「魔界の事情たち」
寝台のバネの弾性を利用して跳ね上がったリルルが、その固く握りしめた拳を暗い青紫の肌をした少年の頬に叩き込むまで、瞬く間も必要としなかった。
「――この、女の敵がぁぁぁぁっ!」
「ぶぐおっ!?」
全く予期しない方向からの鉄拳をまともに右半面に受け、ダージェが文字通り吹き飛ぶ。弾き落とされた
「あ……あなたは……あなたは、女を、女をいったいなんだと思ってるのよっ!」
男ひとりを
一連の様を目の当たりにしていたメリサは、
「女は……女はね、あんたが気持ちよくなるための道具やオモチャじゃないのよ! それを、仮に、仮に双方が納得していたとしても、お腹の子を
「待て、ちょっと待てリルル!」
「待つかぁっ!」
「ぐふぅおあっ!!」
女に殴り飛ばされた、という事実を受け止められずにうろたえるダージェの
「止めろ! 男の顔を殴るな! しかも拳で!」
「じゃ、これでいかがかしら!?」
リルルの右の平手がダージェの左頬を打ち、返す手の甲で右頬を叩き、さらに
「あなた、子供ができることをしていたんでしょうが! なら、その命に責任を持ちなさいよ! いくら母体を傷つけずに堕ろすことができるからって、簡単に命を殺すなんてことをするんじゃないわ! この、性欲先行の
「や――やめて! やめてください! ダージェ様をもう
「メリサさん、よね!? 本来ならあなたが殴らないといけないのよ! こんなに馬鹿にされて
「もう気絶されています! 殴ったところで意味はありません!」
「――気絶っ!?」
三十回目の往復運動に入ろうとしたリルルは、襟首を絞め上げていた魔界の少年が白目を
「――このくらいで、だらしがない!」
ふんと鼻を鳴らし、リルルは魔界の少年の体を床に投げ捨てた。ダージェはおそらく生まれて初めて、自室の床を
「ダージェ様、ダージェ様!」
「メリサ、そんな
「リルル様、でしたか!? これ以上ダージェ様を傷つけるのはやめてください! お願いします!」
「私はあなたたちの関係なんて知らないし、知りたくもない! でもね、今のは女全体への侮辱なのよ! 私にも怒る権利と殴る権利があるわ! あなたはそれよりも、自分のお腹の子のことを――」
「
「は」
目にいっぱいの涙を溜めたメリサがリルルの体にすがりつき、リルルの感情の高ぶりがそこで切断された。
「お腹に子供がいるなんて嘘なんです! とっさの
「え、嘘なの? ……でもどうするの。あなた、シャレにならない嘘を
「流産した、ということにします。これならどこにも
「――――――――」
言い足りないことは少なからずあったが、リルルは拳に込めた力を解いた。この男女の関係において、そこから先に踏み込む気は起きなかった。
「ああ、ダージェ様、ダージェ様、しっかりなさってください。お気を、お気を確かに……」
「う……あててて……メリサ、ここはいったいどこだ……」
メリサの冷たい手に
「ここはダージェ様の寝室でございます。ご気分の方は……」
「なんか顔が痛ぇな。それに異様にヒリヒリする……どうなってんだ……リルル? あれ、どうしてお前がここにいるんだ?」
本当にわからない、という顔を見せてダージェは頭を振る。瞳の焦点が定まらずに瞳孔が揺れ動いていた。
「確かリルル、お前を城の
「――ダージェ様は足元をふらつかせて、この壁に顔をお打ちになったんです。それで気絶を……」
「は? 俺がそんなマヌケなことを?」
「お風呂の用意ができた頃だと思います。ダージェ様、そこで顔を冷やされながら、ゆっくりとお湯に
「でも、壁に顔を打っただけでこんなに顔面全部が腫れ上がるか? いったいどうなってんだ……」
メリサによって半ば強引に連れられ、
「――よかった、本気で殴っておいて……」
どうやらメリサと
「ともかく、魔界に
リルルは首に掛かっている細い鎖を引き上げ、胸元に入れていたロケットを手の平に
「――みんな」
小さな
「――みんなのためにがんばる、私。だから、みんな。私に力を貸して――」
リルルはそっと窓からバルコニーに出、手すりの
長いリルルの髪を叩くように風が打ち付ける。空飛ぶ屋敷の全体が気流の中に包まれているようだ。
それほど速くはないが、かといって人の脚で追いつくことも不可能な速度で
「……そんなの、心配することもないじゃない。いくら引き離されても、私たちは結局は一緒になれた。それが繰り返されるだけなのよ」
目印になる香りよ、風に乗って愛しい人たちに、届け。
リルルはそんな祈りを込めながらロケットを残し、寝室に入ってバルコニーの窓を閉めた。
こうした以上は、この屋敷でニコルたちの到着を待たなければならない。
あらゆる危険を
◇ ◇ ◇
巨大な神々が食事に使う円形の皿のような
建物の中には立ち番をしている数人の兵士の姿があった。が、祭壇の上で誰かが転移してくるのは珍しくもないのか、注意はこちらに払われてはいない。――出口は、正面のひとつだけだ。
身を屈めながら周囲を目で探る。
肌が白い方のニコルなどは、簡単に浮き上がって見えるだろう。
「みんなダージェと同じような肌の色か。まいったな、
「ニコルお兄様、ご安心ください。外套はロシュには不要です」
ニコルがその声に振り返ると、いつの間にかロシュの肌の色が深い紫色に変わっていた。
「へぇ……ロシュは肌の色も変えられるんだ。まあ、瞳の色を変えるよりは簡単かもね」
「ロシュが先頭に立てば
「聞き込みも必要かも知れないし。よかった。ロシュ、頼りにしてる」
「お任せください、ニコルお兄様」
頼りにしてる、という言葉を
外套に身を包みフードを深く被り、ニコルはそんなロシュを盾にするように体を丸めた。
神殿を抜け、ニコルたちは外界に出た。松明で照らされていた神殿内より外は暗い――空の色は一面の灰色で、分厚い雨雲に
現在地は小高い丘の上だ。長い下りの階段が百段を優に越える長さで続いていて、その下には石造りらしい市街が広がっている。広さはそこそこあるようだが建物のほとんどが平屋であり、そのくすんだ灰色の建物の群れは、
「それにしても暗いな……あの太陽の高さを見ると昼なんだろうけれど、昼でこの暗さか。雨が降っているわけでもないのに……」
街全体に活気がない。ここから遠いということを割り引いたとしても、息を切り詰めているような緊張感がある静けさがあった。人もそれなりに歩いているのだが、みな一様に歩みの速度が遅い。全てを生き急いでいる
「ニコルお兄様、残り香が地面に定着しています。こちらの方向かと」
「ロシュ、あまり目立たないようにね。戦闘になったら逃げきることは難しいよ」
「了解しました。ですが万が一の場合でも、ロシュはニコルお兄様を必ずお守りいたします」
「本当に頼りになるなぁ。本来僕の
ニコルは口の中で笑うと、それ以上無駄口を叩くのを止めた。自分たちも、この街の空気に溶け込まなければならない――。
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