「結節の空間、再び」
先を急いでいるらしいダージェには顔は見られず、意識を失っていないことは気づかれていない。
尖塔から
理由はいくつかあった。
ひとつは、自分が連れ去られるわけを
魔界とエルカリナ王国。この交わりようがないと思える代表同士に、いったいどのような
もうひとつは、単純にこのダージェという少年――のように見える――のことを知りたかった。
魔界の住人などというものは、リルルにとっては物語の中だけの存在であったが、このダージェを前にすれば受け入れるしかない。彼の
そして、最後の大きな理由は、逃げ出すならば先の先の方が都合がいい、という読みがあった。王都の近くで逃げ出せば、王国関係者に見つかり、再度
『とはいえ、どこまで連れていかれるのかしら……できるだけ遠くの方が、脱出した時に行方をくらましやすいのだけれど……』
リルルが意識を保っているのにも気づかず、王都北の城壁を
ダージェが茂みを
「さて、
ダージェは笑いながら鏡の表面に手の平を当て、そのまま体の全部を
◇ ◇ ◇
それに遅れること、十分。
リルルが身につけたロケットに仕込まれた
「このフェーゲットの森に転移鏡を隠しますか。みな、考えることは同じなのかも知れませんね……」
「……って、フィルもここに鏡を隠しているのかい?」
「ええ。王都を抜けたと思わせて森の中にすーっと入り、そこからアジトに通じる鏡を」
「……それを知っていたら、リロットを
「申し訳ありません、ニコル様」
「あはは」
快傑令嬢リロットの正体がリルルであると知らず、その
「やはりこれを使用したようです。香りはこの地点で途切れています」
匂いを『目』で見ることができるロシュが、確定情報として口にした。
「転移鏡は、
「登録の書き
冷静に呟くフィルフィナが鏡の表面に手を置く。細くしなやかな指が鏡の表面に触れた
「――不特定多数を転移させているためか、誰でも使えるようになっています」
「これがどこに
ニコルは両眼をつぶった。数秒の間
腰のレイピアを抜く。フィルフィナの前に腕を伸ばして行く手を制した。
「――僕が
「わたしが先に立ちます。ニコル様は後に続いてください」
「ニコルお兄様、ロシュが先に行きます。ロシュの体は丈夫ですし――」
「ありがとう。二人の
ニコルは
ゴーダム公爵家、フォーチュネット伯爵家の隣に、真新しい輝きを放つアーダディス男爵家の徽章――快傑令嬢を
「リルルの騎士だから、僕はリルルのために危険を
「……わかりました。ニコル様、くれぐれも気をつけて……」
「二番手はロシュが行きます。ニコルお兄様、ご安心を」
「心強いね。じゃあ、行くよ――」
不安の中にも微笑みを見せて、ニコルは左腕から転移鏡に潜り込ませていった。何度そうしても
◇ ◇ ◇
意識の途絶と
地面などなかった。ただ、存在を成立させるためだけに基準としてそこにある平面がニコルの足の裏を受け止め、落ちないように支えている――そんな
全てが
敵の気配を探るよりも先に、目の前で光り輝き、大きく回転しているものにニコルは心を
幸運なことに、敵の気配はなかった。もしも臨戦態勢の待ち伏せがあれば、ここでニコルは死んでいたかも知れない。
「ここは……『結節の空間』……!?」
半年……いや、もうそれより以前になる、ここを訪れた時の記憶が反射的によみがえった。
自分は王都
その体験自体、ニコルはいまだに夢に見る。まるで記憶が、細胞に染みついてしまったかのように。
「まだ……」
以前見たものが五十歩ほど離れた
「まだ、これが生きていたのか……」
――円形の魔法陣。
目では追いきれないほどの細かい
時計の心臓部を巨大に拡大したようなその光景を目の前にし、ニコルは錯覚であろう頭痛を覚え、
「ニコル様、これは……!」
「…………!」
ニコルが戻ってこないのを確認したのか、フィルフィナとロシュもまた転移鏡を抜けてこの空間に現れる。ニコルが健在であることにほっと息を
「ニコルお兄様、これは『結節の空間』であると
そのロシュの言葉に
「ロシュ、あなたは……」
「ニコルお兄様の記憶は、全てロシュの中にあります。この空間についての記憶も、例外ではありません」
「あ、ああ……なるほど……」
ロシュが
「
「……魔法陣の」
「中央部……」
ニコルとフィルフィナが
「中央部に飛び込んだというのか……。確か、そこからは……」
「結節の空間は、人間界と魔界を繋ぐ異空間です。つまり、お嬢様は」
「魔界に連れて行かれたというわけか……」
ニコルの脚に、震えるものがあった。
そこがどんな世界であるか、話にも聞いたことはない。本来は行き来ができないはずの世界であるからだ。
「人間であれば、銀の腕輪を装着していれば魔界に抜けることは可能でしょう。ロシュは……生物ではありませんから、制約に捕らわれない存在ですね。無事に向こうに行くことができます。一刻の
「いや……ここは僕とロシュで行く」
「ニコル様!?」
その言葉の意外さに、フィルフィナが悲鳴に似た声を上げた。
「フィルはいったん王都に戻ってほしい」
「どうしてですか! 勝手の全くわからない敵地に
「だからだよ。フィルにはサフィーナ様を呼んできてほしい」
フィルフィナの
「正直、サフィーナ様を巻き込むのは気が進まない。けれど、今はサフィーナ様の力も必要だ……快傑令嬢サフィネルとしての、ね」
「ニコル様……」
「それにこんな時、サフィーナ様を仲間外れにしたら、きっと怒られると思うんだ。だからフィル……双子の鈴を貸してほしい」
「は……はい」
いわれるがままにフィルフィナは、黒い腕輪からひとつの魔法の道具を取り出した。二つの小さな鈴が糸で結ばれているそれを、ニコルに手渡す。
「ありがとう。これで
「……わかりました!」
「わたしはサフィネルと共にニコル様たちを追います! ニコル様……先行なさるにしても、くれぐれも無茶だけは
「わかってる。さあ、先を急がないと」
「フィル。ニコルお兄様はこのロシュが、ロシュの存在に代えても守ります。安心してください」
「頼みましたよ、ロシュ……!」
いったん引き返さなければならないことは、精神的な苦痛以外の何物でもなかったが、後ろ髪を引く手の全てを振り払い、フィルフィナは後ろを向いた。その背中でニコルたちが魔法陣の中心に飛び込んでいく。
「時間との勝負になりますね、これは……!」
今出てきたばかりの転移鏡に飛び込みながら、フィルフィナは奥歯でその思いを
この空間に戻ってこれるのは、何十分後になることだろうか……。
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