013 玉座の間《ダロワージ》

 席は無かった。

 そんなことは遠目にも分かった。

 王子たちのための席は既に全て埋まっており、空席はなかった。数えるまでもない。

 それが玉座の間ダロワージの入り口からも既に見え、スィグルは回れ右して居室へやに戻りたくなった。

 晩餐はすでに半ばまで進んでおり、わざわざ遅参して入場するのは目立ちすぎる。

 こっそり入ったところで座る席もないのでは、どうすることもできないではないか。

「今日はやめよう、ギリス」

 まだこちらの腕を握ったままのエル・ギリスに、スィグルは必死で耳打ちした。

 第一、このままぶらりと広間ダロワージに入るのでは、全く王族らしくはない。

 普通ならば、王子たるもの、侍従の列に先導され、衣装を整える侍女を引き連れて広間ダロワージに到着するものだ。

 それなのに、ギリスにひょいっと連れてこられたせいで、そんなものはスィグルに付いてきていない。

 居室へやの侍女たちは、青ざめて唖然とするばかりで、誰一人、列を作って従おうとはしていなかった。

 馬鹿なのか、あいつら。

 今さら腹が立ってきて、スィグルはギリスに掴まれた自分の手がわなわな震えるのを感じた。

 単に怖くて震えているのかもしれなかった。

 玉座の間ダロワージには宮廷の主だった者が大勢居合わせているし、なんと言っても族長である父、リューズ・スィノニムがいる。

 いるはずだ。

 広間の入り口からは見えなかったが、大広間の一番奥の一段高い席に、族長のための玉座があるはずだ。父はそこにいるだろう。

 それを想像しただけで、なぜか手が震えた。

 自分がこれから、取り返しの付かないことをしようとしているみたいで。

「第十六王子スィグル・レイラス・アンフィバロウ殿下だ。しっかり伝えろ」

 ギリスがまるで逃げるなというように、がっちりとスィグルの手首を掴んだまま、広間の入り口に控えている侍従の群れに伝えた。貴人の入場を告げ知らせる係の者だ。

 一定の身分の者は皆が叩頭して出迎えねばならないために、支度をさせるため前もって広間に伝えるのだ。

「やめろ!」

 考えるより早く、スィグルはギリスを止めた。

 広間に入るなら、自分の名を告げ知らせる必要があったが、あまりにも目立つ。

 走って帰りたいような気持ちにスィグルはなった。この宮廷でここまで所在ない気持ちになるとは、まるで想像もしなかったことだ。

「いいからやれ」

 おろおろして見える伝令の侍従に、ギリスは凄んで見せた。

 侍従はぺこりと略礼をして、広間に走って行った。

 馬鹿かとスィグルは内心で地団駄じだんだを踏んだ。なんで侍従はこんな魔法戦士の言うことを聞くのか。王子である僕が、やめろと命じたのに、なんでギリスのほうを信用するのか。

 そんなことを考える間にも、自分の名を伝える声が聞こえた。

 驚くような美声だった。

 さすがはその呼び出しの声を生業なりわいにしている者だ。

 遠い気持ちで感心したが、そんなことを考えている場合でもない。

 広間が一瞬、水を打ったように静まり返った。

「行け」

 ギリスが手を離し、スィグルを広間に押しやった。

「一人でか!?」

 心底驚いて、ギリスに聞くと、魔法戦士は不思議そうに首をかしげた。

「僕にどうしろっていうんだよ!? 席はないし、中に入ってどこへ行くんだよ」

「ああ、うっかりして肝心のところを話すの忘れてたな」

 ギリスはけろりと言って笑った。

「付いて来て」

 先導するつもりらしく、ギリスはすたすたと歩き出した。

 それに付いていかない選択もあった。しかし、名が呼ばれたのに本人が現れなかったら、それはそれで父の宴席で不敬ではないか。呼び出しの侍従も間違いを咎められるのかもしれない。

 第一、僕の名前でギリスだけが広間に入ったら、何事かと皆は思うだろう。

 一緒に行った方がましだ。

 さまざまなことを一瞬で考え、じりじり迷う足を叱咤して、スィグルは広間に入るギリスを追った。

 絢爛な模様で彩られた玉座の間ダロワージ絨毯じゅうたん

 それを一歩踏んだとたんに、体に電撃が走るような気がした。

 皆の目が見ている。いくつもの凝視する蛇眼じゃがんが、じっと無言でこちらを見ていた。

 ギリスは数歩先をすたすたと歩いていく。廷臣の席を抜け、魔法戦士たちの横を通り、王族の居並ぶ場所へ。

 そしてギリスはそこも通りすぎようとしていた。

 スィグルは横目に兄弟たちを見た。誰かとは目が合った気がする。

 恐れているような、怒っているような、悲壮な目。その王子たちと共に座る取り巻きや、着飾った侍女や、後宮から出張っている母親たちの目だ。

 そこを通り抜けてどこへ行くのか、スィグルがギリスに目を戻すと、魔法戦士はちょうど、玉座のある高段につづくゆるやかな階段に足をかけたところだった。

 スィグルはぎょっとした。

 驚いて見上げた族長の席には、もちろん父がいた。

 族長リューズ・スィノニムだ。

 今夜も父は、最初の族長だったアンフィバロウもかくやという高貴な出立いでたちで、晩餐の食膳についていた。

 広間の食事は、皆は部族の風習どおりに床に座り、低い膳から食べるが、族長の席だけは違う。椅子に座って食卓につく。

 そのテーブルには様々な料理や果物が並び、とても一人で食べきれる量ではないが、父は大抵それを一人では食べない。

 当代からの風習と聞くが、族長の席には椅子が何脚かあり、誰でもそこに座ることができた。族長と話をしたい者は、誰でもその席が使える。

 そういう建前だった。

 今夜は父の左隣に、先客がいた。

 赤い花冠をかぶったような華麗な竜の涙を纏った、美貌の女英雄エルだ。

 その隣には、驚きを隠した顔のジェレフがいた。

「族長」

 階段の途中で、ギリスは深々と立礼をして見せた。

「エル・ギリス」

 静かだが、よく通る声で、父が答礼した。

 父がギリスを知っていることに、階段の下に突っ立ったまま、スィグルは衝撃を受けた。

 父は大抵、誰の名でも知っているが、まさかギリスもかと意外だった。

「今宵は何の用だ」

 面白そうに父がギリスに聞いていた。

「第十六王子スィグル・レイラス殿下のともで参りました。殿下と共にしばし、お相伴しょうばんを」

 ギリスが席を要求すると、父は頷き、空席だった自分の右隣の椅子を視線で指した。

 椅子はちょうど二脚あった。

 用意されていたのかと思ったが、偶然だろう。左隣にも二脚、右にも二脚というだけだ。

「息子よ」

 父はまだ階段の下にいるスィグルに声をかけてきた。

 父が何を考えているのかは全くわからなかったが、くつろいだ声だった。

「スィグル。久しぶりだな。そなたは病身ゆえおおやけへの臨席は遠慮していたと聞いた。もう息災そくさいか」

 父は知らなかったのだ。なぜスィグルが玉座の間ダロワージに来ないか、本当の理由を知らなかった。

 知らないと言っている。少なくとも。今は。

「ご心配をおかけしました。もう元通りです、父上」

「では明日から晩餐の務めを果たせ。トルレッキオの話を聞こう」

 上がってこいと、父が指でさし招いた。

 それを広間の皆が見ていただろう。

 ほんの十数段のゆるい階段が、無限の距離にも見えた。

 途中で待っていたエル・ギリスは、事も無げに残りの数段を上がり、族長の隣の席の椅子を引いて待っている。

 スィグルに、そこに座れということだろう。

 そこは王族のための席ではない。

 王子はいつでも父親である族長に謁見できる。晩餐の際にはその機会を家臣に譲って遠慮するものだ。

 だから、そこに席があるとは、スィグルは考えたこともなかった。

「息子よ。やっと顔を出したな」

 隣の席に座すと、リューズ・スィノニムは小声で面白そうに言った。

「見ろ、ここからの玉座の間ダロワージを」

 父に促されて、スィグルは目を広間に向けた。

 広々と果てしなく思える大広間に列柱が並び、そこをたくさんの席が埋めている。

 その席のひとつひとつに座る者が、こちらを見ていた。興味深げに、あるいは、忌々いまいましげに。

 その全てが敵に見えたが、皆同じ、長い黒髪と蛇眼じゃがんを持つ同族の者ばかりだった。

 かつて山の学院で見た晩餐の光景とはずいぶん違う。あの時は金髪の異民族ばかりだった。

 どんなに敵だらけでも、この広間ダロワージは故郷だ。

「ここだけの話だが、スィグル・レイラス。俺は戦場でハルペグ・オルロイの率いる山の軍勢や、シャンタル・メイヨウの放つ森の守護生物トゥラシェと対峙するより、ここから見る景色のほうが恐ろしいと思っている」

「父上にも恐ろしいものがあるのですか」

 そんなものがあると思えなかったが、スィグルは尋ねた。

 父はそれを面白そうに聞いてた。

 父の向こう隣で聞いている女英雄エルエレンディラも、可笑おかしそうに笑う唇で酒盃を舐めた。

「恐れを知らぬ者は大馬鹿者だ」

 族長リューズが目の前でそう言うのを、スィグルは感激をもって聞いた。

 父はおそらく臆病な自分を励ましてくれているのだと、スィグルは思った。

 それでも良いと許された気がして、胸が熱くなった。

「それじゃあ俺は大馬鹿者なんだ」

 びっくりしたように、隣でギリスが驚いた声をあげ、スィグルは虚をつかれて飛び上がりそうになった。

「黙ってろ馬鹿」

 思わず振り向いて叱りつけると、面白かったのか、父が珍しく声を上げて快活に笑った。

「息子が戻って嬉しく思うぞ、スィグル・レイラス。今夜は父の食卓から食っていけ」

 間近に見た父の笑顔に息が詰まって声が出ず、スィグルは王侯の食卓を見つめ、ただ頷いた。

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