第16話 グラサンに追われてます
……暑い。
アスファルトを照りつける熱発が容赦なく降り注いどる。道脇に停まっとる車のボンネットで肉が焼けそうや。
真っ白な陽光が眩しい夏空--夏休みや。
街路樹の作る日陰を通りながら足を運んだアイス屋で3段アイスを買っても秒で溶ける。そんな今日この頃……
ウチは今、追われとった。
いやなんで?
*******************
日本の夏は暑い。そのうえ湿っぽい風が生温い。まとわりついてくる湿気が鬱陶しい。
俺は決して離さないようにと大事にショルダーバッグを抱えて喫茶店の屋外テラスの席に腰を下ろす。
そこで待っていた男は真夏だというのにホットコーヒーを頼んで、真っ黒なコートに真っ黒なハットを目深に被っている。そのくせ猛暑もものともせず涼しい顔をしている。
もうちょっと目立たない格好はないのかと思いながらも顔には出さず互いに明後日の方向を見ながら相席する。
男が無言で茶封筒をこちらに差し出してきた。
受け取って中身を確認する。約束通りの書類を確認して俺は懐から封筒を差し出す。
報酬の受け取り場所だ。
そう、これは取引。
それも、決して公にはできないような……
「……こちら0077、予定通り入手した。これより回収地点に向かう」
『よくやった、これで日本の公安は丸裸だな…よし、迎えの飛行機はもう待っている。くれぐれも追っ手に気をつけろ』
「そんなヘマはしない」
インカムでのやり取りを終えて空港に急ぐ。
辺りは買い物客でごった返し、みんな呑気な顔で往来を行く。
平和ボケした面だ。ここに国家機密を持ったスパイが歩いてるなんて夢にも思うまい……
こいつらが平和ボケしていられるのもあと少しの間だけだ。
危機管理能力に欠けたジャパニーズの群れをすり抜けて、大事に抱えたショルダーバッグに常に注意を払いながら空港に……
……あ、暑い。
アロハシャツの下から滝のように汗が噴き出してくる。まずい…死ぬ……
時間はまだある、少し休んでいこうか。熱中症にでもなって病院に運ばれたらシャレにならない…
ちょうどいい所に公園。ベンチが木陰になっている。ここなら太陽に熱された体を休めることができるだろう……
公園には…親子と犬連れの老人、それとベンチでアイスを食べる女。
怪しい人影がないことを確認してから俺はベンチに腰を下ろした。
すぐ隣から甘い匂い。隣の女が無線イヤホンで音楽を聴きながら3段のアイスを一心不乱に舐めまわしてる。もうすごい舐めてる。
……いいなぁ。
俺も何か喉を潤すものを…いや、この書類を抱えて店に入るのは危険だ。
しかし……日本の夏はこんなに暑いのか…溶けるぞ。なぜ日本人は原型を保ってられる。解けないのか?いや人間が溶けるか。
……お、あそこに自販機が。
公園の端っこに自販機が佇んでいるのを発見。目標までの距離15メートル。所要時間1分。
流石に喉が乾いた。極度の緊張とこの暑さで完全にやられている。
喉を潤さなければ…喉の乾きに気を取られて凡ミスをしてはたまらない。
…………俺はこの時ほど自分の判断を呪ったことはない。
遅いのだ、俺の思考は既に乾きと暑さに狂わされていた。こんなことならあの喫茶店でコーヒーでも飲めばよかった。
自販機の中に涼しげに並ぶ清涼飲料水、この時俺はもうそれしか目に入っていなかった。
一刻も早くカラカラの喉に水分を流し込みたい一心で自販機に向かう。
しまった、財布。
財布は書類の入ったバッグの中。俺はバッグから財布を取り出そうと……
ない!抱えてたはずのカバンが!!
ベンチに置き忘れた…俺が取りに戻ろうと視線を戻した時……
「あかん。もうこんな時間や。ゆっくりしすぎたわ」
アイスを消化し終えた女が焦った様子で立ち上がりながらベンチに置かれた“ふたつの”ショルダーバッグに手をかけた。
--俺の方の。
「なっ!?」
俺が声を上げるより先に女はバッグを肩にかけて公園の出口に向かっていく。
女が俺の方に振り向いた。俺と女の視線が交差する。
間違えてるぞ!それは俺のだ!!
そう声をあげようとした時、俺は確かに見たのだ。
俺の方を見てニヤリといやらしく笑った女の顔を--
……っ!?こいつまさかっ!
「キャンッ!」
「こらっ!」
走り出そうとした俺の足にかかる生温い感触。視線を落とした先で片足を上げて黄色い液体をひっかけてるのは公園を散歩してた老人の犬。
「ああっ!?俺のサントーニの高級革靴がっ!?」
「ごめんなさい、こらっ!やめなさいっ!!」
なんということだ。俺のサントーニが……
……っ!?
しまった!逃げられたっ!!
*******************
あかんあかん、バイトに遅れてまう。
折角アイスで涼んだのに走ったらまた暑くなってきたわ。
…しっかし、さっきの公園のあんちゃん、おもろかったな。
なんでアロハシャツとスーツのズボンなんやろか。ラフなんかフォーマルなんかよーわからんわ。しかも赤色のサングラスって。
遊び人とサラリーマン足して2で割ったみたいな格好しとったわ。思わず笑うてしもうた。
あかんあかん、そないな事思い出しとる暇やない、はよ行かな。バス間に合うやろか……
……ん?
雑踏の中から一際響いてくる駆け足の足音に振り返ったら、人の波かき分けて誰かが猛ダッシュでこっち来よる。
さっきのグラサンやんけ。
なんやえらい焦った様子。待ち合わせにでも遅れそうなんか?あのカッコで人と会うん?
「……ってしもた!バス来てまう!!」
後ろから走ってくるグラサンに押されるみたいにウチも時計の針に急かされて走り出した。
*******************
見つけたっ!!
鬱陶しい人混みをかき分けて走り続けること3分。ようやく奴の背中を捉えた。というかあいつ歩くの早すぎだろ。
あと少しで追いつくというところで女が俺の方に振り返った。
再び交わる視線。
女は俺の姿を見つけた途端、焦ったように駆け出した。
……間違いない。
俺の方を見て笑ったし、俺の姿を見つけて逃げ出した。
信じられんが、あのガキ間違いなく公安の回し者……俺の手に入れた機密書類を取り返しに来たようだ。
馬鹿な……内通者から書類を受け取ってまだ20分しか経っていない。根回しが早すぎる。
どこかから情報が漏れたか?
女の走るスピードが異常に速い。この人でごったかえした通りをするすると進んでいく。
あの身のこなし…間違いなく只者ではない。
人が邪魔で追いつけん。撃つか?
馬鹿!こんなところで銃を抜いたら大騒ぎになる。何とかして捕まえるんだ。
しかしなんという失敗。わざわざこんな地方都市を選んで様々な囮を張りここまで書類を運んできたというのに……
嘆いてる場合ではない。何としても書類を取り返さなければ…そして奴は始末する。この世界たった一度のミスも許されない。ミスを犯せばそれはそのまま死を意味する。
ここで女の動きに変化が起きる。突然立ち止まったのだ。
罠か?いや--
立ち止まったのはバス停。そこにはちょうどのタイミングでバスが滑り込んできた。女はそのバスに素早く乗車する。
やつに俺の相手をする必要はない。逃げ切ればいいのだから。バスの中には他の乗客もいる。俺が乗り込んできても暴れられるリスクは少ない。
ちっ!乗るしかない!!
俺は閉まりかけるバスの中に飛び込んだ。案の定車内は席が埋まるほど客で埋め尽くされていた。窮屈で身動きもままならない。
女は……降り口のすぐそばか……
女は俺に意識すら向けずリラックスした様子でつり革に掴まっている。なんなら安堵のため息すら零す始末。
馬鹿め……逃げられると思ったか!
とはいえ車内では手を出せない。カバンだけでも奪い返そうと前に行こうとするも、人が邪魔で進めない。
くそっ!これが噂に聞いた『通勤ラッシュ』!?日本の公共交通機関は人を餅のように押しつぶす魔境と聞いている。溢れんばかりの人間を無理矢理押し込める様子を何度もテレビで観たことがある。
恐るべしジャパニーズ……これだけの人混みに日々晒されていれば、あの通りでの身のこなしも納得だ。日本人は軟弱な人種と思っていたが大いに反省しなければならない。
と、そうこうしてる間にバスが停車する。開く降り口から女が軽やかに降りていく。追わねば!!
「すみません、降ります…道開けて、プリーズ!」
強引に体をねじ込めて前に出る。そのまま歩き去る女を追うように俺も--
「ちょっとお客さん、お金!」
「え?お金……ああ、すまな--」
……しまった、財布はあのバッグの中…
「なに?お金ないの?はぁ?」
「いや……あの……すみません、急いでるんで……」
「いやいや、困るよお客さん」
「いや……あの……その……ワタシニホンゴワカラナイ」
「今のは日本語でしょ?馬鹿にしてんの?」
あいつ……俺が金を持ってないのを見越してわざわざバスに!?なんて女だ!ここまで計算づくかっ!?
*******************
なんとか間に合いそうやな…
走ったら暑うなったからなんか飲んでこか。
駅に近づいたら人が一層増えた。夏休みってのもあるやろうけど多すぎや。余計暑苦しいわ。
タピオカ屋が目に入った。タピオカブームも随分収まった。ウチも女子高生の端くれや、ここはひとつオシャレにタピオカでもキメとこ。
「へいらっしゃい!」
「タピオカミルクティー、タピオカ多め」
「まいど!」
……なんか思てたタピオカ屋と違ったけどタピオカはタピオカや。気前の良さそうなおっちゃんからタピオカで埋め尽くされたミルクティー受け取って路の端に腰を下ろして休憩や。
「…なんやこれ吸っても吸ってもタピオカしか出てこんわ。多すぎやろ…」
喉の乾きが全然潤わんタピオカミルクティーを啜っとるウチの視界の端になんややたら目につく人影が見えた。
ただの通行人や。普通やったら気にも止めんやろうけど、やたらインパクトのあるその姿に思わず目がいってもうた。
……さっきのグラサンやん。
清々しいアロハはボッロボロだしグラサンも割れとるし頭から血ぃ出てるし…
……なんやこいつ。なんやよー会うな……
何があったんか知らんけどボロボロのグラサンは一直線にウチの方に向かってきおる。なんか怖いけんさっさと行こ。
人で溢れかえる道を早足で歩く。ピッタリついてくるグラサンも人をかき分けて無理矢理進んでくる。
……え?一緒の方向なん?怖。
タピオカを流し込んで脇道に入る。タピオカって味ないやん。何がいいんやこれ。
裏路地に入って進んでいって振り返ったらなんと!グラサンがまだついてくる。
路地抜けてぐるっと回ってさっきのタピオカ屋まで帰ってくる。振り返ったらやっぱりグラサンが……
…………え?ウチ追いかけてる?
なんやろか、声かける?いや、怖いわ。目が殺気立っとる。このまま店行ったら着いてきてまう……
タクシー!…あかん見当たらん。
まだ勘違いかもしらん。もう1回路地入ってまた戻ってくる。やっぱりついてくる。
……間違いないな。
なんやろかあいつ。全く心当たりないんやけど…もしかしてストーカー?店の客?あんなやつ来たことあったっけ?
いやいやいや。怖い怖い怖い。
こない暑いのに足が震えてきた。冷たい汗が噴き出してくる。怖。
これどないしょ、警察?交番どこ?
*******************
--追い詰めたぞ。
運転手を振り切って、ヤンキーに絡まれ、大荷物を抱えたおばあちゃんを助け、ヤンガロクイナに襲われながら……
ようやく見つけた女を追いかける。動揺が隠せなくなってきたようだ。さっきから行ったり来たりしている。さっきまでの余裕はもうない。勝った!
あとは人気のない場所まで追い詰めてバッグを取り返して…
勝利を確信した俺の目の前で女が突然走り出した。
焦ってパニックになったようだ。逃がしはしない。さっきまでの身のこなしは見る影もなく人にぶつかりながら全力疾走。
どんどん街の中心から離れていく。冷静な思考力も失ったか。
いや…落ち着け。冷静さを欠いた結果こんな事態になっているんだ。
もしかしたら仲間が待ち受けているのかもしれない。慎重になれ。周りを見回せ。
いつでも戦闘に対処できるように懐のピストルを握る。幸い女はどんどん人波から離れていく。どんどん人気のない方に走っていく。
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やばいやばいやばいやばいやばい!!
めっちゃ走ってくる!めっちゃこっち見とる!
交番に向かって全力ダッシュするけど全然振り切れへん!どんどん人が少なくなってきた。人が減ってウチの不安も加速する。
これ勘違いやないよな?絶対違うよな!?
なんか懐に手ぇ入れとるし、怖!?硫酸とか投げつけてくるんやろか?捕まったらどないなるんやろか?
あああああ怖いいいいいいいいっ!?交番まであと900メートル!?なんでこない遠いんやふざけんな!!
お母さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!!
*******************
携帯を見ながら走っている。仲間を呼んだか?
まずい、増援が来る前に仕留めなければ…!
反対の通りには人がちらほら居るがこの道には居ない。やるなら今だ!
最後に人気がないことを確認してピストルを抜く。あいつは後ろを全く見てない、銃口を向けられても気づかない。
--殺せっ!!
俺が照準を合わせ、その無防備な後頭部に引き金を引き絞ったその時--
女が通り過ぎた建物から突然巨大な人影が……
「あっ!」
サイレンサーを通って銃口から火が噴き出したと同時、突然道に出てきた大男達と女がぶつかった。
ぶつかった女がよろける。偶然か狙ったか女が射線から外れる。
そして俺の放った銃弾はその大男達の1人の腹に……
「いって!?」
「どすこい!?」
「なんだぁ?」
着物を着た巨漢の集団--相撲取りは被弾した男を筆頭に銃口を向けたままの俺を睨む。
てかなんで撃たれてこんな普通に……
「なんじゃあ!?こらぁっ!!」
「誰にエアガン撃っとんじゃこらぁ!!」
…………………………やばい。
全力疾走でこちらに向かってくる巨体はまさに肉の津波。ドスンドスンと踏み鳴らす地鳴りのような足音が俺の足を伝って……
……なんだこれは。
今まで色んな修羅場を潜ってきた…何度も潜った死線が俺を強くしてくれた…
なのになんだ。この胸のざわめきは……この……怖気は……
「こらぁっ!!」
「おらぁぁぁっ!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!?」
やばい、殺される。
*******************
「助けてください!!追われてるんです!!」
交番に駆け込んだウチをお巡りさん達が目を丸くしながら見つめとる。そんな呑気にしとる場合とちゃうねん、殺されるねん!
「…追われてるって、誰に?」
「誰にて……そこの……っ!」
交番から顔を出してもう目前に迫っとるやろうグラサンを指差……
あれ?
「…誰も居ないけど?」
「……あれ?」
「大丈夫かい?君」
「なっ!?…大丈夫やあらへんて!居ったねんさっきまで!!」
「分かった分かった、その人の特徴は?」
「特徴は……グラサンでアロハシャツでスーツのズボンで……」
「落ち着きなさい」
なんや?疑っとるん?まだ心臓バクバクしてんねんぞこら。埒があかん。
「に、似顔絵描きますけん!また襲ってくるかもしれへん!!家まで送ってや!人相は--」
「分かったから。一旦座って」
絵心には自信あるんや。確かペンとメモ紙がバッグに……
……あれ?
「…?これウチのバッグやあらへん……」
「どうしたんだね君は……」
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