「ぬくもりたち、みっつ」

 王都エルカリナのゴーダム邸、サフィーナの私室。


 姿見スタンドミラーに偽装して部屋の隅に立てられている長細い転移鏡の表面が波紋を刻んだかと見えた次の瞬間、手足をもつれさせた少年と少女、合わせて五人がひとかたまりで転がるようにして絨毯じゅうたんの上に転がった。


「あ、おかえりー」

「……やっと、帰ってきた」


 テーブルで朝食後のお茶を楽しんでいたフィルフィナの双子の妹たち、クィルクィナとスィルスィナが、転がりながら解けていく面々を見て脳天気な挨拶をする。


「た……だ、いま……」

「おねーちゃん、大丈夫? なにか最優先でしなきゃいけないこと、ある?」

「……と、取りあえず、ニコル様を、ソファーに……」


 震える手を動かして辛うじて指示を出したフィルフィナが、力尽きて突っ伏した。全員がホコリと煤にまみれていて、精も根も尽き果てたように動けない。


「あーい。じゃスィル、手伝って」

「……了解」


 意識をなくしているニコルをソファーに横たえ、奥の寝室から持ってきた毛布を体にかける。その間、絨毯の上で伸びていた三人もよろよろと立ち上がり、テーブルを挟んでニコルとは反対側のソファーに腰を沈め、それぞれぐったりと背もたれに体重を預けた。


 ようやく安全な場所にたどり着けたという安心感に気が抜けたのか、三人は目を閉じたまま小揺るぎもしない。このまま全員が寝入ってしまうのではないかという恐れを抱き、クィルクィナは切り出していた。


「――んで、一昨日から今まで、なにがあったの?」

「それは……」


 口を動かすだけの気力が残っていたリルルは、話し出した。

 ダージェの屋敷に連れ込まれてからのこと、まずニコルとロシュが屋敷にたどり着いてくれたこと、ダージェとニコルが決闘するに至り、その二人が魔界の暗殺者に狙われたこと。


 暗殺者たちを久々に変身した自分、そして遅れてやってきたフィルフィナとサフィーナが排除し、魔界からも命を狙われることになったダージェと屋敷を脱出し――。


「魔界の首都は……火事で大混乱に陥っていて、何故か、魔界と地上を繋ぐ魔法陣をエルカリナ王国の兵隊たちが守っていたわ……。それが魔界の兵隊たちと争っている隙を縫って、私たちは魔法陣に飛び込んでここに戻ってきたのよ……」

「お嬢様の話では、エルカリナ王国と魔界が手を組んだという話でしたよね……」

「ダージェから、何度も繰り返し聞いたことよ。だから、私にもわけがわからない……」


 聞かされた話と、この目で見た、それと相反する現実。どちらも本当のことにしか思えない。

 わかっているのは、この一連の状況が全くわからない、ということだけだった。


「それもいいんだけどさー。サフィーナお嬢様が不在だっていうのを隠すの、もう本当に大変だったんだよー。風邪で調子が悪いからって取り繕っておいたけど、旦那様の反応怖かったよ」

「お父様は……怒ってた……感じなのですか……?」

「ううん。あたしたちのいうこと、なんでもニッコニコ信じるの。どんな苦しい言い訳でも、ああ、そうか――みたいに。あれ、お嬢様がいないのをわかってる感じだったな、絶対」

「そう…………」

「ま、それはいいんだけどさー。それよりも」


 クィルクィナはくりくりした目を動かし、リルルとサフィーナに視線を向けた。


「その快傑令嬢の格好、着替えた方がいいよ。んで、リルルお嬢様はここにいるとヤバいんでしょ? 身の振り方考えなくっちゃ、いけないんじゃないの?」



   ◇   ◇   ◇



 王城と目と鼻の先にあるといっていいゴーダム邸に留まることは確かに危険を伴うことではあったが、疲労の極みにあり昏睡同然の眠りについているニコルを動かすことにはかなりの抵抗があった。

 結局、リルルはサフィーナの私室に留まることにさせてもらった。



   ◇   ◇   ◇



 サフィーナの寝室の寝台の布団にくるまり、ニコルは健やかな寝息を立てていた。

 その脇に椅子を二つ並べ、少しは気力を持ち直したリルルとフィルフィナが肩を並べるように座り、全てから無防備になって眠りの世界に落ちている金色の少年を見つめている。


 穏やかな時間だった。時計の針の刻み方にさえ、優しさが感じられるような時だった。


「……お嬢様……」


 フィルフィナがリルルの体に体重を預け、リルルの手の甲にそっと手を置いた。リルルが横のフィルフィナに目を向けると、エルフの少女の目が熱い涙にけている。


「お嬢様……やっと、やっと静かになれましたね……」


 手の甲に乗せられている少女の小さな手から、小さな震えが伝わって来る。リルルは微笑んで、もう片方の手でそれを包んだ。

 まるで姉妹のように寄り添う二人を、閉じられたカーテンからわずかに漏れた光が細く照らす。


「そうね……」


 言葉が途切れた。

 語るべき言葉、伝えるべき言葉が多すぎて、なにから語るべきか、それを選ぶのに迷う。

 が、そう迷えるのも幸せな証拠だった。何十日の間、二人は言葉を交わすこともできなかったのだ。


「こうやって一緒にいられるのは、本当に久しぶりね……」

「お嬢様……」


 ぎゅ、とフィルフィナの手に力が込められる。それが痛いくらいに手の骨に伝わってきたが、リルルはなにもいわなかった。フィルフィナのその手から伝わってくるものの全てが、今のリルルには幸せのかけらだった。


「……もう、お会いできないと思っていました。お嬢様が、お城に連れて行かれた時、旦那様にお屋敷を追い出された時、フィルの心は死んでしまいました。みんなの助けがなければ、わたしは抜け殻のようになっていたでしょう……」


 感極まっているのか、肩に固い力を入れて、フィルフィナが戦慄わなないていた。


「もう、あんな想いはしたくありません。周りがなんといおうが、フィルはお嬢様のお側にいます。お嬢様、どうか、どうかフィルの側からいなくならないで……。フィルは、フィルは……」

「――ごめんね、フィル。寂しい想いをさせて」


 互いのぬくもりを、互いのぬくもりで温め合う。そんな他愛もないことが、今は愛おしい。たまらなく愛おしい。

 こんな時間が永遠に続けばいい。そんな、かなえられるはずもない望みを抱いてしまう。


「お嬢様、謝らないで……。フィルは、それでもまだお嬢様よりは、つらくありませんでした。フィルにはニコル様も、サフィーナも、ロシュも、島のみんなもいました。忙しい中で、気を紛らわせることもできました。それに比べてお嬢様はあんな寂しい場所に閉じ込められて、ひとりぼっちで……」


 ぽろ、ぽろ、ぽろとフィルフィナの目から涙の粒が転がり落ちる。胸が潰れる思いに言葉が詰まる。


「わたしが……わたしが、本当にお嬢様を守るつもりになっていたら、お嬢様をお城に行かせなどしなかったのです……。フィルがドジだから、お嬢様には、何十日もニコル様と引き離すことになって……お嬢様、本当に、本当に申し訳ありません……」

「――フィル」


 そんなエルフの少女の手の甲から、リルルは手を離した。首にかかっている細い鎖を指でつまみ、胸元にかかっているそれを引き出した。


「私はひとりではなかったわ。いつも、いつでもみんなといた。――ほら」

「あ…………」


 リルルの胸元から、真珠色をした楕円形の物体がのぞいた。親指大のそれを片手でふたを開けると、ほのかな香水の香りが漂って、色鮮やかな写真が現れる。

 微笑んでいるリルルを中心にして、ニコル、フィルフィナ、サフィーナ、ロシュが並んでいる光景が、時を閉じ込めるようにしてそこにあった。


「私の家族。みんなが私の心にいるから、私は寂しくなかった。ニコルも、サフィーナも、ロシュちゃんも。そして、フィル」


 切れ長の目にいっぱいの涙を浮かべたフィルフィナが、写真に落としていた視線を横に向ける。

 聖母のような優しい笑みをその口元に浮かべて、リルルがフィルフィナを見つめていた。


「私の大切なフィル。あなたが私のことを想ってくれていたから、私もがんばれた。私は信じていたわ。必ずまた会えると。――フィル、ただいま、そしてお帰り」


 フィルフィナの首筋を、リルルの両腕が挟むように滑っていく。そして、森妖精の少女の顔を自分の首筋に埋めるようにして、静かに抱き寄せた。


「……お嬢様……ぁ……」


 リルルのぬくもりをその頬で、リルルの匂いをその鼻で感じて、再び、その目に涙が溢れる。


「なんで……どうしてですか……。どうして、お嬢様の方が、わたしよりもいつも強いのですか……。わたしはずっと年上なのに。しっかりしていなくちゃいけないのに。お嬢様と出会ってから、わたしは、フィルは、弱くなるばかりです……」


 声を殺してフィルフィナが泣く。歳の離れた妹をあやすように、リルルはその緑色のふわふわした髪に手を埋めて、ゆっくりと撫でた。


「いいじゃない。強くても、弱くても。私は、フィルが好きよ。フィルがフィルでいてくれるのが、私の幸せだもの。――フィル、私の好きなフィルのままでいてね……お願いだから……」

「リルル…………!」


 フィルフィナの小さな手がリルルの服を強く握り、しがみつく。

 仲の良い姉妹のようにも、愛し合う母子のようにも見える二人は、そうやって体を重ね合わせた。


「――よかった、がんばった甲斐があったね……」


 リルルとフィルフィナが、閉じていた目を開ける。

 寝台に目を移すと、厚く軽い布団に包まれているニコルがうっすらと目を開いていた。


「ニコル……!」

「ニコル様!」

「ごめん、声をかけちゃって。少し前に目が覚めたんだけど、二人があんまり幸せそうだから……眠ってようか?」


 その顔からまだ疲労の陰を払いきれなくとも、嬉しそうに微笑む少年の優しさに、リルルもフィルフィナも指で涙の粒を弾いた。


「ニコルのばか、変な気の使い方をして……。私たち、家族じゃない。お屋敷で一緒に育ったもの。なにを遠慮することがあるの。……ほら、フィルも逃げないで!」

「ええ……でも、お嬢様、わたしがいると、ニコル様と、その」

「いいの! 私は三人がいいの! フィル、いなさい! これは命令よ!」

「お……お嬢様? なんか、少し変わりましたか?」


 照れ笑いをしながらいうリルルの言葉にフィルフィナが戸惑い、ニコルが笑う。


「あはは。リルルが命令だなんていうの、初めて聞いたかもね」

「いいの、いいの。みんなが幸せだったらいいの。――ね、三人で、一緒に温め合いましょう」

「あわわ……お嬢様、ニコル様……」

「うふふ」


 リルルとフィルフィナがニコルの枕元に顔を寄せ、ニコルも頭を寄せて二人の少女の髪に自分の髪を触れさせる。こつん、と互いの頭がぶつかり合う感覚さえ、幸せの証以外の何物でもなかった。


「――いつまでも、こうしていられればいいのにね……」


 目を閉じて時の流れを別れようとするリルルが、そう祈る。祈らずにはいられない願いだった。



   ◇   ◇   ◇



 しかし、動き出してしまった時代の大きなうねりはそんな小さな幸せさえ、続けさせはしない。

 その日の午後、少年と少女たちは知ることになる。

 自分たちが既に、渦の真ん中に飲み込まれようとしていることを。

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