「旧き英雄の亡霊、新しき英雄の野望」

『ウィル……ウィル……ウィルウィナ……』

「あ……あ、あなた…………!」


 ウィルウィナは一瞬、自分の名前さえ忘れた。それほどの衝撃があった。意識に泥が注ぎ込まれ、それに直接手を突っ込まれてかき回される。平衡感覚さえ失って倒れそうな混乱が彼女を襲っていた。


 左手に持つ狙撃砲が、その銃尻を地面に着ける。それを杖にしないと立っていられなかった。


『ウィル……そこにいるのか……』


 がちがちと震えて止まらず打ち鳴らされる歯、そんなあごを抱えていたウィルウィナが、再度、耳――いや、魂をくすぐってきた顔を上げた。


『見えない……俺には見えないんだ……ウィル、どこにいるんだ……』

「ヴェル」


 ウィルウィナは叫んでいた。声が娘の時代のそれに戻っているのにも気づかなかった。


「ヴェル! 私はここにいるわ! ヴェル、あなたの目の前よ!」

『ああ……ウィル、声がする……』


 ヴィザードを見下ろすように立ち上ったあおい影が、揺れる。幽鬼ゆうきの振る舞いでそれは迷っていた。


『懐かしい声……ウィル、俺は……俺は、やらなければ、ならないことが……』

「ヴェル!!」


 ウィルウィナの双眸そうぼうから涙が噴き出す。頬の崖を滝となって流れ落ちる。


『……ウィル、来てくれ……寒い……俺は、どうなったんだ……』

「ヴェル――!!」


 ウィルウィナが前に向かって歩み寄ろうとした瞬間、あおい幻影は、蝋燭ろうそくの炎が風に吹かれたかのように消え失せた。絶望にウィルウィナの呼吸が止められる。きしんだ喉が空気を通してくれない。


「さすがだな。恋仲だったという話は嘘ではなかった」


 ヴィザードの鎧が人の息づかいの脈動を感じさせる律動で輝く。本当に鎧が生きているかのように。その輝きの源はなんなのか、それに思い当たったウィルウィナの顔が引きつった。


「ヴェルの鎧……そして今のは……! う……嘘よ! 嘘だわ! こんなものまやかしだわ! あなたが作り出しただけの、ただの幻よ!」

「信じたくなければ、それでいい」


 そう語るヴィザードの声は、自信に満ちていた。真実であると主張しなくても、相手に思い知らせることができるという確信があった。


「私が台本を作って演じた可能性は否定できないだろう。しかし、お前にはわかったはずだ。私よりもわかっているだろう。今、私の背中に立ったものが、なんなのか」

「ヴェルの……ヴェルの、ヴェルの亡霊だっていうの…………!?」


 苦い思いが舌に貼り付き、それを唾棄だきしたくなるが、いくら唾を吐いてもこの苦みは欠片かけらも取れないだろうという予感しかなかった。毒の苦みで死んでしまいそうになる自分に、体の震えが止まらない。


「ヴェルの魂が、まだこの世に未練を残して漂っているだなんて……! そんなの嘘よ! あの子は……あの子は、天の国でルインと、ルインたちと仲良くやっているに違いない! きっとそうだわ! 信じる……信じるものですか…………!」


 ウィルウィナの手が滑り、銃が倒れる。杖を失った体が揺らいであっさりと膝が折れ、ウィルウィナの体が崩れ落ちるかのようにその場にしゃがみ込んだ。


「未練、か」


 ヴィザードが一歩、歩を進める。間合いが詰められてもウィルウィナはその場から動けない。両の腕で体を支えることが、今、彼女にできることの全てだった。


「その、この世の未練・・とやらが、お前には心当たりがあるのだろう。当事者のお前には」


 ひぅ、とウィルウィナの喉が鳴る。青ざめた瞳が床を見つめて離れない。


「全てお前たちのあやまちだ。お前たちの甘さがこの世に禍根かこんを残した。ワイブレーンの命を奪えたのに、半端な同情心がそれを為させなかったのだろう」


 ウィルウィナの頭が揺れた。後頭部を言葉の大槌ハンマーで殴られたかのように。


「あなた、そんなことまで知っているの……!?」

「私の言葉を本当に信じる気になったようだな」


 自分の有利を誇るでもない、冷ややかな目でヴィザードはかつての英雄の無様な姿を見た。


「ヴェルザラードは悔やんでいた。己の甘さが全ての決着を着けられなかったことを。だから私の前に現れたのだ。子孫のお前に、我が力を与えると。かつて世界を救った勇者の力で、成し得なかったことを成してくれと」

「ヴェルの……ヴェルの力……今までのが、全部……あの子の力……」


 ふたつの神を裂いた力。世界のことわりを破壊した力の根源を知って、ウィルウィナは泣いた。


「あの無鉄砲で、向こう見ずで、考えなしで……それでもあの子は優しかった……。自分が倒さねばならない敵のためにも泣いてあげられる子だった……。そんなヴェルが、こんなむごいことを……」

「お前たちがやり残したこと、やらねばならなかったこと、全てを私が代わってやってやろうというのだ。虚飾にまみれた『五英雄』の一人よ」


 ウィルウィナの肘が折れた。額が自分が流した涙の跡に覆い被さった。


「お前たちが口伝さえロクに残さなかったのは、真相を知られるわけにはいかなかったからだろう。世界は救われたと見えて、なにも救われてはいなかった」

「救ったわ……私たちは世界を救った……」


 唇が床を舐めるのにも構わず、ウィルウィナはうめいた。


「私たちがああしなければ、世界は破滅していた! 私たちは多くの命を救ったわ! それが世界を救うということではないの!」

「ただ、病人を病巣びょうそうも取りのぞかないまま、延命させただけに過ぎない。この世界は病みきっている。王都エルカリナを知っているのだろう。あれが世界の縮図だ」


 隙をさらけ出しているウィルウィナを、ヴィザードは攻撃しようともしない。今は、言葉のひとつひとつが、相手を真実に敗北させる矢だった。


「魔界と繋がっていることで産出される魔鉱石、その存在がなくては生存も支えられない。なんという不自然で不安定な有り様だ。そして世界はその魔鉱石を奪い合う段階に入った。魔鉱石の存在なくしては冬も越せない文明になったのだ。これは発展ではない、衰退だ。

 ――魔鉱石の輸出を制限しただけで、大戦おおいくさだ。我が王国に宣戦布告した国どもは、王国で産出される魔鉱石の利権を欲しているに過ぎない。仮に奴らが勝っても、激しい利権争いが起こるだけだ」


 ウィルウィナがわずかに顔を上げた。だが、まだ体は起こせない。腕が上体を支えられない。


「戦争に続く戦争。戦争は戦争を呼び、憎しみは限りなく連鎖し、最後の人間が死に絶えるまで続く。世界が滅んで全てがご破算ゲームオーバーになっても、どこからか人類がよみがえり、増え、文明を起こし、文明同士で争い、そして『滅亡』に押し流されて滅ぶ……キリがない」

「だから……だからなんだというの……!」

「それを私が終わらせてやるというのだ、エルフの女王。私はその連鎖の切り方を知っているのだぞ」


 ヴィザードは剣を床に突き立てた。唇にするには重い言葉だった。


「『女神エルカリナ』」

「ぃっ」


 数秒、ウィルウィナの心臓が止まった。


「どうだ」

「…………………………………………」


 ウィルウィナは答えられなかった。ウィルウィナの顔から流れ落ちるものに大量の汗が加わった。


「幼少の頃から気にはなっていた。大陸の、国の、街の名にもなっている『エルカリナ』という言葉がどこから由来しているのか。――その本質は隠せても、存在自体を忘れ去るには良心が痛んだということか。それとも、地名に紛れ込ませてありふれた名前にしようとしたか……まあ、それはいい」

「あなた……本当に……本当にヴェルの記憶を……全部……私たちは、それを全部自分たちの心の中に収めて、墓場まで持っていこうとしたのに……」

「どうした、心がもろいな。エルフの女王とはいえ、その心の根は娘だということか」

「なら、あなたは……『庭師』の存在も……」

「知っている。『フェレス』という名の異次元の存在。『庭師』が『滅亡』を管理していることも。そして、その滅亡の構造も。世界のことわりも、私は全てを知っている。自らの弱さの前に逃げ出してしまったこと、それを悔いたヴェルザラードは霊となってよみがえり、全てを教えてくれた。だから」

「…………く、く、く……」

「どうした、そう泣かずともいい。ウィルウィナ、旧き英雄よ。完全な世界を創るために、私に力を貸せ。この不幸な連鎖を断ち切り、悲しみの起こらない世界を創造するために。

 一度、この世界を破壊するのだ。全ては、それから――」

「く……ク、クク、ククク……」


 ヴィザードの額に、薄くではあるが初めて、不安の色が差した。


「……そなた、笑っているのか……?」

「あなた……全部を知っているというのは、確かだわ。しかし、だからといって、全部を正直に話しているというわけでもないのね――世界を滅ぼすことを、ヴェルが望んでいるはずがないわ!!」


 ウィルウィナが、立ち上がった。

 銃を手にして杖にすることもなく、自らの脚だけで立ち上がった。


「あなたは本当のことをいっている――半分・・はね!! ヴェルは、もう一度世界を救うようにと、亡霊となってよみがえったのよ!! それをあなたは自分の野望を優先させ、ヴェルの力だけ・・・を利用しようとしている!! 酷い裏切りだわ!! こんな裏切りを見たのは、五百年以上生きていて初めてよ!!」

「――――は、はははは……」


 エルフの女王が魂の全てをかけてにらんでくる視線、刃より鋭いそれを受けてヴィザードは涼しく笑った。今までほふった二つの神よりも、よほど楽しみ甲斐があると思いながら。


「さすがだな。さすがヴェルザラードと共に旅をした仲間だ。彼の心根をよくわかっている。子孫の私よりもよほど深く、な。確かにお前のいう通りだ」

「ヴェルの力を捨てなさい! そして、速やかにその霊を天の国に帰すのよ! これ以上あの子をおとしめることは、私が許さないわ!」

「そして、五百年前と同じことを繰り返そうというのか。――これ以上話していてもらちは開かんな。できれば手駒としたかったが、致し方ない」


 ヴィザードが床に突き立てられた剣を取る。


頑迷がんめいなエルフの女王。そなたの出番はとうに終わって、もはやない。切り札もお前にはないのだろう。お前の想い人の剣で死ぬがいい。これも慈悲というものだ」

「――――」


 じり、と歩を詰めてくるヴィザード相手にウィルウィナはその両手に短い剣を二本、握った。しかしそれは、ヴィザードが握る赤い刀身の大剣に対しては、あまりにも非力なものにしか見えなかった。

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