第5話

 久しぶりに出た庭は、初夏の匂いがした。生ぬるい風が髪を揺らす気配がする。柔らかな芝生を踏みしめる感触が懐かしくて、わずかに頬が緩んだ。


 気分転換などできないと思っていたが、こうして外に出てみれば、すこしだけ心に風が通るような気がする。


 マリーは、私の腕に身を寄せるようにして支えてくれていた。


 彼女はいつもこうして私に寄り添ってくれる。おかげで視力を失ってからも、転んだことはほとんどなかった。私は周りのひとたちに守られているのだと実感する瞬間だ。


「風が気持ちいいわね、マリー」


「はい、姫さま」


 しばらく歩いてから、マリーは立ち止まった。薔薇の生垣があるところまでやってきたのだろう。


 甘い香りがする。レイヴェルもここにいてくれたら、もっと素敵な気持ちになれたはずだ。


 だが、薔薇の香りの中に爽やかな、何か別の匂いを感じ取って辺りを見渡した。


「マリー、薔薇の他にも何か咲いているのかしら? 爽やかな香りがするわ。これはまるで――」


 ――そう、香水のようだわ。神官たちがよくつけている、アデュレリアの香と呼ばれるあの匂いによく似ている。


「……どなたかいらっしゃるのかしら?」


 その問いかけに答えるように、がさがさと葉がこすれる音がした。生垣のそばに誰かが隠れていたのだろうか。


「ああ、人形姫さま……! よくぞご無事で!」


 仰々しいほどに芝居がかった話し方だった。


 この低く掠れた声はよく知っている。神官長さまだ。壮年の男性で、礼拝のときには何かと顔を合わせることの多いひとだった。


 彼は決して、私のことを名前で呼ばない。「人形姫には名前も必要ない」という少々過激な思想をお持ちであるようで、私のことは「コーデリア」ではなく「人形姫」としか認識していない節がある。


「神官長さま、ごきげんよう。長いこと臥せってしまっていてごめんなさい。この通り、私は元気にしております」


 私が目覚めた報せは神殿にも届いているはずなのだが、やはり実物を見ないと安心できなかったのだろう。多少無理を言ってでも、いちどくらい神殿に顔を出すべきだった。


「なんと……臥せっておられたのですか⁉︎ お可哀想に、あの忌々しい魔女の子め……!」


「魔女の子?」


 神官長が口にするにはあまりに物騒な言葉だ。


 状況がうまく飲み込めず、軽く首を傾げていると、神官長の悩ましげな溜息が聞こえてきた。


「まさか、あやつの非道な仕打ちすら、ご存知ないとでも……? なんということだ。女神の人形たる姫君を閉じ込め、この災厄すら耳に入れないなんて……」


 あああ、と声を上げて嘆き始めた神官長を前に、ますます混乱してしまう。


「ちょっと待って、あいつって誰? 非道な仕打ちって……? それは今起こっている王国内の問題と、何か関係があるの?」


 堰を切ったように疑問があふれてくる。言われなくともこれこそが、きっとこのところ感じていた違和感の正体なのだとわかっていた。


「姫さま、詳しい話は後にしましょう。今はここから離れることが先決です」


 珍しくマリーが会話に割り入ってきて、軽く腕を引かれる。


「ここから離れる……? どうして? ここでお兄さまからのお手紙を待たなくちゃ」


 お兄さまには何通もお手紙を送っている。遅くなろうとも、返事は必ず来るはずだ。


 だが、私の腕を支えていたマリーが、堪えきれないというように嗚咽を漏らすのがわかった。


「……マリー? どうしたの?」


「っ……姫さま、お返事は……どれだけ待っても来ることはありません。アーノルド殿下は、もう――」


 ぽたり、と温かい雫が私の腕にこぼれ落ちた。


「――女神さまの御許へ、召されておいでなのですから」


「……え?」


 ……お兄さまが、女神さまの御許へ?


 マリーのその言葉は、とてもすぐに受け止め切れるようなものではなかった。


 体じゅうの血が、足もとにすべて落ちていく。どくどくと、耳の奥で心臓が暴れていた。


「どう、して……? え……? お兄さまが……?」


 遠い記憶の中の、まだ幼いお兄さまの姿が蘇る。


 お兄さまは、お母さまとそっくり同じ白金の髪と若緑の瞳をお持ちで、私にはそれが羨ましかった。過保護な面はあったけれど、一緒にお祈りをしてくれるお兄さまが大好きだった。


「王宮が陥落する直前、血を噴き出して亡くなっておられたのを見た、と生き延びた神官から聞いております。女王陛下と折り重なるようにして……殿下は、陛下をお守りしようとしたのでしょうな」


 神官長は悲痛な声でひと息に説明し、再び深い溜息をついた。それに同調するようにマリーの嗚咽が漏れるが、とてもじゃないがついていけない。


「待ってちょうだい! 王宮が陥落? 陛下って……まさか、お母さままで……?」


 息がうまくできなかった。お母さまもお兄さまも、もういない?


 いったい、この国で何が起こっているのだ。この国は、女神さまの名のもとに、安寧を約束されていたのではなかったのか。


「なんで……どうして、こんなことに?」


 ぼろぼろと、大粒の涙がこぼれ落ちていく。声も上げずに私は泣いていた。


 悲しすぎると、却って可笑しな気持ちになるものだ。涙を流しながら問いかける私の声は、笑うように震えていた。


「魔女の子が国家転覆を企んで、あの夜――そう、こともあろうに女王陛下在位十年の祝宴会の夜に、王宮にいた王族を皆殺しにしてしまったのです。それどころではない……。奴は、王族殺しに飽き足らず、王都を焼き払いました。女子どもも関係なく、王都に住まう人間ごと、生きたまま……青い炎で焼き尽くしたのです」


「なんですって?」


 王都に住まう人間ごと、焼き払う?


 何を言われているのか、よくわからなかった。


 そんなことをしたら、みんな、死んでしまうのに。何もかも灰になってしまうのに。


 私が眠っていたひと月の間に、がらりと世界が変わっている。


 違和感、なんて可愛らしいものではなかった。王都が焼き払われたことも知らず、私はずっと、呑気に祈りながらこの離宮で人形姫の儀式を待っていたのか。


 情けないだとか悔しいだとか、そういう輪郭のある感情は、不思議と込み上げてこなかった。代わりに、ただただ虚無感と喪失感が広がっていく。


「魔女の子って、どういう人なの……? 隣国の隠密? 革命軍?」


 自分でも驚くほど生気のない声が出た。そんなことを知ったところで今更どうしようもないけれど、この国をぐちゃぐちゃに壊した人間について、無関心ではいられない。


「そうか……あなたは奴の色彩をご存知ないのだ」


 神官長ははっとしたように声色を変えると、忌々しいとでも言いたげに続けた。


「魔女の子とは、忌まわしいことに今、あなたのいちばんそばにいるあいつのことですよ」


 どくん、と心臓が壊れそうなくらいに跳ねる。


 私のそばにいるひとなんて、ほんのわずかだ。ここにいるマリーと、それから――。


 吸い込んだ息が胸の中で暴れる。


 聞きたくない、いや、それ以上は聞きたくない!


 だが、私の無言の抵抗も虚しく、神官長はありったけの憎悪を込めて「魔女の子」の名を口にした。


「人形姫の朗読師、否――魔術師レイヴェル。奴こそが、この災厄を引き起こした大罪人です」


 ざあ、と生ぬるい風が吹き抜けていった。


 甘い花の香りの中に、灰を感じるのは私の考えすぎなのだろうか。


「ここは魔の地です、人形姫。一夜にしてこの国は奴に落とされてしまった。女神の理を乱す忌まわしき力、魔術を自在に操って、奴はすべてを灰にしたのです」


「魔術……? 魔術師? 何を言って……」


 魔術師とは、魔女の血を継ぎ魔術を使う者のことだ。愛し子が降臨する以前は魔女とともに人々を苦しめていたと言われているが、そんなもの、今は伝承上の存在でしかない。愛し子が魔女を滅ぼした日に、ともにこの世界から消えたはずの存在だ。


「我々としても驚いているのですよ。まさか、魔女の血が現在まで継がれていたなんて……。建国の時代に、処刑を免れた魔術師がいたのかもしれませんな」


 もう、訳がわからなかった。レイヴェルが魔術師と呼ばれていることも、彼が得体の知れない力を使って、王都を灰にしたことも、何もかもが理解の範疇を超えている。


 ぎゅう、と、マリーが私の腕を抱きしめるのがわかった。


 正直、そうしてくれてありがたいと思う。支えがなければ今すぐにでも、この場に倒れこんでしまいそうだった。


 レイヴェルが、お母さまとお兄さまを、そして王都の民を殺した、なんて。


 何かの間違いだと思う。


 だって、レイヴェルは誰より私に優しくて、穏やかで、争いとは無縁の静謐さを纏っているのだもの。


 たくさん人を殺すような悪いひとは、眠る前にあんな温かなくちづけをくれたりしない。物語を愛しているはずがない。私の目の不自由さを思いやって、労る心があるはずない。


 だから、レイヴェルじゃない。


 みんなを殺した悪いひとは、レイヴェルじゃない。


「しかし、ご安心ください、人形姫。私があなたをこの魔の地から、女神の御許へ導いて差し上げます。そうして、どうかこの国をお救いください。女神さまの御許から、災厄で失われた命を呼び戻してください。……そうすれば、妻も娘も神官たちも、みんな帰ってくるはずなのです」


 神官長の声がぱっと明るくなる。自らの言葉に疑念などいっさい抱いていないその様は、まるで幼子のようだった。


「待ってください、神官長さま。私には、そのような力は……」


 人形姫の役目は、十八になる年まで深い祈りを捧げ、その身を持って王国を浄化し災いを防ぐことだ。失われた命を呼び戻すような特別な力はない。


 神官長は私に構うことなく、つらつらと言葉を続ける。


「さあ、参りましょう、人形姫。すこし早いですが、儀式の準備はすでにできております。一刻も早く私たちをお救いください。これ以上、人形姫を魔術師の手もとになど置いておけない」


 ……レイヴェルは魔術師なんかじゃない。私の朗読師よ。


 そう言いたかったのに、反論する言葉が出てこない。


 目覚めてからの違和感が、ひょっとしたら、と私に思わせている。


 ぼろぼろと、感情を伴わない涙が頬を滴り落ちた。


 いや、こんなのはいや、何も信じたくない、レイヴェル、レイヴェル――。


「人形姫、どうぞお手を。こちらが、女神に繋がる清く正しい道ですよ」


 わずかな衣擦れの音がする。神官長が私に手を差し出しているのだろう。


 手を取るでも拒否するでもなく、私は呆然としていた。ただ、涙だけがとめどなくあふれている。


「――ああ、まったく、これだから女神の狂信者どもはいやになる。コーデリアさまが泣いているではありませんか」


 ぱっと、澄み渡る青空が脳内に広がる。紛れもない、レイヴェルの声だった。


 それと同時にぱん、と何かが弾ける音がして、生ぬるい液体が私の体に降りかかった。


「ひっ――!」


 私を支えていたマリーが、ふらりと離れていくのがわかる。支えをなくした私もよろけたが、倒れることはなかった。


 再び鈍い音がして、今度は足もとに生ぬるいものが飛び散った。液体を巻き込んだ苦しげな息遣いが、地を這うように低く聞こえている。


「っ……!」


 私はこの液体を知っている、血だ。


 遠い昔、お母さまが私の目に花瓶を投げつけたときに知った、あの温度と同じだった。


「コーデリアさまを、あなたの馬鹿げた妄想に付き合わせないでください。女神の理の中で死者を呼び戻すことは叶いませんし、もはや抜け殻同然のこの国に、祝福も安寧もありえない。今更、人形姫に何が救えるというのです?」


 びちゃ、と血を踏み躙るような音がした。背後からは、マリーの啜り泣く声が聞こえる。


「これ以上、コーデリアさまを煩わせませんよう。――どうぞお引き取りを、神官長殿」


 苦悶に喘ぐ呼吸音は、それからすぐに聞こえなくなった。


 辺りには、怖いくらいの静寂が訪れる。


 その中で、レイヴェルだけが呆れたように小さく溜息をつくのがわかった。


「……神官長さま?」


 ふらり、と支えもないままに足を踏み出せば、何か生ぬるいものを踏みつけてしまった。立ち昇る腥い臭いに、本能的な吐き気が込み上げる。


「コーデリアさま、顔色が悪いですよ」


 そっと、大きな手が肩に添えられる。心配性な空色の声は、怖いくらいにいつも通りだ。


「レイヴェル、血の、臭いが……」


 その先の言葉が、喉につかえて出てこない。声を失ってしまったかのように、乾いた吐息が漏れるばかりだ。


 すぐそばで、レイヴェルがふっと笑ったような気がした。彼の大きな手が、宥めるように私の肩を撫でる。


「ああ、お召し物が汚れてしまいましたね。……マリーさん、コーデリアさまの湯浴みとお着替えの準備をお願いします。それから今度こそ、お茶を用意しておいてくださいね」


 いつも通り穏やかなのに、まるで責めるような冷たさのある声だった。


「ひっ」という小さな悲鳴のあとに、がちがちと歯の鳴る音がする。マリーが震えているのだろう。


「コーデリアさまはあなたの淹れるお茶がお好きだから、見逃して差し上げたんですよ。……それをどうか、お忘れなきよう」


 不気味なくらい穏やかな声で彼は告げた。言い終わるや否やというときに背後で芝生を踏みしめる音が聞こえ、やがて足音が逃げるように遠ざかっていく。


 吹き抜ける風から守るように、親しみのある温もりが私を包み込んだ。


 レイヴェルに、抱きしめられているのだろう。心からほっとする柔らかな香りの中に、生々しい血の臭いが入り混じっていた。


「レイヴェル……神官長さまは?」


 縋るように彼の上着を掴めば、彼はなんてことないようにくすくすと笑った。


「どうやら、ここにはもういないようです。コーデリアさまにご挨拶もせずに下がるなど、無礼にもほどがある。……そんなに急いで、いったいどこへ向かわれたのでしょうね?」


 妙に含みのある言葉だった。「ここにはもういない」という言葉が、すべてを物語っているように思えてならない。


 ……レイヴェルが、神官長さまを殺めたの?


 血の気は引いたまま、心臓が空回りするように暴れていた。


「震えていますね。寒いですか?」


 言われて初めて気がついた。確かに肩が小刻みに震えている。


 すぐに、温もりを帯びた重たいものが肩にかけられる感触があった。おそらくは、レイヴェルが纏っていた上着なのだろう。寒いわけではないと、口にするのも億劫だった。


「怖い思いをしましたね、もう大丈夫ですよ」


 するりと右手に彼の手が絡みついて、手のひらにくちづけられる感触がある。


 大好きな、レイヴェルのくちづけだ。


「レイヴェル……あなたは、いったい……」


 ――人形姫の朗読師、否――魔術師レイヴェル。奴こそが、この災厄を引き起こした大罪人です。


 今更になって、神官長さまの言葉が痛いくらい鮮烈に突き刺さる。


 嘘だと、信じていたかった。


 レイヴェルはそっと私の手のひらから唇を離して、やがて笑うように告げた。


「――僕はいつでも、あなたに忠実な、あなただけの朗読師ですよ。コーデリアさま」

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