蒼天の弓 ― メモ―
あのアマ、よく考えたら、犯罪じゃないのか、これは。
メモの通りに従おうとした圭吾は、それには近衛家に不法侵入しなければならないことに気が付いた。
『裏開いてるから』
そうメモには書き加えてあった。
その言葉の意味を察してなかったわけでもないのだが。
美弥の予測通り、彼女の母親の大きな声が、近所の家から聞こえていた。
この時間帯は誰も居ないと知っていたのだろう。
「おっ、お邪魔します」
何度か訪れたことのある近衛家の裏口のノブに手をかける。
頭の中を『元刑事の新米弁護士、不法侵入』の見出しが過ぎったが、美弥に命じられるまま、引き開けた。
しんとした台所に顔を突っ込み、
「誰も居ませんか~?
居ませんね~?
安達圭吾です~」
と意味のない名乗りを上げる。
俺が捕まったりしたら、ちゃんとフォロー入れてくれるんだろうな。
いまいち信用の出来ない雇い主、美弥の顔を思い浮かべながら、そっと靴を脱いで上がる。
目的の場所に行こうとしたとき、ガラリと玄関が開く音がした。
困ったことに、近衛家は、構造上、勝手口から玄関まで、なんにも目隠しがない。
そこには、目を見開いた吾郎が立っていた。
「しゃっ、社長っ。
すっ、すみません。
安達圭吾ですっ」
此処で名乗ることに意味があるのかわからないが、とりあえずそう言い、頭を下げる。
静かに上がってきた吾郎に、圭吾は大きな図体を縮め、断罪の瞬間を待つように目を閉じていた。
だが、大きな溜息が聞こえたあと、
「すまないね、圭吾くん。
また何かうちの娘が――」
と吾郎は言う。
目を開けると、吾郎は不法侵入者を前に、自らが困惑しているかのような顔で立っていた。
こんな人格者にこんな台詞を言わせるとは、ほんとにあの小娘は、と吾郎の娘なのに、自分の方が済まなく思いながら、敬語は、いえ、と答えた。
吾郎は、
「僕は何も見なかったことにするよ。
君に頼んだってことは、家族には知られたくないことなんだろう」
と背を向け、予定通り何かを取りに書斎へ向かった。
その痩せた後ろ姿に後光が差して見え、圭吾はつい手を合わせていた。
すみません、社長。
ほんっとにお宅の莫迦娘様のせいでっ。
早々に用事を済ませ、圭吾は次に頼まれた場所へと急ぐ。
なんで俺が使いっ走りをと思いながらも、美弥に逆らうつもりはなかった。
なんとなくだが、最初に会ったときから、いつかこの女が自分の主人になるのでは、という気がしていたのだ。
子どもの頃は、刑事ではなく、ちゃんと父親の跡を継ぐ気だったから。
大輔の後ろからそっと自分を見ていた八歳の美弥。
可愛らしい彼女の前に膝をつく。
なんて自分を呼ぼうか迷っている彼女に、つい、
「圭吾でいいですよ」
と言ってしまっていた。
あれから十年、美弥はすっかり大人になったが、未だにあのときのまま、九つも上の自分を呼び捨てだ。
もっとも、今更、『圭吾さん』などと言われても、なんだか寒いのだが。
『なんで、反対してくんなかったの?
あのとき』
そう美弥は言っていた。
少しは頼りにしてくれていたのだろうか。
だが残念ながら、自分は久世家の顧問弁護士のひとりだ。
自分に出来ることは、通達することと、立ち会うことだけ。
あのとき、何も言わなかった久世大輔を、らしくないとも思い、らしいとも思った。
だが、それを見ながら、自分が美弥と同じくらい、苛ついていたのは確かだ。
叶一は淡々と聞き流していた。
何も言わなかった彼は、今思えば、らしくなかった。
近衛美弥は座ったまま、手を握り合わせ、ただ俯いて聞いていた。
彼女にも、吾郎にも決定権はない。
ただ、吾郎は彼女が嫌がれば、会社を手放すつもりであっただろうが、彼女は何も言わなかった。
社員のことを考えたのか、何も言わない大輔に愛想を尽かしたのか、
相手が叶一だったからまあいいかと思ったのか。
自分にはわからない。
美弥は自分の側を通るとき、ぽんと肩を叩き、
『こういうのが初仕事ってどう?』
といつもの口調で言った。
能面のような顔に、その声色が怖いと思った。
『まあどっちでもうちの嫁だし、いいじゃないか』
と、また隆利が無神経なことを言って、美弥に睨まれていた。
美弥は久世グループになど興味はない。
隆利もそれは知っているが、自分の立場からしか人を見られない人間なので。
まあ、そういう意味では、確かに相手が大輔だろうと叶一だろうと、『うちの嫁』という彼のスタンスには変わりないわけだ。
隆利は或る意味とても素直な男だった。
そういうところを大輔や叶一の母は愛したのだろうが、美弥はもちろんお気に召さないようだった。
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