農家の長男なんだなあ」
「田舎の農家の長男だけどお父さんやお兄ちゃんはそういうこと言わないから豪の性格だよ」
豪が苦笑する。
「ひまはちゃんとした家族にちゃんと育てられたんだわ。そういうの、立派な財産だわ」
そう言われると複雑な気分だ。それは生まれついての環境に起因するもので向日葵自身の努力によるものではない。家庭環境で人格が左右されるのはおかしいと思いたい。しかし事実自分の隣にいる恋人などは家庭環境による圧力で人格がゆがんでいたタイプの人だ。実家から離れた彼は少しだけ性格が変わった。のんびり、おっとりしていると感じることが増えた。
「その上で、俺、確信してる。それでも、ひまは俺とばっつり絶縁しないと思う。卑怯だと思うけど。バカだなって思うけど。ひまはそういう、器のでけぇ女だよ」
向日葵は溜息をついた。
「椿くんを殴った時は刺そうと思ったけんね」
「よっぽど大事なんだな」
そこでようやく椿が口を開いた。
「聞いてもええ?」
「何を?」
「向日葵さん高校の時の仲間をすごく大事にしてる。きっと豪さん以外にもぎょうさん向日葵さんを慕ったはる人がいて、中には向日葵さんの好みに当てはまるような人もいはったんちゃうかと思うんやけど。それでも僕を選んでくれた理由何なん?」
考えたこともなかった。向日葵は空を仰いだ。雲ひとつない。
「タイミングかなあ」
「えっ」
「ああごめん、運命って言葉に置換しといて」
椿の顔を見た。目が合った。向日葵はにこりと微笑んだ。
「高校ん時、自分から特定のひとりを好きになることができなかったんだよね。好いた惚れたが物語の中の出来事でさ、自分のこととして考えられなくて。理由はよくわかんない。部活や委員会が楽しくて、男子も女子もみんな友達として大好きで、誰かを特別として選べなかったからかもしれない。もしくは、わたし自身がまだ子供だったからかもしれない。それに――」
指と指とを意味もなく組み合わせる。
「求められてるとは思わなかったし。誰もサシで真剣にそういうこと言ってきた人はいなかったから。だから自然と周りもわたしにはそういう感情は抱かないもんだと思い込んでた。わたしはみんなの向日葵ちゃんで誰かの特別にはならないんだと」
豪が「なるほどな」と頷く。
「そういう意識が変わったのは、椿くんと出会ってから。もっと言うと、椿くんが、二回生の夏に、わたしのこと好きです、って言ってくれてから。こんな人がこんなに真剣に言ってくれてるんだからよっぽどのことで、わたしはこの人とのこともっとちゃんと真剣に考えなきゃ、って意識を改めたんだよ」
一瞬そのまま話が流れていきそうになったが、椿が「こんな人とは?」と呟いた。さすがに、傲慢なほどプライドが高くて俗世のことを見下している感じの人、とは言えなかったので、向日葵は照れたふりをして沈黙した。
「はっきり好きです、愛してます、って言ってくれたんだよ、椿くんは。そこらの甘えん坊ちゃんとは違ったんだよ」
もっと言えば、何事も遠回しに言いがちな京都人の彼がストレートに好きだという単語を発したギャップにハートを射抜かれた。これはどうでもいい冗談に交えて結婚しようなどと軽口を聞く豪ではありえないことだ。
「くっそ、俺も屋上にでも呼び出して壁ドンすりゃよかった」
「屋上に呼び出しはいいけど、壁ドンは好感度下がるら」
椿が「ふふ」と笑う。
「出会いには後も先もないけど、告白は早い者勝ちやったということやな」
「そういうことかもね」
向日葵も「ふふ」と笑った。
「まあ、わかった。俺がそいつに完敗したのは理解した」
次に、豪はこんなことを言い出した。
「でもまだひとつだけ納得いかないことがあるもんでそこは確認してもいい?」
「何さ」
「お前ら大学卒業した時に一回別れたんだら? よりを戻して即行結婚したのはどういう経緯?」
また、椿と向日葵は顔を見合わせてしまった。
「それは……長くて複雑な事情が……」
「いまさらそんなこと言う? そこでちょっと納得いかないこと言うんなら俺ちょっと怒る。まあ怒ったくらいで何っていうわけじゃねーんだけど、殴ったのへの謝罪を撤回してやっぱりこいつを嫌いって言う」
向日葵はうつむいた。椿の実家の事情についてどこまで踏み込んだことを言ってもいいのかわからなかったからだ。しかもここに椿本人がいる。彼の前でうまく核心をつかずに事情をぼかして説明するにはどうしたらいいか。
そんな向日葵の心配をよそに椿が語り出した。
「僕も長男で実家継がなあかんかってん」
胸の奥をひやりとしたものが撫でる。
「親がもともとドえらい毒親やったんやけど、相続の件で親子喧嘩が激しゅうなって、神経が参って心身に不調が出始めたんや。それを見かねた向日葵さんが、うちおいで、って言うてくれはった」
椿はにこにこしている。
「おもろかったで、勢いで京都から三島まで新幹線乗って。なんで新大阪から東京まで三時間かからへんのに京都から三島まででも三時間かかるん、ってイライラして」
豪がようやく笑った。彼は豪快な声で笑ったあと、「この世にはのぞみという新幹線とこだまという新幹線があってな」と言った。空気がちょっと弛緩した気がした。
「情けないとはおもてるの」
遠く海に視線をやる。
「あんたの言うとおりや、僕は今向日葵さんに養われてる。向日葵さんは僕をあの家から救ってくれはった。今も僕の生活を保障してくれはる。向日葵さんのご家族もまずは療養やからしゃあないと言うてくれはる。けど、いつかは何かせなあかんとおもてます」
「そっか」
向日葵は、改めて膝を抱えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます