エピローグ

「狼煙の準備」

 身も心も消耗し、疲れきったリルルは、西の森の里の宮殿の一角にいた。


「今日はここでお休みください」

「こっちではまだ午前なの……昼と夜がひっくり返って、時間の感覚がおかしくなりそう……ふああ」


 世界の表と裏側とを忙しく往復し、神経をすり減らした世界樹内、そして天界での一戦――よくよく考えなくても、魔界から帰ってきたばかりの体なのだ。サフィーナの私室で仮眠をとったといっても、体に疲労は蓄積する一方だった。


「それにしても、ウィルウィナ様のお部屋を借りて大丈夫なの?」


 レース付きの天蓋てんがいが唯一、高貴な者が使う寝台であるということを示している、女王のものとしては地味過ぎるもいいところの寝台に腰掛けてリルルは側にいるフィルフィナにいった。

 メイド服に姿を戻したフィルフィナが甲斐甲斐しく動いている。その後ろ姿がリルルを和ませた。


「問題ありません。母もお嬢様のことがお気に入りですし、部屋を使っていただくことは返って歓迎するでしょう。この部屋なら一通りのものは揃っていますし、臣下が立ち入ることもありません。安心しておやすみください。ここは、守りも堅いですし」

「うん……」


 丈が合わないウィルウィナの寝間着を借りたリルルは、フィルフィナに追い立てられるように布団の中に潜らされた。フィルフィナは枕の高さが合っているかどうか慎重に計る。


「今、王都に戻るのは危険かも知れません。わたしが行って様子を見てきます。この状況に至っては、どこに移動するにも警戒が必要でしょう――お嬢様、お忘れなく。国王は王城にいるのですよ」

「……そう、ね……」


 成り行きもいいところだったが、自分は、快傑令嬢リロットは国王と対決してしまった。

 ウィルウィナの命を助けるためには仕方なかったとはいえ、最早、言い訳が利かないくらいに立派な国家の反逆者だ。今までのように正義の味方ごっこができる立場ではなくなった。


 もう自分は、気軽に王都で眠れる立場でもなくなってしまった。日常が、朽ちた漆喰しっくいのようにがれていく。


「……それ以前に、国王陛下が……国王がしようとしていること、それがわからないわ」


 いまだに口をいて出てしまう敬称を断ち切って、布団の中でリルルは言葉を繋げた。


「魔界と結託していたのは本当らしいし、それで世界を襲おうとしていた。でも、この構図は? 国王自ら魔王を倒して魔界を敵に回し、その上世界からは宣戦布告を先制されているのよ。完全に後手に回って、エルカリナ王国は全世界の上に魔界まで敵に回してしまっているわ。

 ――わからない。

 国王の最終的な目的って、なんなの? いったいなにがしたくて、こんなことをしているの?」

「それは…………」


 フィルフィナは口を開こうとしたが、にごすしかなかった。フィルフィナ自身にもわからない。


「天界と魔界、ふたつの世界の神を倒して、究極の力と命を手に入れた。ですが、それなら、こんな大戦争の口火を切る必要もなかったはず……この謎を解くには、まだ材料が足りません。しかし、その大事な材料を、わたしは母が持っていると思うのです」

「まだ、ウィルウィナ様は全部をお話になられていない?」

「容態が落ち着いたら、よくよくお話を聞かなければならないでしょう。ですが、それには少しの時がかかります――お嬢様もお休みください。休まなければ、お身体に障ります」

「うん……」

「あとはこのフィルにお任せください。お嬢様」


 厚いカーテンを閉め、閉鎖されている中庭から差してくる光を断って部屋を暗くし、フィルフィナは扉の前で一礼した。


「お昼頃には戻ります。お腹も空かれているでしょうから、食べたいものとかは。クィルになにか作らせましょうか」

「フィルのシチューが食べたいかな」

「クィルが作った方が間違いなく美味しいと……」

「フィルのシチューが食べたいの」

「かしこまりました」


 微笑み合う。微笑み合えるということは、自分たちは、まだ幸せなのだ。

 フィルフィナが音を立てずにゆっくりと閉めた扉を見つめながら、リルルはそう思った。



   ◇   ◇   ◇



 浅い眠りと覚醒を何度か繰り返し、そのまま深い眠りに落ちていたニコルがサフィーナの寝室の寝台で目覚めたのは、一瞬で渡ることができる遠い地でリルルが寝入った、ちょうどその頃だった。

 閉ざされた窓のガラスを震わせるようにして聞こえてくる歓声に意識を撫でられ、その目を開く。


「……ロシュ?」

「おはようございます、ニコルお兄様」


 椅子に座り、眠っていたニコルを文字通り一睡もせず――彼女に睡眠は必要ないのだが――見守っていたロシュが声をかける。本来ならば椅子に座る必要もない彼女なのだが、不意にニコルが目覚めると驚かせかねないから、という配慮だった。


「おはよう……。なんか、ずいぶんと長く寝ていたような……僕はどれくらい……」

「ほぼ、二十四時間です。正確には二十五時間四十七分」

「あぅ……」


 寝台から身を起こそうとして、ニコルはうめいた。頭を枕から離した瞬間に、前頭部と後頭部の両方から重い痛みが中心に向かってぶつかるような頭痛がした。


「ニコルお兄様、まだ脳波が安定しきっていません。もう半日ほど安静にする必要があります」

「リルル……たちは? 外から聞こえる、あの声は……」


 ロシュの手によって頭を抱えられたニコルは、ガラスを震わせて伝わって来る、大勢の人々のどよめきに似た声の厚い波を耳で拾っていた。


「国王の演説が行われているようです」

「国王……陛下の……。いったい、なにが起こっているんだ……」

「ロシュは昨夜の演説も記録しています。あとで詳細をお知らせいたします。ですから、今は」

「ああ……」


 ニコルは頭を枕に戻した。と、カサ、という感触が枕の下で鳴る。


「あれ……ロシュ、僕の枕の下に、紙が挟まっているようだけど……」

「これですか」


 ニコルの枕から半分のぞいている手紙をロシュの手が抜いた。


「ゴーダム公爵からのお手紙です」

「……父上が来られたのは、夢じゃなかったんだ。色々たくさん夢を見て、もうどれが現実か区別がつかないよ。お母様がいらっしゃって、僕を抱きしめて泣いていらっしゃったような夢も見たし……」

「それは現実です。お読みいたしましょうか」

「いや、僕が読む……ロシュ、見せて」


 ロシュが手紙を開き、ニコルに手渡す。まだ脳の中に重い不快感を抱えながらニコルはそれに目を走らせた。まだ意識的に集中しないと短い文面の意も読み取れなかったが、ゴーダム公がこの手紙を枕の間に差し込んだ時の表情の意味を思い出して、今読まないわけにはいかないと心が騒いだ。


 手紙の文面はそれほど多くもない。それでも、今のニコルには短編小説を一編いっぺん読むほどの気力が必要だった。


 同じ文面を二度、三度と繰り返し読み、その意を汲み取るにつれてニコルの顔が青ざめていく。


「父上、これは……」

「――ニコル」


 ロシュが椅子から立って一礼する。ニコルが聞き取れなかったくらいに静かに扉を開けて、サフィーナが姿を見せていた。



   ◇   ◇   ◇



 王都エルカリナから北に、直線距離で約五百カロメルト離れた、世界でも有数の穀倉地帯、フォーチュネット郡。

 その地域の新領主になった、いや、復帰したというべき領主ログト・ヴィン・フォーチュネット。


 王都エルカリナで経営していたフォーチュネット水産会社の経営を全て部下に押しつけ、彼は幸福の中で、経営領主という新しい立場での忙しさを謳歌おうかしていた。

 実際、楽しかった。


 経営のための部下の選定、冬小麦の収穫と新しい作付け、老朽化した設備の更新、領地の実態の把握のための調査――忙しくて忙しくて目が回るほど、いや、実際に目が回っていたが、忙しさの疲労もまるでご褒美であるかのように、彼は働き、働いて働いて働いて、働き抜いた。


 連日の徹夜さえも楽しいように、何日も着替えをしていない姿で右手でペンを動かしながら左手で口に食べ物を押し込んでいる、ある意味鬼気迫る光景を、新しい領主を迎えた臣下たちはぞっとする思いで眺めたものだ。自分たちにその労働意欲を求められなかったのは本当に幸いだったが。


 四十年の夢をかなえ、領主として振る舞えることを喜ぶダンスを、労働という形で踊るログト。


 そんな彼の一ヶ月と少しの幸せを断ち切って木っ端微塵みじんに砕く報せは、その日の午前に来た。



   ◇   ◇   ◇



「ログト・ヴィン・フォーチュネット伯爵に王命を伝える。速やかに領地を放棄せよ。派遣した使者に全権を譲渡し、その指示の一切に服すことを命じる」

「なんだと!?」


 事務机にかじりついていたログトは、国王の名代の地位を示す腕章をこれ見よがしに示し、無形の力で部下たちを蹴散らして領主の館の奥にまで踏み込んで来た一人の男の言葉にまさしく仰天した。


「領地を放棄!? どういう話だ! どんな理由があればそんなことがまかり通る!!」

「戦争が始まった」


 ログトの机に一束の書類が叩きつけられた。奪うかのように一呼吸で引っつかんだログトがそれを開き、血走った目をいてその文面を読む。


「……この内容は、本当なのか……!」

「こんな冗談は、王家の紋章が入った書類ではしない」

「……宣戦布告は一昨日、王家からの公式発表が昨日、そして我が領地への通知が今日……伝達が早過ぎはしないか!? 命令書の通達の速度を考えても、あと二、三日遅れてもいいくらいだろう!」

「そんな疑問を抱いている暇はないぞ。フォーチュネット伯、貴公は私の指揮下に入ってもらう。今すぐ、全ての領民にこの地を退去する旨を伝えよ。移動は明日からだ」

「領民を退去させる!? しかも明日!? なんなんだ、この命令は!!」


 嵐のように襲いかかる不可解な、いや、意味不明ともいっていい『命令』にログトは頭がおかしくなりそうだった。その全部が信じられない。完全に常軌を逸していた。


「この土地から領民を全て引き剥がしてどうするつもりだ! いや、どこに退去させる! 全領民に根無し草の流浪の民になれというのか! いったいなんのために!」

「長々と説明はしないぞ。領民の全ては王都エルカリナに収容する。一人残らずだ」

「……五百カロメルトを、領民たちに歩けというのか! 無理だ! 何人、何十人、何百人脱落すると思う! 幼児は、年寄りは! 怪我人や病人は!」

「車両は手配してある」


 その言葉を待っていたかのように、領主の館が震え出した。地震か、とログトは一瞬思ったが、王都ではそこそこ起こる地震がこの地ではほとんど起こらなかったことを思い出す。

 机を乗り越えるようにして部屋を出たログトに続いて、使者がゆっくりと歩いて屋外に出た。


「これは…………!」


 領主の館が面している大通り、その幅のほとんど全てを使って、ほろ付きの荷馬車が埋め尽くしていた。どこからこんな数が湧いてきたのかと思うほどの膨大な数の車両がゆっくりと大通りを進み、次から次へと続いて途切れない様は、王都の大運河の流れを思い出させた。


「これに加えて、私の部下に魔導士を数人帯同させている。人数は限られるが、どうしても移動困難な人間から優先して直接王都に転送する用意がある。取りこぼしはさせん」

「……!」


 現場での実務にも慣れているログトは、わかった。

 これは一ヶ月や二ヶ月で用意されたものではない。もっと以前から周到に準備されてきたものだ。

 読まされた書類には、フォーチュネット郡の領民が進む進路、所要時間までもが明記されていた。


 恐ろしいのは、何故こんなものが準備されてきたのか、ということだ。

 まるで、この時期に戦争が起こることを、数ヶ月も、いや、その遙か前から知っていたかのように。


「せ……戦争というのは、理解した。だが、解せん。大陸の最北端はここから百三十カロメルトも北。充分に縦深があり防衛線も張れる余裕がある。いや、それ以前に、エルカリナ王国海軍は世界最強とうたわれる精強な艦隊をいくつも持っていたはずだ。これでは、まるで――」

「まるで、なんだ。焦土作戦・・・・のようだ、とでもいいたいのか?」


 使者は笑った。

 確実に勝てる、最強の役が揃ったカードを手元にした、勝負師のように。


「そのとおりだ。領民を退去させた後、この地は焼き払う。

 まさしく焦土作戦だ・・・・・・・・

 そしてこの措置は、エルカリナ王国全土において、揃って行われる」

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