「魔界の空を飛ぶ屋敷」

 ――魔界。

 それは人間界の『下』に存在するといわれている世界だ。

 厳密にいえばそれは、地上に存在する人間界の下――『地下』にあるという意味ではない。


 人間界とはほんのわずか、位相いそうが下層にズレている、というのが正しい。

 つまり、人間界と魔界は重なっているのだ――わずかにズレながら。

 ただ、この『下層にズレている』という概念がいねんが、魔界にとっては不幸の始まりだった。


 地上と同じく、魔界にも太陽の光は降り注ぐ。が、わずかに違う次元に位置しているため、その光量は非常に弱かった。

 真昼の時間でも、夜明けのわずかな白み具合にしか明るくならず、夜にもなれば地上と同じ真の闇になってしまう。


 このような世界で、陽の光を成長のかてとする植物がまともに育つはずもなかった。

 代わりに、位相の違いさえ乗り越えて地上から徐々に侵食してくる魔素まその存在があった。動植物の属性を変えてしまう力を持つその魔素はいつしか魔界に充満し、まずは抵抗力の弱い植物を変質させていった。


 魔界の住人は、その中でも食べられるものと食べられないものを選別せんべつし、口にした。魔素に影響された植物は味も悪く口当たりも悪くなったが、ただでもまずしい食糧事情では、わずかでも栄養になるものならば選択の余地などなかった。

 当然のことながら、植物の魔素はそれを食べた者の体に蓄積ちくせきされ、動物を、人間をも地上の者とは全く違う姿にゆっくりと変貌へんぼうさせた。


 水や空気、食物を摂取せずに生物は生きられない。『地上の下にある』という絶対的な宿命が、魔界を幸せではない世界に変えていった。

 だから、魔界の住人は思うのだ。


 光あふれる地上に出たい、と。

 自分たちにはすずめの涙、ほんのお情けのように分けられるこの光を独占している地上の住人を全て打ち払い、この身に光を浴びたいと。


 それまで細々とだがつながる道があった地上と魔界の道は、五百年前に全てが遮断しゃだんされた。足りないものを地上での収奪でなんとかめ合わせていた魔界は今、本当の意味での存亡の危機にさらされていた。

 そんな世界に、魔界皇子まかいのおうじダージェは、リルルを連れ込んでいた。



   ◇   ◇   ◇



 ダージェの屋敷は、空を飛ぶ小さな島の上に建っていた。

 地上から五百メルトほどの高さに、島をすべらせる透明な軌道レールかれているのかと思わせるように、その島は一定の高度と一定の進路を取って宙を走る。


 地上より一回りは狭い魔界を、それはおよそ一週間で一周する。人間の全速力の二倍程度の速度だ。


 どこか廃城はいじょうらしい雰囲気ふんいきかもし出す、小国の小城が周囲の庭園ごと浮き上がったような屋敷。

 そのあるじであるダージェは、帰還しようと翼を広げて薄闇の魔界の空を飛ぶ。

 その小脇に少女――リルルを抱えた姿で。



   ◇   ◇   ◇



 玄関をくぐる手間もしいのか、それほどの速度も殺さずにダージェは屋敷の二階、部屋から大きく張り出されたバルコニーに着地した。


「う」


 まるで大きな小麦袋かなにかのようにダージェの肩にかつがれていたリルルが、お腹に加わった衝撃に小さくうめく。 


「あん? ああ、ちょっと乱暴な着地だったか。すまねえな、ははは」


 リルルの意識があるのを知らないダージェは、背中の翼をしまいながらいい加減な謝罪をして自室の大きな窓を開けた。


「さあリルル。ここが俺とお前の愛の巣だ。たっぷり愛し合うぞ」


 部屋の真ん中にえられている、並の人間なら四人は楽に寝られそうな巨大な寝台。そんなものが鎮座ちんざしていても広い部屋に圧迫感はない。壁に取り付けられたランプが一つだけ煌々こうこうとした明かりを灯していて、その紅さが部屋の調度の全てをうっすらと染めていた。


「長旅お疲れさんだ。一時間くらいはかかったか。もうそろそろ目覚める頃合ころあいだろうな」


 ダージェはほとんど無造作むぞうさにリルルを寝台の真ん中に放り投げた。体を受け止めてくれた布団が最高にやわらかくなければ、悲鳴に近い声を上げていたところをリルルはこらえる。


「なんだかんだで結構体が汚れたかもな。まずはあっつい風呂に入ろうぜ、二人でな」


 仰向けになったリルルの体を叩き、はははと笑いながらダージェは寝室を出て行った。

 扉が閉まる音を確かめたリルルが、まぶたの下に隠していた瞳を見せてそれをギラつかせた。


「――なにが二人で風呂よ! 乙女の胸を気軽にたたいて行くとか、紳士しんしの行いじゃないわ! ……まあそれはいいとし……いいえ、ちっともよくないけど!」


 ひとしきり怒りを振りまいたところで大きく息をき、カーテンが開けられた外、薄暗い魔界の景色をながめた。今までの道中で薄目うすめで見ていた行程こうていとを頭の中で組み合わせる。


「空に浮かぶお屋敷、というわけね……これはすごいわ……」


 あまり整備されているとはいえない庭園の先の景色は、突然切り取られたかのようにぼやけている。地上とこの屋敷とのあまりもの高度の差がそう見せているのだろう。


「閉じ込められていたお城の尖塔せんとうも高かったけれど、ここはその倍以上は軽くあるものね……しかも地上と繋がっていないから、普通には・・・・逃げられない……」

「リルル! 起きてるか!」

「っ!」


 吹き飛ばされる勢いで部屋の扉が開けられたのに、リルルは反射的に目を閉じていた。目で確かめるまでもなく、ダージェが戻ってきたのだ。


「なんだ、まだ目ぇ覚ましてないのか。ねぼすけだな。――しっかし、可愛い寝顔だなぁ」


 扉の気持ちなど意にも介していない荒々しさでそれを閉め、ずかずかと近寄ってきたダージェが遠慮えんりょなく――自分の部屋のものであったとしても――寝台に上がってきた感覚がリルルのきもを冷やす。少年の体から発散される熱が、その存在が間近に迫っていることを教えてくれた。


「ひとっ風呂浴びようと思ってたが、臭いがするのもそれはそれで興奮するかもな。でもまあ、取りあえずは前菜からいただくか。んじゃ、その可愛いくちびるを味見させ――」

「――させてやるわけないでしょ!」

「ぐほぉっ!?」


 リルルの足の裏が、稲妻いなずまの速度でダージェの笑顔に埋め込まれた。


「リルル! お前、男の顔を足蹴あしげにするとか、どういう根性してるんだ!」


 転がるようにして寝台から蹴落けおとされたダージェが、犬歯をき出しにしてわめく。


「それはこっちのセリフよ! 眠っている淑女に悪戯いたずらするとか、どういう神経してるの!? いているのがハイヒールでなくて本当に残念だったわ!」

「俺の顔に穴を空ける気か!? おっそろしい女だな……!」

「ダージェ様っ!?」


 扉が音を立てて開かれる。メイドらしい姿をした一人の少女が、ノックもなしに踏み込んできた。


「ダージェ様、ご無事ですか!? 今、もの凄い悲鳴が!」

「メリサ、勝手に入ってくるんじゃねぇよ! 外に出てろ!」

「は、は――」


 寝台から蹴落とされたダージェ、そのダージェを蹴落としたリルルに、使用人を示すらしいフリルを髪にせた少女が戸惑とまどっていた。


「ダ……ダージェ様、そ、その方は……」

「外に出てろっていってんだろうが! まあいいや。メリサ、このリルルがお前がお世話する俺の嫁だ。こんな乱暴者でもご令嬢だからな。心してつかえろよ」

「嫁!? それでは、私はどうなるのですか!?」

「えっ」


 メリサの抗議こうぎの声、それを押さえ込もうと威嚇いかくするようなダージェのえにリルルは嫌すぎる予感に顔をゆがめた。

 どうやら微塵みじんも望んでいない、深い泥沼に引きずり込まれたらしいことは確かだった。


「この一ヶ月、私を抱きもせずに屋敷をけられていたのは、その女と……!」

「女、なんて失礼なことをいうんじゃねぇよ! ただの客人じゃねぇ、行く行くはお前のあるじになるんだぞ! なんせ、次期魔王の嫁だからな。今のうちに無礼ぶれいびておかねぇと、本当にその首が胴体から離れることになるぞ!」

「ちょ、ちょっとちょっと」


 どうやら予想通りの奈落ならくに向かって激進していく話の流れをリルルは止めたかったが、無駄なようだった。


「わ……私は? ダージェ様、私を捨てられるということなのですか!?」

「捨てやしねえよ。ただのメイドになるだけだ。まあ、お前と遊ぶのはめるけどな。俺は今日からリルル以外抱かねえことにするからよ。そういうわけだ――わかったか?」

「わかりません!」

「あのねぇ……」


 自分を当事者として巻き込んでおいて蚊帳かやの外にしてくれている二人の口論こうろんに、リルルは本気で頭を抱えた。


痴話喧嘩ちわげんかなら、私のいないところでやってもらえないかしら……。そもそも私は、あなたの嫁になんか――」

「酷い――酷い! ダージェ様、私にいってくれた言葉は全て嘘だったのですか!? 私がいちばん可愛いとおっしゃってくれて! 私が愛おしいと、何度も何度もささやきながら、私を――!」

「嘘じゃねぇ、確かにお前はいちばんだった。顔も可愛いし具合も最高だったよ。ただ、お前より可愛いのが現れただけだ。具合はまだ試してないけれどな。でも俺はこのリルル以外抱かないと決めたんだよ。だからお前は用済みだ――なに、別に屋敷を追い出すわけじゃねぇよ」

「ダ、ダ、ダージェ様……!」

「あ、あああ、もう」


 リルルはこの場から逃げ出したかった。メリサが体で廊下ろうかへの出口をふさいでなければ、実際にそうしていただろう。


「わ……私は、それでもかまいません……! ですが、ですが、こ、この……!」


 枕を抱えて顔を埋め、自分の世界に逃避とうひしようとしていたリルルの耳がぴくりとねた。会話の文脈から、とてつもなく嫌な予感がしたからだ。

 反射的に枕から顔を離し、メリサの方を向く。案の定、泣き顔を震わせ、お腹に両の手を当ててその部分を強調していた。


「こ、このお腹の子はどうなるんですか……!?」

「はぁぁ? 腹の子?」


 ダージェの顔が左右非対称に歪んだ。


「そうです、ダージェ様の子です! 私のお腹の中に、ダージェ様の子が……!」

「ガキか。ま、デキていてもおかしくないか。それなりのことはしたからな――どれ」


 ダージェはメリサに近寄り、その腹に手を置いた。


「まだほとんどふくらんでないな。本当なのかよ」

「は、はい……。母にも聞きました、間違いないと。体の調子もおかしいですし……一ヶ月か、二ヶ月目ではないかと……」

「ふうん。ならよかった。おい、メリサ」

「は、はい――」


 ダージェが歯を見せて微笑ほほえんだ。

 その屈託くったくのない笑みの明るさに希望を見出し、顔を明るくしたメリサに、ダージェは心底嬉しいという顔で、いっていた。


「そんな時期なら大丈夫だな――今すぐ、ろせ」


 微かに青みがかった銀色の風が巻いたのは、この瞬間だった。

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