落語


 翌朝、小さな紙袋を手に、美弥は病院の廊下を歩いていた。


 よりにもよって、琢磨の病院なのだが、まあ、この辺りでは一番大きな救急指定病院だし、琢磨は金に糸目をつけず、優秀な医師を集めているので、安心といえば、安心だった。


 ああ見えて、あの人も優秀な外科医だし。


 ふんぞり返ってるだけかと思ったら、未だ現役で執刀しているというから驚きだ。


 実は久世一族の中で、一番勤勉なんだったりして。


 看護師たちに頭を下げながら、美弥はその病室の前に立った。


 佐田、と書かれたネームプレートを確認すると、ひとつ息を吸い、開いたままの引き戸を軽くノックする。


「せーんせ」

と昔のようにそう呼び、覗き込むと、こちらを見た彼は、


「おう、近衛。

 大丈夫か」

と何事もなかったかのように訊いてきた。


 もう長い間、この人に近衛と呼ばれることはなかったので、一気に時間が戻ったようで、美弥は眩しい窓の側の彼を見、目を細める。 


「ごめんね、先生」


 そう言いながら、ベッドの側まで行き、緑の丸椅子に持って来た紙袋を下ろす。


「なに言ってんだ。


 悪かったな、こっちこそ。

 通り魔捕まえられなくて」


 ううん、と美弥は首を振る。


 昨日は手術の後で眠っていたので、事件後、口をきくのは初めてだった。


 通り魔が通り魔じゃないかもしれないという話は、まだ佐田にはしたくなかった。


 美弥は紙袋の口を開けて見せる。


「せんせー、これ、落語とお笑いのDVD。

 手動かないから、こういうのの方がいいかと思って」


「すまんな。

 ありがとう」

と佐田は笑う。


 痛ましげに少し開いたパジャマの下を見た美弥に、佐田は胸許を広げ、肩を出して見せる。


「たいした傷じゃないんだ。

 ほら、結構鍛えてるから、筋肉硬くて、あんまり刺さらなかったみたいだし」


「何処までほんとなの、それ」

と美弥は苦笑する。


「退院も二、三日で出来るみたいだから……近衛?」


 美弥はベッドに腰掛け、佐田の包帯の巻かれた背に手を当てる。

 そのまま、涙を堪えるようにそこに顔を埋めた。


「……莫迦、大丈夫だって」


 大丈夫だろうが、なんだろうが、刺された瞬間痛かったことには変わりないし、今だって。


 近衛、と佐田の手が背を叩く。

 もう片方の手は、固定されているので回りきらずに膝に触れた。


 なんだかやっぱり泣きそうだった。


 だが、それは佐田に申し訳ないと思う気持ちからなのか、佐田が昔のような口調で口をきいてくれるからなのか。


 自分でもよくわからなかった。


「近衛」

と突然、佐田が引きつった声を上げた。


 なんだろうと思って振り向くと、入り口に紙袋を手にした美咲が立っていた。


「ああ、美咲さん」

と身を起こした美弥は普通に言ったが、美咲は固まった表情のまま、出て行ってしまう。


「美咲さん、あれっ? 美咲さんっ」

 半分腰を浮かして叫ぶ美弥の後ろで、佐田は深い溜息を落とした。


「近衛……お前、実は俺にトドメを刺しに来たのか」

 後で何されるか、わからん、と呟く。


 は? と振り返ると、

「お前、自分では全くわかっていないようだから、教えてやろう。

 お前は未だ俺の前では小学生のつもりのようだが、実はお前は小学生ではない」

と言う。


 至極当たり前の言葉だった。


 一瞬、意味を掴みかね、美弥は首を傾げる。


「あ……ああ、ああ、ああ!

 そういうこと!」


 ようやくわかった美弥は手を打った。


「お前、一応、既婚者なんだろ?

 いつまでボケてんだ」


「いや~、なんかいつも美咲さん、私を睨むなあと思ってたんですよ」


「小学生なら微笑ましく映る行為も、相手が二十四の女では、全然微笑ましくないんだ……」

と佐田は力なく呟く。


「早く言ってくれればよかったのに。

 っていうか、先生、よく私の年知ってましたね?」


 そういうと、自分が年とってくのはわかんないもんだがなと、佐田は嫌そうに呟く。


「お前らが年を重ねるたびに、自分の年を感じるんだよ。

 特にお前たちは、こいつら、いつまで何やってんだど思わせて厄介だ」


 それを言わないでくださいよ、と美弥は荷物を下ろして、椅子の方に座り直す。


「でもなあ、お前らずっとその調子だから、気づかんのだろうなあ」


「何がです?」

と問うと、いや、と佐田は言葉を濁したが、結局口を割る。


「んー、まあ、俺が言うことでもないんだが。

 近衛、叶一は別に鴨みたいにお前にくっついて歩いてるわけじゃないんだぞ」


「は?」


「叶一は初めて見た母親だと思って、お前の側に居るわけじゃないんだ。

 叶一自身もいまいちわかってないようだがな」


 うーんという顔をしている美弥に、佐田は衝撃的なことを言った。


「昔はどう見ても、久世とお前がコンビだったんだが、今は三人で立ってると、ちゃんと叶一とお前が夫婦に見えるんだよ」


 言葉に詰まった美弥に、いや、ほんとに余計なことだろうがな、と言う。


 ぽかぽかと暖かい春の日差しが美弥の背を焼いていた。


「……せんせー」

「なんだ」


「前から考えないようにしてたんだけど。

 外食するじゃない?


 そしたら、大輔と行ったときは、お会計は別々で?

 って訊かれるのに、叶一さんとだと訊かれないの」


「それは――

 単に久世が奢るほどの金がなさそうに見えるからではなく?」


 ああ、それもあるかもね、と投げやりに呟き、片腰に手をやった。


「お前もう、諦めて叶一と一緒になったらどうだ」

「いやです」


 きっぱり言い切った美弥に、佐田は溜息を漏らす。


「叶一は嫌いか?」

「好きですよ」


 迷いのない美弥の言葉に、佐田はますます眉をひそめる。


「お前、なんか意固地になってるだけなんじゃないのか?」

「え?」


「お前は昔から、最初にこう思ったら、絶対やり遂げるってとこがあるから。

 負けを知らんというか」 


 知らないわけでもないですよ、と美弥は呟く。


「負けないことがいいことだとも思わない」

とそらしかけていた視線を佐田に戻す。


「安達先生をつけて、先生の刑を減らしたこと、申し訳なく思っています」

「いや、それは――」


「先生は本当は罰せられたかったんですよね。

 私はそこまで考えが及ばなかった」


 出所後、佐田はしばらく普通の工場で働いていたが、やはり、思うところあったらしく、安達が相談に乗って、彼の薦めで仏門に入った。


 刑を減らしてしまった代わりに、自分なりに何かしようと思ったのだろう。


「そういえばあのとき」

と佐田は笑う。


「何故かお前も髪を切ったな」

 もう、伸ばさないのか? とそっと短いままの美弥の髪に触れる。


「私も一緒に反省しようと思って」


「伸ばせよ。

 お前、長い方が似合うよ」


「そういえば、先生は、ロングヘアーがお好きなんですか?」

と美咲の消えた入り口の方を見る。


「いや、別にそういうわけじゃ」

と苦笑いする彼を美弥は冷たく見下ろす。


「なんで美咲さんとのこと、はっきりさせないんです?」


「だってお前、俺が結婚して普通に暮らすなんて、そんなの申し訳ないだろう」


 ああもう、やっぱりこの人は、と美弥もまた溜息を漏らした。

 佐田の手を取り、自分の手で包む。


「もういいんですよ、もう。

 浩太も遺族も許さないけど」


「お前な……」


「でも、彼らが許さないことで、貴方はきっと救われる」


 許さない浩太は正しい。

 だって、この人は憎まれたいのだから。


 でも、とまだ、ぐずっている佐田を睨む。


「じゃあ、手も出さなきゃいいじゃないですか」


「だってそりゃ、あっちから頼まれたら、厄介になってる身としてはなかなか」


「先生、それはおかしいですっ」

と佐田の手を振り解き、美弥は立ち上がる。


「私、先生は先生として尊敬してるけど、男としては尊敬できませんっ」


「お前、人にはそれぞれ立場というものが……

 ってか、お前、久世を基準にしてないか?」


 あいつはあいつでおかしいぞ、と余計なことを言う。


 こら、龍泉、と仏門にあることを思い出させるようにその名で呼び、首根っこを掴みそうになったが、怪我人であることを思い出し、留まった。


「ともかく、ややこしいのはうちだけでたくさんですからね」

「重みのある台詞だなあ……」


 病室を出て行きかけて、美弥は振り返る。

 佐田は笑顔で見送っていたが、なんだか切なくなった。


 きっと此処を出たら、また彼は、龍泉に戻ってしまう――。


「またな、近衛。

 暇なら遊びに来いよ。


 あ、ずっと暇か、あの事務所」


 昔の口調で余計なことを言う彼に、軽く舌を出して、閉めなくてもいい引き戸を勢いよく閉めた。


 近くを歩いていた若い看護師が驚いたようにこちらを見たが、注意しかけて、やめた。


 美弥が久世の人間であることを知っているのだろう。


 まったく、何処までも付いて回るったら……。


 進行方向を向きかけて、そこに黙って美咲が立っているのに気がついた。


 話を聞いていたのかもしれないと思った。


 何か言おうかと思ったが、火に油も困るので、ただ頭を下げる。


 美咲も静かにお辞儀を返してきた。


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