「結節の空間、再び」

 魔界皇子まかいのおうじ・ダージェの小脇に抱えられたまま気絶をよそおうリルルは、力もすべもなく連れ去られる無力な娘を演じながら、その薄目を開けていた。

 先を急いでいるらしいダージェには顔は見られず、意識を失っていないことは気づかれていない。


 尖塔から拉致らちされる直前、ダージェが放った不可思議ふかしぎの術を受け意識が飛びかけたが、それは銀の腕輪の力ではねけることができた。不意を突いて脱出することもできないではなかったが、リルルはこのまま行き着くところまで行く覚悟を決めていた。


 理由はいくつかあった。


 ひとつは、自分が連れ去られるわけを純粋じゅんすいに知りたかった。気になる言説げんせつは記憶に留めている。魔界における王子であるダージェは、エルカリナ国王ヴィザード一世と何かしらの取引を行っているようだ。


 魔界とエルカリナ王国。この交わりようがないと思える代表同士に、いったいどのようなつながりがあるのか。自分がしちになることで進む事例があるという。


 もうひとつは、単純にこのダージェという少年――のように見える――のことを知りたかった。

 魔界の住人などというものは、リルルにとっては物語の中だけの存在であったが、このダージェを前にすれば受け入れるしかない。彼の人間くささ・・・・・にも興味をかれた、といってもいい。


 そして、最後の大きな理由は、逃げ出すならば先の先の方が都合がいい、という読みがあった。王都の近くで逃げ出せば、王国関係者に見つかり、再度尖塔せんとう収容しゅうようされるだけの話だろう。


『とはいえ、どこまで連れていかれるのかしら……できるだけ遠くの方が、脱出した時に行方をくらましやすいのだけれど……』


 リルルが意識を保っているのにも気づかず、王都北の城壁を悠々ゆうゆうと飛び越えたダージェは、王都から少し離れた北の森林地帯の真ん中に着地した。高空から地形を読んでいたリルルは、そこが記憶にある『フェーゲットの森』であることに気づいて思わず体を震わせた。


 ダージェが茂みをき分けると、中から一枚の大きな鏡が出てくる――リルルの薄く開けられた目が、やはりそれも『転移鏡てんいかがみ』であることを確認した。


「さて、行方ゆくえをくらますとするか。――ま、どうせ魔界の方に来るんだろうが。というか、来てもらわないと困るんだがな」


 ダージェは笑いながら鏡の表面に手の平を当て、そのまま体の全部をめ込むように力をかける。固体であるはずの鏡が波紋を刻んでダージェの体を沈み込ませ、抱えるリルルまでをも共に飲み込んでいた。



   ◇   ◇   ◇



 それに遅れること、十分。

 リルルが身につけたロケットに仕込まれた芳香ほうこう、残り香を手がかりに追跡してきたニコル、フィルフィナ、ロシュの三人も、茂みの中の転移鏡を発見していた。


「このフェーゲットの森に転移鏡を隠しますか。みな、考えることは同じなのかも知れませんね……」

「……って、フィルもここに鏡を隠しているのかい?」

「ええ。王都を抜けたと思わせて森の中にすーっと入り、そこからアジトに通じる鏡を」

「……それを知っていたら、リロットをつかまえられていた機会が何度となくあったのに。いつも追いかけても逃げ切られるんだから」

「申し訳ありません、ニコル様」

「あはは」


 快傑令嬢リロットの正体がリルルであると知らず、その逮捕たいほに情熱のほとんどを向けていたニコルが苦笑する。


「やはりこれを使用したようです。香りはこの地点で途切れています」


 匂いを『目』で見ることができるロシュが、確定情報として口にした。


「転移鏡は、あらかじめ登録している人間しか使えないんじゃなかったっけ。僕たちがこれを使えなければ、ここから先を追うことが……」

「登録の書きえは不可能ではありません。それに、この転移鏡は――」


 冷静に呟くフィルフィナが鏡の表面に手を置く。細くしなやかな指が鏡の表面に触れた途端とたん、固形のはずの鏡が小さく波打った。


「――不特定多数を転移させているためか、誰でも使えるようになっています」

「これがどこにつながっているのか、確かめないと危険だな……とはいっても、確かめるには潜るしかないんだけれど……」


 ニコルは両眼をつぶった。数秒の間もくしてのどを鳴らし、唾と一緒に覚悟を飲み込んで、目を開けた。

 腰のレイピアを抜く。フィルフィナの前に腕を伸ばして行く手を制した。


「――僕がり込む。待ち伏せがあるかも知れない。敵がいたらすぐに引き返す……十秒っても僕が戻らなかったら、二人も続いて」

「わたしが先に立ちます。ニコル様は後に続いてください」

「ニコルお兄様、ロシュが先に行きます。ロシュの体は丈夫ですし――」

「ありがとう。二人の心遣こころづかいは、本当に胸にみるよ。――でも、僕はリルルの騎士だから」


 ニコルはえりにつけている、三つの徽章きしょうを示した。

 ゴーダム公爵家、フォーチュネット伯爵家の隣に、真新しい輝きを放つアーダディス男爵家の徽章――快傑令嬢を意匠デザイン着想モチーフにしたとしか思えない、それ。


「リルルの騎士だから、僕はリルルのために危険をおかす。だから先に行くよ」

「……わかりました。ニコル様、くれぐれも気をつけて……」

「二番手はロシュが行きます。ニコルお兄様、ご安心を」

「心強いね。じゃあ、行くよ――」


 不安の中にも微笑みを見せて、ニコルは左腕から転移鏡に潜り込ませていった。何度そうしてもれない、固体と液体の中間に体を割り込ませる感覚が全身を包み、ほんの刹那せつなの一瞬、ニコルをこの世のどこにも存在しない身に変えていた。



   ◇   ◇   ◇



 意識の途絶と覚醒かくせいとを、十分の一秒ごとに切り替えるような感覚を味わったニコルが目にしたのは、記憶にある――いや、忘れようにも忘れるはずのない空間だった。

 出口・・の転移鏡から抜け出た瞬間、足の裏が奇妙すぎる、しかし知っている感触をみしめる。


 地面などなかった。ただ、存在を成立させるためだけに基準としてそこにある平面がニコルの足の裏を受け止め、落ちないように支えている――そんな法則・・だけがここにはある。

 全てが不可思議ふかしぎの空間だった。


 敵の気配を探るよりも先に、目の前で光り輝き、大きく回転しているものにニコルは心をうばわれた。見覚えがありすぎるそれを前に硬直した三秒後、最大限の警戒が必要であることを思い出して周囲を見渡す。

 幸運なことに、敵の気配はなかった。もしも臨戦態勢の待ち伏せがあれば、ここでニコルは死んでいたかも知れない。


「ここは……『結節の空間』……!?」


 半年……いや、もうそれより以前になる、ここを訪れた時の記憶が反射的によみがえった。

 自分は王都壊滅かいめつの危機を救うため、この空間に自ら志願しておもむき、この世のものではないとしか思えない敵と戦い、そしてやんでも悔やみきれない大事な人物を失った。


 その体験自体、ニコルはいまだに夢に見る。まるで記憶が、細胞に染みついてしまったかのように。


「まだ……」


 以前見たものが五十歩ほど離れた距離きょりに、その規模は縮小されているものの――確かに、生きていた。


「まだ、これが生きていたのか……」


 ――円形の魔法陣。

 目では追いきれないほどの細かい幾何学きかがく模様をびっしりと刻んだ輪が、大木の年輪のごとく何重にも重なって、それぞれに気ままな方向に回転している。


 時計の心臓部を巨大に拡大したようなその光景を目の前にし、ニコルは錯覚であろう頭痛を覚え、かすかにうめいた。


「ニコル様、これは……!」

「…………!」


 ニコルが戻ってこないのを確認したのか、フィルフィナとロシュもまた転移鏡を抜けてこの空間に現れる。ニコルが健在であることにほっと息をらした直後に、天から降る光の一切がないこの空間がなんであるかを、二人もまたさとっていた。


「ニコルお兄様、これは『結節の空間』であると推測すいそくされます」


 そのロシュの言葉におどろいたのは、フィルフィナの方だった。


「ロシュ、あなたは……」

「ニコルお兄様の記憶は、全てロシュの中にあります。この空間についての記憶も、例外ではありません」

「あ、ああ……なるほど……」


 ロシュがを進める。ゆったりとした速度で反時計回りに回転している幾何学模様たちの、最も外側のふちで止まった。


微量びりょうですが、ここにも残り香の反応はあります。あの魔法陣の中央部で、それは途切れています」

「……魔法陣の」

「中央部……」


 ニコルとフィルフィナがつぶやく――その先は。


「中央部に飛び込んだというのか……。確か、そこからは……」

「結節の空間は、人間界と魔界を繋ぐ異空間です。つまり、お嬢様は」

「魔界に連れて行かれたというわけか……」


 ニコルの脚に、震えるものがあった。

 そこがどんな世界であるか、話にも聞いたことはない。本来は行き来ができないはずの世界であるからだ。


「人間であれば、銀の腕輪を装着していれば魔界に抜けることは可能でしょう。ロシュは……生物ではありませんから、制約に捕らわれない存在ですね。無事に向こうに行くことができます。一刻の猶予ゆうよもないかも知れません。このまま三人で飛び込んで、お嬢様を――」

「いや……ここは僕とロシュで行く」

「ニコル様!?」


 その言葉の意外さに、フィルフィナが悲鳴に似た声を上げた。


「フィルはいったん王都に戻ってほしい」

「どうしてですか! 勝手の全くわからない敵地に侵入しんにゅうしようというのですよ! 三人でも戦力が不足なくらいです! ましてや二人などと!」

「だからだよ。フィルにはサフィーナ様を呼んできてほしい」


 フィルフィナの抗議こうぎの声が、止まった。


「正直、サフィーナ様を巻き込むのは気が進まない。けれど、今はサフィーナ様の力も必要だ……快傑令嬢サフィネルとしての、ね」

「ニコル様……」

「それにこんな時、サフィーナ様を仲間外れにしたら、きっと怒られると思うんだ。だからフィル……双子の鈴を貸してほしい」

「は……はい」


 いわれるがままにフィルフィナは、黒い腕輪からひとつの魔法の道具を取り出した。二つの小さな鈴が糸で結ばれているそれを、ニコルに手渡す。


「ありがとう。これでたがいのいる方向と距離がわかるはずだ。僕はロシュを頼りにリルルを追う。フィルとサフィーナ様……サフィネルは、僕たちの鈴の反応を追ってきてほしい。いいね」

「……わかりました!」


 きしむようにフィルフィナが声を上げた。本当なら、ここにサフィネルを連れて四人一丸いちがんとなり乗り込みたいところだがそれでは、追跡ついせきの目印となるリルルの残り香が消えてしまうかも知れない。


「わたしはサフィネルと共にニコル様たちを追います! ニコル様……先行なさるにしても、くれぐれも無茶だけはけてください!」

「わかってる。さあ、先を急がないと」

「フィル。ニコルお兄様はこのロシュが、ロシュの存在に代えても守ります。安心してください」

「頼みましたよ、ロシュ……!」


 いったん引き返さなければならないことは、精神的な苦痛以外の何物でもなかったが、後ろ髪を引く手の全てを振り払い、フィルフィナは後ろを向いた。その背中でニコルたちが魔法陣の中心に飛び込んでいく。


「時間との勝負になりますね、これは……!」


 今出てきたばかりの転移鏡に飛び込みながら、フィルフィナは奥歯でその思いをくだいた。

 この空間に戻ってこれるのは、何十分後になることだろうか……。

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