066 血と砂糖菓子

 スフィルはギリスが見えていないはずだが、そこに居るのは知っていたようだった。

「出ていけ。お前らとは話さない……誰とも話さない」

 ぶるぶる震えながら、スフィルはなお一層きつく抱きついてきた。

 すがり付くようでいて、まるで守るような抱擁で、スィグルは何も分からなくなった。この弟のことが。

 スフィルは狂っているのだと思っていた。

 ろくに話さないし、話してもいつも、拙い言葉がわずかに出てくるだけだった。

 うまく話せないらしい。舌がもつれるか、痺れるかしたように口籠もり、無理に話させると弟はいつも苦しそうだった。

 弟がこんなにしゃべるのを見たのは、久しぶりだ。

 とても具合がいいのかと思うが、気分がいいという顔ではなかった。

 蒼白に見える顔を、じっと警戒するようにギリスに向けている。

「見えないとしゃべるんだな、お前」

 ギリスが感心したように言った。

 そして少し、面白そうにした。

「馬もそうだよ。お前も知らないのかな、俺の英雄譚ダージを。兄貴も知らなかったもんな」

 それが心外だというように、ギリスは言った。

 スフィルもヤンファールのいさおしは知らないだろう。

 玉座の間ダロワージでは戦勝を祝って何度も詠唱えいしょうされたのだろうが、半死半生で伏せっていた双子の殿下が眠る寝室までは聞こえてこなかった。

「戦場で守護生物トゥラシェに突撃するとき、馬に目隠ししたんだよ。 馬もビビって走らないんだ。手綱に従わない。そういう時はいくらむちで打っても無駄だ。でも目隠ししたら走る。不思議だろ、スフィル」

 ギリスはゆっくりとだが、普通に話していた。

 その長い話を弟が聞いているとは思えなかった。

 スフィルはもう、難しい話は分からないのだ。何も。

 分からなくてもいい。生きてさえいてくれたら。

 そう思って抱きしめた弟が、震えていた。歯を食いしばって。

「僕は馬じゃない」

「そうだよな」

 苦しげにつぶやくスフィルに、ギリスはうなずいて答えた。

「馬もけっこう賢いんだよ。殿下は乗馬は?」

「嫌いだ。もう乗らない。もう……死んでるから……」

 弟は震える声で拒むように言っていた。

 スフィルは乗馬が好きだった。子供の頃から、兄弟二人の共通の楽しみだった。

 その弟がもう馬に乗らないと言うのに、スィグルは傷ついた。

 また元気になって、二人で乗馬をするのかと思っていた。

 そんなことはもう永遠にないのだと思いながら、どこかで期待していたのかもしれなかった。

 自分たちがあの元服の旅に出た日の、平穏無事だった一生の続きに戻る日が来ることを。

「安心しろ。殿下はもう馬には乗れない。 この居室へやで残りの一生を過ごすんだ」

 ギリスはうなずいて教えた。

 弟は黙ってそれを聞いていた。

 苦しい息を漏らすスフィルが泣いている気がして、スィグルは自分に抱きついたままの弟の震える体を感じた。

 せて衰えてはいるが、生きてはいた。

 その体温を、いつかヤンファールの地下の闇の中でも、自分は感じて、頼りにしていた。

 自分は一人じゃない、まだ弟がいるんだと思って。

 そのことが自分の心の支えだったのだ。

 弟が死んだら自分も生きてはいけないと思った。

 その、孤独で、何の支えもない闇の中でずっと彷徨さまよい、人を食って生きる生涯はつらいなと思った。

でも、つらい訳はなかったのだ。

 本当に生きていけないなら、弟の死後はもう、自分は何も感じないはずだった。

 死者に感情はない。

 たぶん、自分は生きるつもりだったのだろう。その時も今も、たった一人ででも生きていたくて、だからつらかったのだ。弟の死が。

 つらくても生きてはいける。一生出られない地獄なら、自分はきっと、そこでずっと生きた。つらさに耐えながら。

 そんな生涯から、自分を救ってくれたのは弟だ。ずっと共に生きて、今もこうして、側にいてくれる。

 生ける屍と言われても、弟にこのまま生きていて欲しいと思うのは、たぶん自分のわがままだった。

 敵にはならず、恐れる必要のない狂人として、ずっと側に。

「僕の弟にそんなひどい言い方をするな」

 悔しくてスィグルはギリスに険しい顔を向けた。

 怒っていた。

 でも本当はギリスに感謝するべきだった。

 言いにくい話を、代わりに言ってくれているだけだ。

 自分もいつか、これと同じ話を弟にしなくてはならなかっただろう。

 スフィル。お前をずっと、ここに幽閉してもいいだろうか。お前がいると邪魔なのだ。

 それ以外の選択肢があるとは、弟に示したくはなかった。スフィルを殺したくない。

「どんな言い方でも同じだよ。お前はもう選んだんだろ?」

 ギリスは心外そうにこちらを見て言った。

「リルナム殿下、俺は兄君を族長にする。それはもう決まったことだ。死ぬ覚悟はあるんだろ。絹布が好きなら、そっちでもいいんだぜ。それなら、ここでこうして俺たちと会うのは今日が最後だ。次に会う時は敵としてだ。どっちがいい?」

 ギリスが尋ねると、スフィルは兄に抱きついたまま、目隠しして必死のように首を横に振っていた。

「嫌だ。嫌……兄上」

 抱きついてせしめるように、スフィルは強い手で抱擁してきた。絶対に離したくないおもちゃを、小さいころにそうして独占しようとしたように。

 そうなるとスフィルは怒鳴ろうが叩こうが、絶対に譲らない。頑固な弟だった。

 すぐ泣くし、弱いくせに。スフィルはわがままな弟だった。

 自分と似ている、その理解しないさまを、スィグルはいつも可哀想に思った。

 泣き喚いて拒めば、やめてもらえると信じている弟が、泣いて自分に縋り付くのを、いつも困って眺めた。

 世の中ってそんなふうだろうか、弟よ。

 泣いて頼めばやめてくれた敵が、一人でもいたか。

 僕はもう、そういうのは止めたんだ。泣いてもしょうがないことばかりだった。

「たすけて……兄上。お願いだ、僕は……王都は嫌いだ……こんなところ」

 初めて聞く話を弟はしていた。泣きながら。

 暗い穴蔵の底ではいつも僕に、きっとすぐに父上が助けに来るよと囁いていたくせに、全部嘘だったのだ。

 弟は帰らないつもりだった。

 自分も本当はそうだったのだろうか。

 王都に戻れば、自分たちはまた、いずれ絹布でくびられる哀れな兄弟だ。

 あの暗闇の中では自由だった。誰も咎める者はいない。僕が乱暴でも。弟と二人、助け合って生きたとしても。

 暗闇の中の奴隷でも、自由だった。尊いアンフィバロウの末裔であるよりは。

 そんなことを弟がまだ憶えていたとはな。

 自分は薄情にも、もう忘れようとしていた。忘れることにしたのだ。

 僕はもっと明るい場所で生きて、この部族を治めるのだ。父の族長冠を継ぎ、新しい星になる。

 それでも可哀想な弟を、捨てたくはなかった。捨てられたくないだけだったかもしれないが。

「スフィル……お前は頭がおかしいんだ。僕の弟はヤンファールでもう死んだ。お前はその亡霊だ」

 弟のもつれた髪の頭を撫でてて、そこに口付けし、スィグルは語りかけてみた。

 弟がこの話を理解できるのかと思って。

「このタンジールで、お前が絹と真綿にくるまって寝てた時、僕がどこにいたか、お前は知ってるのか」

 スィグルが尋ねると、スフィルは嗚咽おえつこらえ、首を振っていた。やはり分からないのか。

 でも弟は泣いていた。小さな声で、ごめんなさい兄上と言った。ごめんなさい、ごめんなさい。弟は何度も謝っていた。何も分からない子供のように。

「馬鹿! トルレッキオだ! 何で分からないんだ。お前の代わりに、僕はまた敵の人質になってたんだぞ! 天使が命じた四部族フォルト・フィア同盟だ。この部族の危機なんだ。それも分からない馬鹿が……王族か! 泣いてるだけなら、こんなもの捨てろ! 僕の方が玉座に相応ふさわしいんだ!」

 思わず怒鳴って、スィグルは弟の目隠しごと額冠ティアラを奪った。

 それを投げ捨てると、華麗な装飾のある白金の輪が、ころころと絹の絨毯の上を思いがけず遠くまで転がっていった。

 子供の頃に身につけていた額冠ティアラとは違う。

 同じ意匠だったが、元服の旅の途中で囚われた時に、それは失われた。

 自分たちを助け出した父が、再びこの王宮の職人に命じて作らせた新しいものだ。

 その時、父はスフィルを許さなかった。

 この輪っかをかぶって生きる呪いから、弟を解放してくれなかったのだ。

 死んだことにしてくれたら良かった。

 助かったのは恥を知らぬスィグル・レイラスだけで、弟は気高く死んだことにしてくれたって良かった。

 父上はケチだ。兄弟皆を殺す悪魔で、それなのに僕らを可愛がる。

 一人だけしか生かしてくれないのに、皆、愛されて健やかに育った。

 どうせ死ぬのに、大事にされて生きないといけないんだ。絹布けんぷがこの首を絞めるその時まで。

 誰が一番、父上に愛されているのかを気にしながら、もしや自分がそうかと期待して、ずっとずっと生きないといけない。今日からまた、僕もずっと。

 スフィルはそんな王都が嫌いだったのだろう。負け犬になってそこへ帰るぐらいなら、本当は死んだ方がいいと思っていたのだ。

 そんなこととは知らず、僕は弟を連れ帰ってしまった。この、麗しのフラタンジールへ。

「いいか。お前は誰でもない、この部屋の亡霊になるんだ」

 スィグルは目隠しをがした弟の顔を見て、それを教えた。

 弟は目に映る全てを恐れるように、泣きながら息が詰まってあえいでいた。

「ヤンファールで僕がお前を殺した。お前はここでずっと、息をひそめて生きろ。二度と馬にも乗れないし、いいことなんか何も起きないぞ。それでもいいのかスフィル……」

 嫌だと答えてほしいのか、自分でも分からず、スィグルは苦しくて、まだ間近にある弟の顔を見た。

 母上とそっくりな、気の弱そうな薄青い目で、弟は恐れるようにこちらを見ていた。

「たすけて……兄上……僕を殺さないで」

 自分を見て震えている弟が、涙の溢れた目で必死のように命乞いしていた。

 その弟が哀れで、スィグルは深く気がとがめ、黙ってまた弟を抱きしめた。

 嫌がるかと思ったが、スフィルは深い安堵の息をつき、ぐったりと抱きついてきた。

 いつかの闇の中で抱き合っていた時のような、深い抱擁だった。

「殺さない。お前は僕が一生守る」

 スィグルは弟に約束した。そんな当てがあるわけでもないのに。

 それでもスフィルは強く抱きついてきて、頷いた。

「大好き。兄上。言う通りにする。約束する」

 約束すると、弟は囁くように何度も繰り返した。何度も。舌足らずな涙声で苦しげに。

 それはギリスに聞こえただろうか。哀れな弟の必死の命乞いが。

 それを聞いて、この射手が満足したか、スィグルは確かめたかった。

 ギリスが弟をもう襲わないでいてくれるか。

 そうでないなら、こんなことは今はまだ確かめる必要もないのに、哀れな弟になぜ言わせたのかとスィグルは恨んだ。

 エル・ギリスと、その主人である自分を。

 弟には気をつけねばならない。ギリスはそれを教えたかったのか。

 スフィルはこちらが思うほどには狂ってはいないのだ。

 もしかしたら玉座にだって座れるかもしれない。良い射手がいれば。

 たとえば、エル・イェズラムや、暗君だった祖父を操っていたという、不戦のシェラジムのような?

 それとも、エル・ギリスのような。

 スィグルはそう思うのを悟らせたくない気持ちで、自分の寵臣の席にいるギリスを眺めた。

 こいつに僕は毎日尋ねなくてはならないのだろうか。

 エル・ギリス、お前は今日も僕の射手ディノトリスかと。

 こちらのそんな気分は知らないのか、ギリスは今も淡く微笑んだままだった。

「よかったなスィグル。弟と本音で話せて。素直な弟で俺も安心したよ」

 喜んでるみたいに、ギリスは明るく言った。

「お前もいっぺん地獄に堕ちてみろ」

 震えて抱きついてくる弟を抱き返し、恨んで悪態をつくと、エル・ギリスはまだ微笑んで見えた。

「なんでだよ。お前も即位して、俺と一緒に死後は楽園に行こう。こんなの朝飯前だろ? まだ道は遠いんだ。ちゃんと飯食って長生きしろ」

 ギリスは懐を探り、薄い包みを取り出してきた。

 絹布に包まれた紙箱だった。ギリスが包みを解いて見せてきたので、すぐに分かった。

 綺麗に装飾された箱の蓋をギリスが開くと、白い砂糖を押し固めたような、指先に乗るほどの花の形の菓子がずらりと並んでいた。

 懐に入れても隊列が崩れないほど、きっちりと並んでいる。

 それを指先で一個、つまみ出してきて、ギリスは薄青い目を泣き腫らしているスフィルに差し出した。

「仲直りの印にお菓子を食えよ、亡霊の殿下。お前の兄貴はもう何を食っても味がしないんだってさ。お前もそうか?」

 スフィルは朦朧もうろうとしたような暗い目で、ギリスをにらんでいた。

 ただ悩んでいるのかもしれなかった。

 仲直りのお菓子なんぞ食いたくないだろう、弟も。

「生きてていい。約束する。お前が手綱に従うんなら、生かしておいてやるよ。寿命が尽きるまで」

 口元に砂糖菓子を押し付けてギリスが約束すると、スフィルはまだ悩んでいた。

 そんな言い方をしなくてもいいだろうと、スィグルはまた思った。

 ひどすぎるだろう。仮にもアンフィバロウの末裔の王子が、そんなことを受け入れるだろうか。

 少しでも正気があるなら、スフィルは拒むはずだ。誇りある王族として。

 スィグルはそう願ったが、弟は突然食った。ギリスの指を。菓子ごと。

 がりっと凄い音がして、弟がくわえたギリスの指から血が滴るのを、スィグルははっとして見た。

「止せ、スフィル。離してやれ。ギリスは味方なんだ。本当だ! 僕らを助けられるのはこいつだけなんだよ!」

 スィグルは慌てて引き離そうとしたが、弟は本気で食いついていた。ギリスの指を食いちぎろうとしているみたいに。力ずくでは引き離しようがなかった。

「よく分かってるな、お前の人食いの兄貴は。もし俺の指を食ったら、お前の首をとるぞ、スフィル。さっきの約束も無しになる。さっさと選べ」

 全く痛がる様子もないが、ギリスも利き手の指は惜しかったらしい。スフィルを脅していた。

 指が無いと弓も引けず、剣も持てないのだから、そりゃ惜しいのだろう。

 なにしろジェレフももういないのだ。

 しばらく悔しげにスフィルは英雄の指を強く噛んでいたが、嫌気がさしたのか、ぱっと離れた。

 それでも抱きついている弟の口中で、砂糖菓子を噛み砕く音が聞こえ、弟は血のついた口で甘いものを食っていた。

 解放されたギリスの指には深い歯形の傷があった。

「くそ。行儀の悪い弟だ」

 小声でうめくギリスの傷からは血が溢れ出ていた。

「施療院に行くか?」

 スィグルは尋ねたが、ギリスは面倒そうに自分の傷を見て、平然としていた。

「そんな暇はない。朝飯食いたいもん。今日は鶏のかゆなんだぜ?」

 ギリスは本気で言っているようだった。

 美味そうだ。話に聞く限りは。でもどうせ自分には、食ったところで旨味はない。なんの味もしないものを噛んで腹に入れるだけの苦行だ。

 かゆなら大して噛まなくてもいいだけ、マシだった。

「治してやってもいいけど?」

 治癒術で。そういう意味でスィグルは自分の右手をギリスに差し出した。

 恨んだ目で弟がにらんでいたが、仕方がない。エル・ギリスは新星レイラスの英雄なのだから、血を流すまま放置はできなかった。

「ヘボ治癒者のくせに」

 ギリスは嘆いたが、大人しく新星の手を取った。

 指が無いと困ると思ったのか、それとも一応、自分たち兄弟に一目ぐらいは置いてくれるのか。

 生やさしい味方じゃないなと、スィグルは内心嘆いたが、いないよりはいい。

 ずっとマシだった。

 ギリスは誰が命じなくても自分の意思で来てくれるのだろう。

 スフィルに指を食われかけても怒らないし、もう知るかと言って出て行ったりもしなかった。

 自分たち兄弟を守ってくれる英雄なのだ。そうであって欲しかった。

 味方が誰もいないのでは、この王宮での自分たち兄弟の先行きは暗い。

 何かの勢力と結びつかないことには、王宮ここでは王族は何もできないのだ。

 ギリスは悪くない相手だった。魔法戦士で、ヤンファールの英雄だ。それにきっと、弟を生かしておいてくれる。

「治癒術も練習するよ。ジェレフみたいにはいかないけど、もっと役に立つように。練習台として、お前は時々怪我してくれ」

 スィグルは笑ってギリスに冗談を言った。

「嫌だよ。そんなの」

 本気だと思ったのか、ギリスは新星レイラスの悪い冗談に本気で嫌がっていた。

 それに笑ったものか、スィグルはひどく疲れたが、まだ抱きついているスフィルを抱いたまま、エル・ギリスの手を取った。

 これが未来の忠臣かと思えば、可愛いような気さえした。

 エル・ギリスをぎょせないのなら、おそらく誰も従えられない。天使もそう思うだろうか。

 猊下げいか……。スィグルはまだ返事がない友に、語りかけた。

 思った以上に即位は大変だよ。

 君ならなんと言うのだろうね。もし今も隣にいて、僕の友であれば、励ましてくれたか。頑張れと。

 このぐらいで弱音を吐くな、レイラス。君はもっと強いはずだ。怠けるんじゃない。

 そんなところか。

 そう思うと可笑おかしくなり、スィグルは笑いながらギリスの手を治した。

 スフィルはギリスが持ってきた菓子が余程気に入ったのか、兄が英雄の手を癒す横で、恥ずかしげもなく甘い菓子を貪り食っていた。

 その様子を見るととても、かつての幼いころ、お行儀がよく品のよかった大人しい弟とも思えず、正気には見えなかった。

 今まで本当に、弟は生肉以外は口にしなかったのに、なぜ急にギリスの菓子を食うのか。

 ギリスがした話が理解できたのだとしか思いようがない。

 弟は、選んだのだ。この部屋から出られないほうの一生を。

 そう思うのは、あまりにも勝手だろうか。

 やがて命じられた侍女が三人分の朝食を運んできたが、食膳が整うころにはスフィルは眠っていた。

 気絶するように首座の前で倒れて寝たのだ。

 驚いたが、スフィルはいつになく安堵の顔で眠っているように見えた。

 結局、弟はどの席にも座らず、新しい自分の居室の首座をせしめる双子の兄に叩頭することもなかった。

 スフィルはもう何もかもが嫌なのだろう。

 頭を下げたり、絹布で締め殺されたりという諸々の万事を、考えるのが嫌なのだ。

 あの時に潔く死んでいれば、こんな苦労もなかった。

 そう思うとスィグルも苦しい気がした。

 ひとさじごとに食うかゆさえ胃に重たいほどだ。

 こんな思いをしてまで生きねばならぬ一生とは、どんなに豪華な寝台で寝ようとも、割には合わない。

 トルレッキオを去る時、随行の者たちが自分を振り返って見るのを眺め、王族らしい威厳を保ったが、内心では思った。

 工人の子であれば、トードリーズたちに付いてタンジールに帰れたのにな、と。

 英雄の子であれば、イェズラムも自分を残しては去らなかったのかもしれない。

 だが自分はあいにく、玉座の血筋に連なる者として生まれ、雄々しく生きて気高く死ぬのだ。

 その一生の、なんとつまらないことか。

 その時はそう思った。

「このかゆ、めちゃくちゃ美味うまくない? 王宮に住んでて良かった」

 嘘のような笑顔で、エル・ギリスが朝食の感想を述べていた。

 既に楽園にいるような、屈託のない笑顔だ。

 ついさっき弟を脅していたのと同じ者とは思えない。

「呑気だな、お前……鶏のかゆぐらいで」

 味のないドロドロしたものを、渋々口に運びながら、スィグルは恨言うらみごとを言う気分だった。

「すごく美味うまいよ。昨日からやけに飯が美味うまくてさ。良かった本当」

 ギリスはさわやかな朝にふさわしい、さっぱりとして晴れやかな表情でそう言った。

 手の傷は満足がいくほどは治っていない。とりあえず傷が塞がり、出血はしない程度にはなったものの、完治はしていなかった。

「施療院に行ったほうがよくないか?」

 スィグルはそれをすすめたが、ギリスは肩をすくめていた。

「お前の練習台でいいよ。治癒術も使えたほうがいいじゃん。自分で自分を治せないのか?」

「治せるよ。他人を癒すほどには治らないけど」

「じゃあ練習したほうがいいよ。何があるか分からないからさ」

 何があるんだ。理解したくなくて、スィグルは考えないようにした。

 でも、ギリスの言うとおりだった。

 使える魔法は全て研ぎ澄まし、生きるために戦う時だった。

 あのヤンファールの地下の穴蔵にいた時と同じ。自分はこれから、なりふり構わず戦うのだ。食えるものを全て食い、持てる力は全部使って。

 その先に何があるのか、まだ知らない。

 いいものであるはずがない。

 そんな気がしたが、スフィルが床に倒れ、スィグルに寄り添い丸くなって眠りながら、兄の長衣ジュラバすそを掴んでいた。

 眠るうちに、スィグルがいなくなるのを恐れるように。

 弟を守らなければ。

 脈絡なくそう思い、ついさっきいじめたくせに、自分はなんて調子がいいんだと思った。

 でも、もう二度と弟と抱き合って眠ることがなくても、ずっとスフィルを抱きしめていたかった。この弟が抱きついてくる限り。二人で生きよう。

 その話を誰かにしても、きっと分からないだろう。

 だからスィグルは黙ってかゆを食った。眠る弟の体温を、寄り添う体に感じながら。

 ギリスが美味うまいというかゆには、何の味もしない。

 それでも、鶏も麦も死にたくはなかっただろう。弱音しか吐かない弱いアンフィバロウのためになど。

 自分はそれをほふり、刈り取って食うのだから、口に入る全てを噛み砕き、喰らって腹に収め、生きねばならない。新時代の血肉と成すために。

 それがおそらく、生きるということだ。

 どんなに味気なくても。自分は生きるのだ。

 もう選んだ。死なないほうの一生を。スフィルも自分も。

 それが罪の道でも、もう歩くと決めた。弟と二人。僕は人食いレイラスだ。

 邪魔する奴はみんな、血も骨も全部、食ってやるんだ。

 それを父も母も喜ばないだろうが、そんなことはもう、どうでもよかった。

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