「島への招かれざるお客様」
ニコルはフィルフィナとロシュを
まだ住民は少ない集落なのに、風に乗って流れてくる声は活気があり、弾んでいる。そのほとんどが農作業や漁で男たちが出払う間、家を守る女のものだった。
「今日もみんな元気そうだ」
「あのお
「フィルもあの中に加わればいいのに」
「……女たちの世間話は苦手です。誰の顔がいいとか、あの家はどうだとかこうだとか、くだらないことばかり話題に……」
「あははは」
声が聞こえてくるのは家々の真ん中あたりからだ。地面に
それを邪魔しないようにニコルは少し
「領主さまぁ――!」
その黄色い一言に女たちの手と口がぴたりと止まり、瞬時にしてニコルは複数の視線の
「みなさん、おはようございます。お洗濯がんばってくださいね」
「領主様、ちょっと寄っていってくださいよ! 少しぐらいお話してもいいじゃない!」
そのままニコルは通り過ぎようとしたが、犬の耳をつけた主婦がタライの中に洗濯物を投げ込んで走り出し、ニコルが乗る馬の進路を体で
「領主様もお洗濯物があるでしょう!? ついでに洗いますから、どうぞ出してくださいな!」
「悪いよ。自分のものは自分で洗うようにしつけられているんだ。みなさんは、ご家族の洗濯物をがんばってもらえれば……」
「そんな、いいの、いいんです! うちの馬鹿亭主の下着なんか本人に洗わせておけば!」
「ちょっとあんたなによ! 自分だけ領主様とお話しして!」
抜け駆けは許さんとばかりに他の亜人の女性たちもそれに続く。あっという間に洗濯場から誰もいなくなったその
「あたしたち、こんな明るくて気持ちのいい島で暮らせて本当に感謝してるの! なのに領主様はこっちが申し訳なくなるくらい優しいし! さあさあ領主様、早く出して出して!」
「い、今洗濯してほしいものはないんだ。今度お願いしようかな……」
「こらあんた、領主様の邪魔をしちゃいけないじゃないの。早く離れなさいよ」
ニコルの服を引っ張っていた犬耳の主婦を、猫耳の主婦が引き
「下着でもいいですからね! ご
「なにが下着でもいいです、よ。あんたは下着の方がいいんでしょ。まったく
「さあ、みなさんお仕事に
「はぁ~~い!」
ようやく解放してくれた十数人の主婦たちが笑顔で手を振るのに笑顔で応え、ニコルはロシュが
「ああ、びっくりした」
「……ニコル様、彼女たちとの距離感はくれぐれも気をつけた方がいいですよ」
フィルフィナは今日一番の
「ニコル様にその気はなくとも、周囲というのはどんな
「そうなのかな。僕にはよくわからないや」
「はぁ……」
フィルフィナは深く息を
集落の中を一行はゆっくりと進む。集落では最も大きい平屋の建物から、はしゃぐような数十人ほどの子供たちの声が聞こえてくる、それに混じり、若い女性の落ち着いた声も耳に届いた。
「――今日は学校の時間でしたか。文字を教えているのでしょうか」
「エヴァが教師役をしてくれて本当によかった。学校がないとやっぱりダメだよね」
やや年長の子供たち、人間も亜人も関係なく面倒を見てくれるエヴァに感謝しながらニコルは集落を抜けた。
この先は領主の館になってしまった丸太屋敷がある。ニコルの住居と政庁を兼ねる、この島唯一の公的機関のようなものだ。
その丸太屋敷に続く方向から、騎士の
「よう、我が
男の方、ラシェットがこれ以上はないという上機嫌さで片腕を上げた。もう片方は女性の方――アリーシャの両腕に固く抱きしめられている。
「ラシェット先輩、アリーシャ先輩、これから王都に向けて出航ですか」
「ああ、収穫物は全部船に積み込み終わったからな。これから行ってくるぜ。三日は留守にすると思うから、留守番は頼むな」
「ニコル、あたしたち騎士二人が両方いなくなると色々不都合だろうけれど」
ラシェットの腕をつかまえて放さないアリーシャが、本当に幸せそうな笑顔でいった。
「いえ、
「ああ、そんなの気にしなくていいからいいから! じゃあ行ってくる! 食料もたっぷり買ってくるから期待していてくれ!」
二人の騎士は上機嫌で笑い合いながら、船着き場まで連れ
「ラシェット先輩とアリーシャ先輩、本当に仲良くなったなぁ。半月前まではギスギスするくらい仲が悪かったのに、なんかいきなりくっついちゃった。前に二人で船でおつかいに行ってもらってから、あんな感じなんだ」
「……本当、なんなんでしょうね。わたしにもわけがわからないですよ」
自分の言葉を少しも信じていないフィルフィナが、前を見ながら
「ああ……あの二人が戻ってきたら、言っておいてくれませんか。船の船長室の寝台、
「どうして? 主婦のみんなに洗ってもらえばいいんじゃないの?」
「自分たちで洗わせた方がいいです。どうせ、洗うのは
「フィル?」
ニコルの反応にフィルフィナが応えぬまま、そのまま一行は分かれ道に到達した。まっすぐ進めば、
島民の誰もが近づこうとはしない山だった。そもそも登れるような形をしていないし、自分たちの理解を超えたわけのわからない機械は、そちらの方向からやってくるのだ。危害を加えられる気配はないから特に問題にはされていなかったが、かといって自分たちから触れたいとも思わないようだった。
右に進めば領主の館にたどり着く。フィルフィナは三歩ニコルたちから離れ、ぺこりと頭を下げた。
「わたしは事務がありますので、ここで失礼します。ニコル様、お気をつけて」
「大丈夫だよ、ロシュがいるから。フィル、色々と面倒なことをさせてすまないね」
「これが
林の中に通る道をメイド服姿の少女が歩いて行く。ニコルはその背中を見送ってから、前を向いた。
「ロシュ、行こうか。見回りのついでにフェレスさんに
「ニコルお兄様、ロシュは
ニコルの馬の
「いいんだよ、ロシュ。僕もフェレスさんに会いたいんだ。遠慮することはないよ。あの塔はロシュにとって実家みたいなものだろう」
「ありがとうございます、ニコルお兄様。ニコルお兄様はなかなかご実家には……」
「領主って
馬は進む。木々が生えている領域を抜け、浜辺が前方に
「まあ、それでも時間を作って母さんたちに顔を見せるよ。母さんや
ニコルがそこで、言葉を切った。
胸に空いた穴に渦を巻いて吹き込んで来るかのような、異様な気配に大きな
ニコルの感覚も鋭いが、異界の技術に支えられたロシュの感覚は、それの
「――ニコルお兄様、なにかが接近しています。
「ああ……
顔の陰を深めさせたニコルが、馬から降りる間もなかった。
ニコルを遠巻きに囲むように
さらに五十歩ほど離れた正面、ニコルの進路を塞ぐように、縦に長い真っ青な炎が現れた。
「どうやら、この島初めてのお客様のようだね……」
ニコルが腰の剣に手をやると、同時に五つの炎はそれぞれに弾け飛ぶ。燃え上がっていた影の柱は、見る見るうちに人の姿を取り始めた。
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