「少年騎士、戦場へ」

 リルルを残し、西の森の里から帰還したフィルフィナはゴーダム公爵邸を訪れてサフィーナの私室の扉をノックしたが、返事はなかった。


「……誰もいないのですか?」


 無礼とは了解しつつも扉を開ける。施錠されていない扉は簡単に開き、誰もいない居間が広がっていた。


「サフィーナ? ロシュ? ……どちらかはいると思ったのですが……」


 足を踏み入れ、奥の寝室の扉を開く。寝台の上には、布団を首元までかけたサフィーナが昏々こんこんと眠っていた。


「……ニコル様は? もう具合がよくなられて、起き出されたのでしょうか。ロシュもいないとなると、二人で出かけたか……」


 まあ、いい。出かけられるほど元気になったのだ。サフィーナはそんなニコルの看病疲れで眠ってしまったのだろう。扉が開いた気配にもぴくりともしないサフィーナの寝顔を見て、フィルフィナは微笑んだ。


「起こさずに、おいてあげますか」


 フィルフィナは静かに扉を閉めた。居間のソファーに座り込むと、その小さな口が開いてあくびが出た。眠い。


「……わたしも、十分、いえ、五分でいいから、少し寝かせてもらいましょう……徹夜でしたからね……」


 背もたれに引っかかっていた毛布を拝借し、フィルフィナはソファーに横たわった。仮眠のつもりが熟睡になり、起きる気配などうかがわせない深い寝息が聞こえ始める。


 フィルフィナは後に、この時、サフィーナを起こさなかったことを激しく後悔することになる。

 しかし、それは仕方のないことだったし、それを周りも理解していたからこそ、彼女を一言も責めはしなかった。



   ◇   ◇   ◇



 王都エルカリナの政庁街の一角に駐屯地を構える、王都警備騎士団本部。


 その整地された運動場の隅で、よわい四十を過ぎた年かさの警備騎士中隊長アイガスは、人が二人くらいは入れそうな大きな鉄の缶の中で轟々ごうごうと火を燃やし、胸の高さまで上がってくる炎を遠い目で見つめながら手をかざしていた。


 ひとりだった。


 他には人気ひとけが一切ない運動場に、襟の上までボタンを閉めたくなるほどの寒風が吹き付けてくる。それでも、その冷気が痛くないくらいには鉄の缶から伝わって来る熱で体は暖かかった。

 火の様子を眺めながら、時折、周りに山と積んだ書類の束を缶の中に放り込む。ひとかたまりになった紙が放り込まれる度に、鉄の缶からアイガスの背丈を超えるような炎が勢いよく上がった。

 アイガスは過去を燃やしていた。いや、王都警備騎士団の歴史を燃やしていたのかも知れない。


 過ぎ去ったものが炎になり灰となるのを見つめるアイガスの心は、空虚だった。王都警備騎士団の栄光と恥部を記した証拠になるものが燃えてなくなる度に、自分の心が空っぽになっていく気がした。

 過ごした二十数年という年月、様々なことがあったという感傷の解像度が、どんどん粗くなり――。


「アイガス中隊長!」


 この日になって初めて聞いた他人の声に、半分ほど閉じていたアイガスの目が、開いた。

 振り向くと、懐かしい姿があった。いや、懐かしいと感じるにはまだ早すぎる顔かも知れなかった。


「ニコル……」

「ご無沙汰しています、中隊長」


 見慣れない顔の少女を従者のように付き従えたニコルが立っていた。


「ニコル、お前……あ、いや、失礼! ニコル・ヴィン・アーダディス男爵殿! ほ、本日はどのような御用のおもむきで」

「やめてください、中隊長。ニコルで結構です。どうかそのように呼んで下さい。お願いしますから」

「あ、ああ、ああ……」


 背中の芯まで走った緊張をアイガスは緩める。去年の春に准騎士として入隊してきたと思ったら、その暮れには男爵となって挨拶あいさつもなく去って行った少年の姿をまじまじと見つめた。


「申し訳ありません。色々と忙しくて、顔を見せることもできなくて」

「び……びっくりしたぞ。突然上からお前が領地持ちの男爵になって、警備騎士じゃなくなったって聞かされたんだ。その時のみんなの慌てようといったらなかったぞ」

「中隊長、この静けさはどうなっているんですか? 正門に歩哨ほしょうも立っていませんでした。まるで誰もいないようではないですか」

「誰もいないんだ」


 アイガスは笑った。気の抜けた発泡酒のような寂しい笑いだった。


「お前は……知らないよな。昨日突然上から命令が来た。王都警備騎士団は解散だ」

「解散……!?」

「開戦のせいだろ。警備騎士団の構成員は全員、陛下直属の兵士として動員される。元々、警備騎士っていうのが軍隊と警察の間にある中途半端な存在だったんだ。この際に整理しちまおうってわけさ。ランバルト公爵も……団長も解任されて領地に戻った。俺はその後始末をしているってわけだ」

「後始末、ですか」


 ニコルはアイガスの周囲を囲むようにしている、乱雑に紐で束ねられた書類の山を目にして呆れた。


「まあ、警備騎士団も丁寧ていねいに叩いたらそれなりのホコリが出るんだ。その前に自分たちで払おうってことだ。見られたらヤバい、会計関係の書類なんかをさ……」


 火が弱まったことにアイガスは気付き、一抱えはある束を抱きかかえて、鉄缶てつかんの中に放り込んだ。再び勢いよく炎が立ち上る。


「そんな……警備騎士団がなくなるなんて……」

「ここの施設自体は残るが、もう組織はなくなった。……で、ニコル、お前はどうしてこんなところにいるんだ。お前だって、自分の領地があるんだろ。そっちの面倒は」

「それは……」


 ニコルは思いをよどませた。メージェ島にいる、自分が責任を持つ人々のことが頭を過ぎった。

 体がふたつ欲しい、と思う。そちらの方はフィルフィナがどうにかしてくれると信じたかった。


「……今はそれよりも急ぐことが。中隊長、馬を貸していただけませんか。あと、僕が残していった」

「お前の装備なら一式残ってるよ。片付けてもよかったんだが、誰もそれをいい出さなくてな……そのままにしておいたらお前が戻ってくるような気がしていたのかも知れん。いや、実際戻ってきたか、ははは」

「よかった。どのみち、僕の体に合わせた全身鎧は誰にも着られませんし」

「子供が着ても重くて仕方ないだろうしな。んで馬は隊で管理しているものは全部徴発ちょうはつされたが、一頭いいのがあるんだ。ついて来い」


 鉄缶の中の火が弱まったのを確かめ、アイガスはあごをしゃくってニコルをうながし、歩き出した。運動場の裏手にある大きな厩舎きゅうしゃに向かう。


「お前の代わりに来た奴が本当に使えなくてな。コネ全開で入ってきた貴族のボンボンだが、名前と背丈だけは立派なヒョロヒョロのツルみたいな奴だった。警備騎士団は昼寝してたら格好がつくみたいに思ってやがってな。で、昨日の解散通知で自分が兵士になると知ったら、脱走しやがった」


 ニコルは顔をしかめた。自分の代わりで、というのが少年の罪悪感を刺激した。


「あんまり慌ててたのか、自前で持ち込んだ馬だけは残していきやがった。あいつが乗馬したところなんて見たことなかったけど、乗れたのかどうかも怪しいな、ハハハ……んで、こいつがそうだ」


 建ち並ぶ長い厩舎。そのひとつの隅で、一頭の立派な馬体を誇る黒毛の馬が四本の脚を折って眠っていた。毛よりも真っ黒な大きい鼻を震えるほどに鳴らし、屋根が震えるほどのいびきを掻いている。そのふてぶてしいともいえる寝相にニコルは思わず微笑んでしまった。


「持ち主よりはるかに立派な馬だぜ、こいつは。馬のくせにこんなに深く熟睡しやがって。ニコル、こいつをお前にやる。返さなくていい」

「でも、持ち主が……」

「脱走した奴のことなんて気にすんな。それに名馬も、いい乗り手がいないと寂しいってもんだ。……お前のことだ、大事な用事があるんだろ。遠慮するなよ」

「いきなり新しい乗り手が現れても、懐いてくれればいいんですが」

「そいつは俺が保証する。なんせこいつは、牝馬ひんばだ」


 アイガスは笑った。この寂しさの中で笑えることが、本当に嬉しかった。

 そのアイガスの笑いにつられて、ニコルも微笑んだ。


「――わかりました。この子をもらいます。名前は……」


 ニコルは黒毛の馬の首にかけられている、金属製の名札板ネームプレートを手に取った。


「ヴァシュムート、か。愛称はヴァッシュでいいかな……ヴァッシュ!」


 ヴァシュムートの震えていた鼻がその震動を止める。毛よりも黒い鼻よりもさらに黒い、黒曜石こくようせきの塊のような目が開いてニコルを見つめた。


「初めまして、ヴァッシュ。僕はニコル。突然ですまないけれど、君の背中に乗せてほしい。僕を君の相棒と認めてくれるかな」


 半開きになったヴァシュムートの目がニコルをしばらく見つめる。馬が噛みつこうとすれば避けられない距離にまで近寄って、ニコルはその太い首にそっと手を当てた。少しぬるめの風呂の温度に似た温もりが伝わってくる。


「…………」


 面倒臭そうに鼻を大きく鳴らして、ヴァシュムートはゆっくりと立ち上がった。大きく首を振り、柱にかけられているくらを鼻先でつつく。

 寸劇の筋をいい当てたかのような喜びを覚えながら、鞍を抱えたアイガスがそれをニコルに放った。


「ほらな、心配なかったろ。お前は牝馬にモテるからな」

「ありがとう、ヴァッシュ。よろしくね」


 いいから早くそれをつけろ、といわんばかりの偉そうな態度を示すヴァシュムートのたてがみをニコルは撫でた。鞍を載せ、あぶみを結んで固定した。


「ニコルお兄様」

「ロシュ、ありがとう」


 ニコルの甲冑と装備一式を抱えてやってきたロシュの姿にアイガスが軽く目をく。小麦袋の大きいもの、その三つ分はあろうかという重量を少女が苦もなく抱えているのを見、彼女自身も革鎧姿に着替えていることに気が付かないほどの驚きようを見せていた。


「――戦いに、行くのか……」


 その場で上着とズボンを脱ぎ、首から下の肌を覆う白い肌着を身につけたニコルが、ロシュの手伝いを受けながら金属の甲冑かっちゅうを身につけていく。少年が戦装束に着替えるのを目の前にしながら、現実感が伴わない言葉をアイガスは口にしていた。


「はい。放っておけない人がいるんです。一刻も早く駆けつけたくて」

「……逃げ出す奴がいれば、自分から戦いに身を投じる奴もいる……人間ってわからんものだな……」

「本当に、そう思います」


 ニコルはロシュから長柄のサーベルを受け取り、それを腰の金具に引っかけて固定した。ウィルウィナから譲られたレイピアをその下に吊す。最後にかぶとを被り、顎紐あごひもを結んだ。

 アイガスが厩舎の戸を開き、ニコルがヴァシュムートにまたがった。その後ろにロシュも乗る。


「大変お世話になりました。アイガス中隊長、これで失礼いたします……お元気で!」

「ニコル、お前の送別会をやってないんだ。ゴタゴタが落ち着いたら盛大に開くからな。主役が不在だなんていうふざけたことはなしにしろよ、いいな」

「――――では!」


 一礼したニコルが手綱をしならせる。軽く首を叩かれ、ヴァシュムートは走り出した。

 久しく聞いていなかった馬蹄ばていの響きが遠ざかるのを聞きながら、薄い砂塵さじんを巻き上げながら走り去って行く影を見送ってアイガスが息を吐く。


「あいつ……嘘でもいいから、帰ってくるっていえばいいんだ。これだから根が真面目な奴は……」


 影も見えなく音も聞こえなくなって、アイガスは嘆息と共にそう呟いた。冷たい風が吹き荒んで身を震わせる。真冬の半ばでまだ春は遠いことに、また心が寒くなる。


「ついに人も馬も、みんないなくなっちまった……騎士もこうなったら形無かたなしだな……」


 アイガスは運動場に足を向けた。まだまだ燃やさなくてはならないものがたくさんある。

 全てを焼却し終わった時、自分はどうすればいいのか。

 その答えが出てないことを知りながら、今のアイガスは、努めてそれを考えないようにしていた。



   ◇   ◇   ◇



 大通りの石畳を鉄蹄てっていが叩き、軽やかな調子を響かせながら黒い馬体が南に向けて走る。

 開戦の高揚と不安の両方にその表情を複雑にしていた街の人々が、大通りを挟んで建ち並ぶ高層建築の谷間で馬を疾走させる少年、その腰にしがみついている少女に気が付き、目で追った。


「なんとしても今日中に父上に追いつきたいな。でも、難しいかな……父上は部隊を率いていても行軍させるのは速いんだ。手遅れになる前に合流しないと……」


 馬を潰さぬように休憩しながら追うとなると、追いつけるのは明日か、明後日か。ゴーダム領の中心都市であるゴッデムガルドに着かないと無理かも知れない。いくらゴーダム公といえども、動員の手続きを考えれば相当の時間を食うだろう。


「とにかく、ゴッデムガルドだ」


 ニコルが十四の歳から二年間、王都から離れ、ゴーダム公の元で騎士見習いをしていた街。ゴーダム夫人のエメス、娘のサフィーナ、騎士団の大勢の先輩たち……数えるには指では追いつかないほどの出会いをそこで得た。


 エメスとサフィーナは王都に残ったが、騎士団は全員がゴッデムガルドに戻っていることだろう。


「騎士見習いの時代に戻ったみたいだ。いや、そもそもそれが僕の分なのかも知れないな。貴族なんて、僕の性には合っていなかったのかも――」


 王都の南の門を抜け、ニコルは海を右手に見ながら拓けた平野をヴァシュムートに駆けさせる。

 戦雲が、その前途にゆっくりと立ちこめようとしていた。

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