前田さん

  

「お茶、淹れましょうか」


 いえ―― と言いかけ、前田は笑って、


「じゃあ、すみません。

 やっぱりお願いしようかな」

と言う。


 まだ誰も来ていなくて、事務所の中には二人だけだった。


 昨日とは打って変わって柔らかな春の日差しが、窓から差し込む。


 美弥がお茶を淹れていると背後で、前田の声がした。


「たむらに行って来ようと思ったんです。

 でも、なんだか久しぶりに来たら、足が竦んでしまって」

と感慨深げに言って笑う。


 その口調に、前田は自分たちが全て知っていることをわかっているのだろうと思った。


 もちろん。

 だからこそ、今日、此処まで来たのだろうが。


 戻ってきた美弥がお茶を置きながら、ふと見ると、前田の手には、あの大事にしていた指輪がなかった。


 身を乗り出しかけた美弥に、


「これでいいんです」

と前田は淋しく笑った。


 その顔に、なんとなくだが、離婚は前田の方から一方的に押し切ったのではないかという気がした。


 子供の出来ないことを気に病んで、妻の方から言い出した離婚だったのだろうが。


 前田が罪を告白することで、彼女は離婚を思いとどまろうとしたのではないだろうか。


 会ったことはないが、そのような気性の人のように思えた。


 自分のせいで、夫が罪を背負ってしまったことに、深く責任を感じていそうな気がした。


「最後に、貴方がたにお会いしたくて」

と前田は微笑む。


 そして、膝の上で手を組み、まるで世間話をするように問うてきた。


「どうして私を警察に突き出さなかったんですか?

 貴方には最初から何もかもわかっていたんではないですか?」


「どうして、そう思われるんです?」


 はっきりとそう言い切る前田に、美弥の方が不思議に思って訊く。


「だって、用もないのに、何度も訪ねる私を、不審に思われていたでしょうに。


 あなたは何も問いたださず、いつも労わるようにおいしいお茶を淹れてくれた――。


 この人わかってるんだなあって途中で気がついたんですけど、すみません。

 最後まで甘えてしまって」


 ふふ、とちょっと笑ったあとで、前田は天井を見上げる。


「ふいに……魔が刺したみたいに。

 たぶん、気がついたら――」


 そんな前田の表情は、かつての大輔たちと被った。


「ただの世間話でした。

 君のところは、子供はまだかねって。


 仕事は忙しいだろうけど、子供は可愛いもんだよって。

 そんな感じの。


 今となっては思い出せないくらいの――


 なんででしょう。


 あのとき、目の前がくらっとなって」


 いっそ、何もかも口に出してぶちまけてしまった方がよかったのだろう。


 自分の妻が真美子であること。


 八巻のせいで、子供が出来にくい体質になってしまったこと。


 すべてを呑み込んだことが、前田にその瞬間、眩暈を起こさせた。


 彼のせいで、自分は離婚寸前なのに。


 その彼は、敵を倒したと、快活に笑い、部下の私生活の余計な心配までしてくれる――。


 恐らく、普通の人が人を殺す瞬間というのは、そんなものなのだろう。


 前田の言葉を頭の中で反芻しながら、美弥は膝の上に置かれた自分の手を見つめて言った。


「大輔は言っています。


 自分と叶一さんが殺人犯にならずに済んだのは、紙一重の奇跡だったと。


 あの日、たまたま孫を病院に連れて行った莢子さんが、いつもより早めに屋敷を訪れなかったら――。


 貴方と大輔たちとの差は、本当にただ紙一重。


 もしも、雨が降らなかったら、貴方も殺人犯にならなかったかもしれない」


 あと少し雨が降るのが遅かったら。

 あと少し見つかるのが早かったら。


 雨が降ったために、血が固まらず、傷口も塞がらなかった。


 雨が降ったために、いつも河川敷を訪れるおじいさんたちがゴルフをしに来なかった。


 叶一と大輔の間に連携プレーがあったように、彼の場合は、望みもしないのに、天候との間にそれがあった。


「でも、大輔にはわかってる。


 それが本当に奇跡だったこと。


 だから今でも、うなされる。


 犯してもいない殺人の罪に裁かれなかったことで、あの人は永遠に苦しみ続ける。


 それは―― 私も同じです。


 明確な殺意を持っていたのは、三人の中では私だけだったのに」


 その言葉に、前田が目を見開いた。


 美弥の起こした事件は、表向きには消えているから、前田は知らないはずだった。


 お茶、冷えちゃいましたね、と美弥は微笑む。


「淹れなおしましょうか」


 立ち上がりかけた美弥を前田が制した。


「いえ。

 でも、もし、よろしければ、またご馳走していただけませんか? 」


「ええ。いつでもいらしてください」

と美弥は微笑んだ。


「例え、この事務所がなくなっても――」


 その言葉に、前田は淋しそうに、初めて来たときと同じ象の目で微笑んだ。


「美弥さん、私はこれから正直になります。


 それで自分が楽になれるとも思えないけど、恐らく、今より悪くなることはないと思います」


 私と同じ間違いは犯さないで、と前田は夢と同じように言った。


「なにも口に出さなかったせいで、心にずっとわだかまりがあって――。

 そのせいで、私は些細な言葉に苛立ってしまった。


 美弥さん、あなたは何もかも吐き出して、結論はそれからにしてください」


 立ち上がった前田はこちらに背を向けたまま言った。


「……不思議なもんですよね。

 こうなって初めて、いいことばかり思い出すんです。


 あのとき、社長がこう言ってたなあとか、あんなことしてくれたなあとか。


 真美子に話すために、たまに見かける彼の姿を一挙手一投足見逃すまいとしていたときのこと。


 初めて社長賞もらったときの、肩に置かれた手の熱さ。


 私、あの社長が好きでした――」


 恐らくそれは真実なのだろう。


 そうでなければ、きっと、この人は八巻を刺さなかった。


 この人は、憎しみだけでは、人を殺せない。


 憎しみよりも、愛情に強く心を動かされる人だから。


「さよなら、美弥さん。


 そうだ。


 もしも、私が出所してきたとき、この事務所があったら雇ってもらおうかな」


 営業で、と悪戯っぽく笑ってみせる。


「それは凄い戦力になりそうですね」

と美弥も笑った。


 暗に美弥に、此処を、全てを投げ出すな、と前田は言っていた。


 最後の最後で、また勇気付けられた思いがし、美弥は前田の消えた扉をいつまでも見つめていた。



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