「安らぎは、これが最後」

 耳に音として聞こえないくらいの静かなざわめきが、王都エルカリナの全域を襲っていた。

 正午ちょうどに発令された国王命令がその原因だった。


『本日夕刻午後五時、国王陛下より重大発表を行う。午後五時半まで民間、行政を問わず全ての機関は活動を停止し、発表に耳を傾けるよう務めること。各住宅や商店などは厳重に戸締まりをし、盗難に備えよ。この通達を知った者は、近隣の者にも伝えること』


 朝から予め用意されていたのか、その発令は王都全域の大通りという大通りに張り出され、空を行く飛龍にまたがった広報官から地上に向けて拡声と同時にビラが撒かれる。王都を縦に横に走り抜けるラミア列車からもその旨を告げる声が飛んだ。


『発表は王城において国王陛下自らによって行われる。各区域の大通り交差点においても、遠隔広報によって同内容の発表が伝えられるので、市民の全員がそれを拝聴すること。……繰り返す、本日夕刻午後五時……』


 報せは流し込まれたすみのように広く浅く広がっていく。今までにない形での重大発表が行われる、という話に、市民たちは想像の翼を広げるのも恐れ、どのような内容が言い渡されるのかを議論する者は少なかった。


『繰り返す、本日夕刻午後五時……』


 予告を知らせる声はきっと、発表の瞬間まで続くのだろう。人々はみな不安げな顔を見せながら、知ってしまえば深刻にしかなれないそれを知らずにいれる、最後の残り時間を楽しもうと無理に笑い合っていた。



   ◇   ◇   ◇



 寝台に横たわるニコルは、浜に寄せる緩やかな波のように浅い覚醒と浅い眠りを繰り返していた。時折、意味を成さない言葉を呟いて側にいるリルルとフィルフィナをはっと驚かせるが、それは目覚めてのものではない。


 開いた口を湿らせるように少量の水を口の中に吸い口で注ぎ、かたわらで人形の立って揺らがないロシュが、ニコルの顔を観察しながらいっていた。


「ニコルお兄様は現在、脳波が大変乱れている状態です」

「ど、どどど、どうすればいいの? お薬? 魔法? それとも治癒祈願?」

「お嬢様、落ち着いてください」


 フィルフィナがそこまで狼狽うろたえられるのかと呆れるほどに冷静さを失っているリルルに、ロシュは端的に応えた。


「睡眠を取れば解消されます。全ては睡眠不足から起因していますので」

「あ……ああ、よかった……」

「お嬢様、ニコル様のことになると我を忘れるのはいい加減、どうにかしてください。お嬢様がさらわれた時も、ニコル様は大変冷静で、ご立派でしたよ」

「私がお城に連れて行かれた時、フィルはどんな感じだった?」

「…………」


 フィルフィナは黙った。黙って、赤くした顔をリルルから背けた。

 リルルは今まで引き裂かれていた時間を埋めるようにニコルの側に寄り添い続け、フィルフィナは時折その場を離れて外出を繰り返した。今、魔界に連れ去られていることになっているリルルが、表をほっつき歩くわけにはいかない。


「王都は好きなんだけれど……もう、気軽に歩けない街になってしまうなんて……」

「いいじゃない。私たちにはもう一つの顔があるのだから」


 たまに顔を見せてくれるサフィーナは、そういって慰めてくれる。リルルはその言葉に微笑で曖昧あいまいに応えることしかできなかった。


 そのサフィーナが少しよそよそしく、なにか隠し事をしている素振りにしか見えないのにリルルが気づかなかったのも、不安定な眠りを繰り返しているニコルに意識を引っ張られていたからだろう。

 昼下がりといえる時間になって、ゴーダム公が寝室に姿を見せた。


「公爵閣下……」


 ノックに気づいて席を立ったリルルに、ゴーダム公は言葉をかけなかった。ただ一瞬微笑を見せて半分の会釈をし、流すような目だけでなにかを訴える。

 数秒その意味を推し量ったリルルは、無言で一礼し、寝室を離れた。


 父と子の語らいがあるのだ、という予感があったからだ。

 背後で扉が閉められたのを音で確かめ、ゴーダム公はリルルが座っていた椅子に腰を下ろした。

 浅い寝息を繰り返していたニコルが、微かに高い音で喉を鳴らし――その目を小さく開けた。


「……………………。……ちち、うえ……?」

「ニコル」


 微かに濃い水色の瞳は瞳孔が拡散しているようで、目の前の像を認識しているようには見えない。それでも気配で見当がついているのか、闇の中で手探りをするようにニコルは目を動かしていた。


「無理をしなくていいぞ。私は、お前の顔を見に来ただけだ」

「…………父上、申し訳、ありません……」

「なにをいう」


 ゴーダム公の大きな手が、少年の金色の髪に触れた。


「お前は勇敢に戦い、目的を果たして帰還したのではないか。お前は私の自慢の息子だ。謝る必要など、なにもない」

「…………父上には……いつもいつも、ご迷惑を……」

「お前のような息子にかけられる迷惑なら、親の喜びというものだ。ニコル、気に病むな。全ていいように手配はしてある。……私がいると、話し込んでしまうようだな。私はこれで失礼する。……そうそう、ニコル、これだけは頼みがある」

「なんで……しょうか……」

「書き付けとしても持ってきているのだが、枕元に差し入れておく。具合がよくなったら読んでくれ。……私はしばらく王都を離れることになった。自領で用事ができたのでな。それで、エメスとサフィーナを王都に残しておく。ニコル、この二人の面倒を頼みたい。必要になれば、の話だが」

「…………はい…………」


 ゴーダム公は、懐に入れていた手紙をニコルの枕の下に半分差し込んだ。


「ゆっくり休むがいい。ではな」


 席を立ち、ゴーダム公はニコルに背を向けた。


「ちち……うえ…………」

「うん?」


 扉の取っ手に手をかけたゴーダム公が振り向く。さざ波に意識を引き込まれるニコルが、開いた口から息を吐くように、いっていた。


「ご……武運を…………」

「――――――――」


 驚きにゴーダム公が目を瞬かせている中で、ニコルは再び浅い眠りに入っていた。


「……こういうことにだけは、鋭いのだな」


 苦笑がゴーダム公の頬を飾って、公は静かに扉を開け、部屋を辞した。

 あとには、カーテンを閉めて暗くした部屋の中で少年の穏やかな寝息が繰り返されるだけだった。


   ◇   ◇   ◇



「……サフィーナ?」

「なんでしょう、お母様」


 ゴーダム公邸、家族の居間。

 執務のために王城に出向いてしまった父が不在の中、母と娘がテーブルを挟んでお茶を飲んでいる。


「あの……その……ね?」


 ゴーダム公の妻、サフィーナの母であるエメス夫人は、手で包んだ自分のカップにこそこそと隠れるようにして娘の顔をうかがっている。


「その…………あなたの部屋に、その…………」

「お母様」


 口に含んだ紅茶を飲み下し、体の中の空気を全て息として吐き出してから、カップを置いたサフィーナはいった。どう考えても無駄な駆け引きだった。


「お母様のいいたいことはだいたいわかっています。はっきりいわれても構いませんよ」

「…………あなたの部屋に、ニコルはいるのよね?」

「答える前にひとつ、約束をしていただけませんか?」

「な、な、なにかしら?」


 エメス夫人の顔に笑みが浮かぶ。乾ききった笑みだった。


「お母様のお声はとても大きいので、心配しているのです。お母様はいつもニコルを見たら興奮してしまうのですから」

「そんな、人を自制もできないように……」

「自制していただけるなら、答えてもいいですが」

「サフィーナ! あなたは仮にも親に向かって」

「自制していただけますか?」


 サフィーナの揺れない瞳に、エメス夫人は白旗を揚げた。


「……自制します。だから、お願い、ニコルに会わせて……」

「お母様。私の部屋にはリルル嬢もいらっしゃるのです」


 エメスの顔が一瞬で青ざめた。

 公爵夫人という立場からか、それが意味することは反射的に理解できたようだった。

 国王のきさき候補を保護して報告せずにかくまい続けるということが、どれだけの重罪なのか。


「リ……リルル嬢が……サ……サフィーナ……」

「私がニコルとリルル嬢を匿う理由は、おわかりですね?」

「……サフィーナ、お前は、ニコルと結婚したくはないのですか……?」

「まだそんな未練を持っているのですね、お母様は。無理もないでしょうけれど。私がニコルと結婚して彼を婿に招けば、ニコルは立派なお母様の義理の息子ですもの。――お母様、そんな望みはあきらめてください」

「えええ…………」

「いいではないですか。ニコルはお母様のことを、お母様と想ってくれているのですから。それで」

「お前の気持ちは、どうなの?」


 カップを持ち上げたサフィーナの手が、止まった。半分が残っている赤い水面に映った自分の顔を見つめてしまう。


「サフィーナ。今が、最後の機会ですよ。私は、私がニコルを可愛がりたいというだけではないの。お前の幸せも考えているつもりです。お前も、ニコルのことを好きなのでしょう。私とは別の形で、私よりもその気持ちは大きいのではないのですか?」


 赤い水面で、赤く染められたサフィーナがこちらを見返していた。お前の気持ちはどうなのだ、と赤いサフィーナがサフィーナに問うてきている。そんな赤い自分を見つめ、サフィーナは二年と数ヶ月の間、自分の胸の中で渦として回っていた気持ちを再び回してしまっていた。


 紅茶が冷めてしまうだけの時間が過ぎる。カップを持ったままうつむき、黙っている娘に、母は言葉を押した。


「決断するなら、この場で……」

「――ふふ」


 少女の口元がわずかに笑う。そしてカップに口をつけ、そのまま一口で飲み干した。


「――お母様。それ以上けしかけようとするのなら、ニコルには会わせてあげませんよ? 私の、サフィーナの気持ちは変わりません。ニコルが本当に愛しているのは、リルル嬢。そんなニコルの気持ちを邪魔して乱すなど、私がいちばんしたくないことです」

「そう……」


 エメスは反論も無理押しもしなかった。娘が微笑んでそういえるのなら、それでいいと思ったから。


「……サフィーナ、誤解しないでね。私はあなたが後悔しないように、考える機会を作っただけなのよ。あなたがそれでいいのなら、もうなにもいいません。あなたのしたいようにしなさい」

「ありがとうございます、お母様」


 エメスも残りの紅茶を飲み干し、小さく音を立ててカップを皿に置く。

 二人、午後のゆったりとした時をしばしの間、無言で過ごした。あったかも知れない、架空の未来をそれぞれ頭の中で想い描いた。


「……あなたもつらいわね、サフィーナ。私には、その気持ちがわかっているつもりですよ……」

「つらいです。でも、私はそのつらさを放したくありません」

「……何故?」


 ニコリと微笑んだ娘に母が尋ね、娘は、胸の中に確かに残る小さな幸せを手で確かめて、いった。


「このつらさは、ニコルがくれるものですもの。ニコルから受けるものは、ぬくもりも、寒さも、嬉しさもつらさも、全部が宝物。私、そう思えるくらいの恋をしているのですよ。そんな私が、幸せでないはずがないのです。お母様……納得していただけますか?」

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