256話 憎悪の蓄積
「なに、これ……?」
腕の感覚が、消失していく。
強烈な喪失感が、沙羅の胸にぽっかりと穴を空けていくのがわかった。
あの、目に見えぬ刃の一撃。どうも、あれを受けたのがマズかったらしい。
沙羅がみている前で、両腕が崩壊していく。――いや、その存在意義を失っていく、という感じだろうか。
バグ。
プログラムによって構成される、電子ゲームの天敵。
沙羅の両腕の崩壊は、毒が体内を巡るように、二の腕へせりあがっていく。
もし、この影響が全身に及んだら、自分はどうなるのだろう。
たぶん、――死ぬ。回復手段はなさそうだ。
「………………………ッ」
もしも。
もしも沙羅が、普通の女の子であったなら。
もしも彼女が、どこにでもいるごく一般的なサラマンダー娘であったなら、――そこまでだっただろう。
恐怖に打ち震えて、あっさりと降参してしまっていたに違いない。
だが、沙羅は違った。
両腕を失う、とか。
死にかけている、とか。
その程度のことで怖じ気づくほど、彼女は弱い女性ではない。
彼女とて、”救世主”の一人だ。
「ま、しゃーない」
と、あっさり事実を受け入れる。
――それにしても……バカだなあ。こいつ。
いくら自分の腕に自信があるからと言って、やりすぎだ。
もし自分を殺したら、”金の盾”の仲間が黙っていないだろう。
ヤマトが。
万葉が。
兵子が。
ローシュが。
Cスキル持ちの”救世主”が束になってしまえばもはや、こんな世界など一瞬にして消滅してしまってもおかしくない。そこのところだけは、割とマジの忠告だったのに。
――まあ、もちろん、黙ってやられたりはしないけどね。
沙羅は素早く二の腕をくちづけて、そのまま《火吐》。すると、あっという間に彼女の白い肌が焼け焦げ、ぼとりと地面に落ちた。
同じことを、もう片方の腕にも。
彼女のものだった両腕が、黒焦げた肉片となって地面に転がって。
「はい。これでオッケーっと」
両腕を失った格好だが、――切断部からは早くも、オレンジ色の輝きが出現している。輝きはやがて腕の形として収束し、復元された。
沙羅は、新たに生えてきた両腕をぐーぱーして、ちょっぴり肩を回す。
「さてさて♪ 勝負はここからよ」
鼻歌交じりで、言う。
とはいえこれは、完全な強がりだ。いくら彼女とて、いちど両腕を失って、平気なわけがなかった。実際、彼女の魔力はいま大幅に減退していたし、それだけ死に近づいている。
「この女、――蜥蜴の尻尾切りじゃあるまいし……」
と、頭の上の方から、
それで、直感的に理解する。
どうやらいま、沙羅の頭の上にある天井、見せかけにすぎないらしい。
――そうとわかれば。
と、彼女はぴょんと天井目掛けて、跳躍。
するとどうだろう。
沙羅の身体がつるんと天井を通り抜け、別の場所に移動した。
辺りを見回す。『有栖』の表札。――”ボーイ”の家の前だ。
沙羅たちがいた場所は、なんてことのない。薄っぺらいテクスチャーでに遮られた地下世界に過ぎなかった。魔方陣で移動させられたのは、ほんの五、六メートル程度であったのだろう。
「ちっ」
「あ、ちょっと!」
すかさず、その後を追いかける。――敵の動きがおかしいことに気づいたのは、その次の瞬間であった。どうやらあの男、滑走している、らしい。
何らかの手段で地面の摩擦をほとんど0にして、スキー・プレーヤーのように地面を移動しているのだ。
「なにこれ、まじか」
沙羅は、
――これがあの、見えない剣の力ってことなのかな?
どうもあれ、触れた部分の性質を変える力があるらしい。
厭な予感がする。あれだけ殺意でいっぱいの敵が逃げ出した、ということは、――これも何らかの作戦のうちかもしれない。
とはいえ、これだけは確信を持って言えることがある。
あの、”見えない剣”による直接攻撃。
それ以外の攻撃ならば少なくとも、《無敵》が効くはずだ、と。
「ちょっと、そこのお姉さん」
と、その時であった。
先を急ぐ彼女に、一人の老人が声をかけてきたのは。
「すまんがわしに、コーラをくれないか?」
見る。その顔には覚えがある。――たしか、スペードだかクローバーだか。とにかくそういう感じの名前の人だ。
ちなみに彼女の懐中には、先ほどコンビニで手に入れておいた飲みかけのコーラがある。
「ごめんなさい。私、あなたに関わっている余裕は……」
「そうかNE。わかったTた、た、た、た、た、た、たユ」
次の瞬間である。彼の身体がぐにゃりと変異して、カタカナの『コ』の字に近い格好になったかと思うと、突如として全身、タコのようにぐにゃぐにゃとなって宙空で回転を始めたのは。
「うわ!」
沙羅もこれには仰天して、数歩下がる。
「なにこれ……」
それどころではない。老人の身体が、上半身だけ若い娘になったり、下半身だけ小男のそれになったりして、――果てには、スライム状にどろどろに溶けてしまったのだ。
溶ける間際、その不可解な生物は、このようなセリフを口にする。
「してくれ。ころしてくれ。殺してくれ。くれ。れ。れ。れ。れ」
無視、するしかなかった。
沙羅は素早く、辺りの塀の上に乗り、ぴょん、ぴょんと屋根の上を飛び移っていく。
すると唐突に、『武器・防具屋』と題された簡素な掘っ立て小屋が現れる。その中には、英文字の”T”のような格好で固まった男が立っていた。
彼は奇妙な格好のまま、顔だけ爽やかに笑って、
「こんにちは、”ガール”。何か買っていくかい?」
と、商売を持ちかけてくる。
「ラビット城の先にいくなら、武器が必要だぜ。おすすめはこの、銅の剣だ。薬草もあるよ」
「いえ。結構です」
「そうかい。ならば一つだけ教えておこう。闇の心律に気をつけよ。世界の終焉はそれと無関係ではない。個意識である。それが一定数と共振した時、聖なる波動は逆転し、変転し、最終的に物質化が行われる。
そこで生み出されたのがあの恐るべき《■■■■》だ。
《■■■■》は不可逆的な存在であり、それ自体に意味はない。だが無限の不可能性を追求するのであれば、そこに意味を見いだすことがあるかもしれない。
これはつまり、意味がないということを言えることもあるし、意味がないともいえるということである。
このことは”ボーイ”と”ガール”の存在に意味を見いだすことができるかもしれないし、そこに邪悪な波動と物質、光、宇宙、神、黒い太陽の毒電波による半減が関係している。これは絶対聖光点によって記録されます。この至極真っ当な論理構築に矛盾する浪漫影響により、彼らの伝説は叫んだ。「私が正義を護る!」これはつまり、我らが上位世界の崩壊に他ならない。⇒あなたはHPに44のダメージを受ける」
「ええとその……――あなた、何言ってるの?」
「幻夢など辞めて、さっさと大人になりなさい」
「????」
応えながら、自分はなぜ、この異常な状況で真っ当に応えているのだろうと思う。無視すればいいのに。
精神汚染の影響が、自分にまで及んでいるのかも知れない。
何かの、目くらましにあっている。時間稼ぎを受けている。
ということはつまり、相手はこちらを恐れている、ということかもしれない。
――落ち着け、私。
この敵が、一つの世界を任せるには足りない男だと言うことは、すでにはっきりしていた。
――強い力を持つ人が、……正しい判断をできないなら。きっとそいつは、死ぬべきなんだ。
始末を付ける。ここで。
沙羅の決意はやがて、断固たるものとして変貌している。
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