86話 発砲

 狂太郎がまず、最初にしでかした失敗は、咄嗟に発動した《すばやさ》を、八段階目、――要するに音速の一歩手前、通常の200倍の速度を選んだ点にある。


「む」


 加速された世界にて、狂太郎はまるで身動きできていないことに驚いた。

 空気が、……どろどろに粘ついた何かのように感じられている。


――そうか。この世界、大気が存在するんだった。


 狂太郎は顔をしかめて(辛うじて顔面の筋肉の操作くらいはできた)、とりあえず眼球のみ動かし、襲撃者の姿を見た。

 カーテンの向こうから覗き込んでいる、そいつの姿は……。


――黒くて丸い目と耳。鮮やかなピンク色の鼻。白くて柔らかそうな毛。


 ネズミか、タヌキか。擬人化されているせいか、その正体まではわからない。

 彼我の距離は、およそ5、60メートルほどだろうか。

 以前、経験者に話を聞いたことがある。

 ハンドガンの有効射程は意外なほど短く、特に素人が打つ場合はほとんど肉薄していなければ当たらないという。

 加えて、二丁拳銃。狙いが定まるはずもない。

 怖くはない。狂太郎は咄嗟にそう判断した。


 どぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお…………。

 どぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお…………。


 発火炎マズル・フラッシュ。重低音が二度、響き渡り、拳銃から弾丸が発射される。


 狂太郎は少し目を細め、その軌道をよく観察しておく。

 今の彼には、弾丸の速度が秒速2メートル未満に見えていた。平均的な成人男性の全力疾走、その半分以下だ。

 予想通り、弾はてんでデタラメな方向に飛んでいっている。

 続けざまに、乱射。

 だが、少し不思議に思う。

 銃の方向こそ、おおよそこちらを向いているものの、


――当てるつもりは、ないのか?


 そう思わずにはいられないくらい、狙いが定まっていない。

 狂太郎、首を捻りすぎないよう、よく注意して背後を振り向く。

 そこでは、驚いてかがみ込む”ああああ”を、ほとんど反射的に庇う友人の姿があった。


――まったく。


 この男が憎めないのは、時々こういうことをするためである。

 狂太郎は《すばやさ》の段階を一つ下げて、”ああああ”、飢夫の順番でアパートの影、――安全地帯に移動させた。

 ちゅん、ちゅん、と弾丸が跳ねる音。

 一拍遅れて、通行人の悲鳴が、辺りに響き渡る。


「――………………ぁあああああああぁあああ!」


 加速した世界に、低音域に引き延ばされた声が聞こえてきた。狂太郎はそこでいったん《すばやさ》を解除する。

 ご丁寧なことに、襲撃者はもう一度、同じセリフを繰り返した。



 声は、泣いているように聞こえる。

 狂太郎は落ち着いて壁から顔を出し、……かけて、


「あぶない!」


 と、飢夫に後ろ髪を引っ張られた。

 それとほぼ同時に、銃声が二度、響き渡る。

 弾丸はやはり、地面を傷つけただけだ。


「急に引っ張るな。髪を。デリケートな年頃だぞ」

「でも、あぶないじゃないか」

「当たりゃしないさ」

「それでも、――狂太郎に何かあったら、その……わたし、困る」


 友人の心配性に、少し呆れる。

 そもそも、この仕事には危険が付きものだ。何かの命を奪う者は、自分の命を差し出す覚悟をしておかなければならない。

 狂太郎は一度、”日雇い救世主”の殉職率について訊ねたことがあった。

 するとナインくんは屈託のない笑顔で、こう応えたという。


――辞めた奴はたくさんいるけどな。仕事を長く続けたもので、天寿を全うできた者はいない。だからお前らは”日雇い”なんだ。


 ”ああああ”はいま、三角座りをしてその場にうずくまっている。


「こわい、こわい、こわい、こわい……」


 すでに今までのやり取りで、奴の狙いはおおよそ、わかっていた。

 敵は、無差別に発砲しているわけではない。通りを歩いていた三人、――狂太郎、飢夫、”ああああ”の誰かを狙ったものだろう。

 もちろん、三人の中で最も可能性が高いのはこの、黒い服の少女だ。


「飢夫。彼女のことを頼む」

「狂太郎は?」

「奴に接近して、銃を取り上げる」

「危険すぎないか?」


 普段ならそれくらい、なんてことはないのだが。

 この世界では音速以上の加速が封じられている。そこまで加速した場合、自分の身体がいったいどうなるかは不明だが、たぶんろくなことにならないだろうという実感があった。


「なんてことないさ。天使サマに与えられた力を信じろ」

「それなんだけど、わたし、あいつらが天使だとはとても思えないんだよね……」


 狂太郎は小さく嘆息して、


「同感だね」


 そして、駆けだした。

 速度は、通常の百倍。先ほどよりかなりマシになったものの、やはり泥の中を泳いでいるような感覚だ。

 とはいえ、地に足がついていて、走りやすくはある。


「――ッ」


 襲撃者のいるアパートの部屋を目指して、狂太郎は駆け抜けていく。

 ネズミのような、タヌキのようなその男は、何ごとが叫んだ。

 その一言くらいは、――狂太郎にも、かろうじて聞き取ることができる。


「ちぃいいいいいいいいいいいくぅううううううううしょおおおおおおおおお!」


 畜生。


 そしてその男は、自分の口の中に銃口を突っ込んで、――


 どぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお…………。


 ぱっと華が咲くように、彼の後頭部に血痕と思しきものが散った。

 カーテンが華のような模様で紅く染まり――男がその場で、ばったりと倒れる。


「な…………!?」


 すぐさま、加速を解除。

 狂太郎は目を丸くして、その場に立ちすくんだ。

 自殺。

 自殺してしまった。


 そう思って、息を呑む。やはり何度観ても、慣れない。生き物が死ぬ瞬間は。


 事態を呑み込み、ゆっくりと消化していくように、世界が動き始めていく。


「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 まず、大きな悲鳴が上がった。

 振り向く。声には覚えがあった。最初に街を案内してくれた、ニャーコだ。

 彼女と挨拶、……など、のんきなことをしている暇はない。


――落ち着け。あのネズミ野郎の部屋に、”終末因子”に関する手がかりがあるかもしれない。


 もうこうなってくると、何が信用できるかわからなかった。

 警察が来る前に、さっさと捜査を済ませてしまおう。

 狂太郎、今度は加速を通常速度の2倍ほどに抑えて、襲撃者のアパートへと向かう。



 狭い階段を駆け上り、目的地に到着。


――名前は、”サム”か。普通の名前だな。


 ドアノブを捻る。鍵は、かかっていなかった。

 大それたことをしでかしたくせに、ずいぶん不用心なやつだ。

 そう思いつつ、狂太郎は素早く室内を見回す。

 部屋は、一人暮らしのようだった。

 だが、思ったより広くて、良い部屋だ。一晩数万円の高級ホテルを思わせる。無差別殺人事件を起こすような輩が住処にしているような、そういう陰湿さはほとんどない。

 ちょっぴり不思議だったのは、建物の外見と、その内部の大きさが明らかに違っている点。ただしこれは”異世界バグ”の一種で、建物の外見と内部はじゃっかん時空が歪んでいるために起こる現象らしい。ゲームをパロディ化した異世界では、時々こういうことがある。


 ぱっと見たところ、リビングの家具は少なかった。

 ただそれは、無趣味だからそうなっているというよりは、家主なりにこの間取りを愉しむため、わざとそうしているように思える。


 書棚が一つ、書き物をするための机が一つ。

 クローゼットに、キッチン、そして、――DIY用の工具棚。


 狂太郎は、その上に並んだ、数丁の拳銃を見る。

 いくつかの試作品、未完成品を含めたそれは、先ほど狂太郎たちに向けられたものと全く同様だ。


――ここで凶器を作ったのか。


 先ほど、飢夫が言っていたな。

 このゲームは、自由に家具や道具を作る機能がある、と。


「なんちゅう世界だ」


 狂太郎がそう呟いたのも無理はない。

 と、いうことは。

 この世界、作ろうと思えば、誰でも、いくらでも、凶器を手に入れられるわけだ。


 嫌な予感がしていた。

 まだ、具体化はしていない。

 だが、とてつもなく危険な何かの、その片鱗を垣間見た、ような。

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