「離れていても、家族」

 部屋の真ん中にまぼろしとして浮かぶリルルが、ふる、と体を震わせた。のどにかかってきた言葉が詰まったように一度、音にもならないほどに小さくあえいだ。


『フィル……私もさびしい……あなたと同じように、ひょっとしたら、それ以上に……』

「ああ……」


 フィルフィナの手が小さくびた。かすかにうつむいたリルルの姿に、泣きそうな目を向けて。


『今すぐ、フィルに会いたい。フィルと話をして、フィルに甘えたい、フィルにしかられたい……ここではいつまで寝ていても、誰にも怒ってもらえないのよ……』

「お嬢様……リ、リルルお嬢様……」


 その幻像げんぞうを抱きしめ、抱きしめていることを伝えられたらいいのに。このリルルは昨夜のもの――今のリルルがどうしているかは、わからない。どんな気持ちでいるかは、わからない。

 フィルフィナは今すぐ、今この瞬間にでも、全ての抵抗ていこう退しりぞけ、リルルの元に飛んでいきたくなった。


『――でも、今はその時じゃないのよ、フィル』


 リルルが、指で目頭めがしらぬぐい、涙のつぶを払った。


『今、私は本当に閉じ込められているわ。リロットになればこんなところ、すぐにでもけ出せる。――それができるかどうかバレているのかはわからないけど、くぎを差されたの。逃げ出したりしたら、私の親しい人に害がおよぶって。しばりつけるためのおどしだと思うけど、今は迂闊うかつに動けない……』

「親しい人……」


 フィルフィナの背中の肌が、冷風れいふう粟立あわだった。


『今はここを出られない。……でもね、フィル。私はここを出ることを、あきらめはしていないのよ』

「お嬢様……?」


 コトの重さにつぶされるようにうつむき加減になっていたフィルフィナが、その言葉に顔を上げた。

 リルルの顔をおおっていた微かなかげりは今、消えている。少女の明るく強い眼差まなざしの光が、幻の少女であってもそこに見えた。


『私は、好機チャンスを待つわ』


 ――好機。


『私の思い込みかも知れないけれど、予感がする。きっと大きな、大変なことが起こるって。今までの常識がひっくり返るくらいのことが起きるって。それはいつになるかわからない。明日かも明後日かも、それとも百年後かもわからない。でも私は自分の予感を信じる。そのために今は待つの』

「…………」

『フィル。あなたはその時に備えていて。私には、後ろから見守ってくれる相棒が必要なの。それはフィル――あなたにしかできないことなのよ』


 幻のリルルが、微笑んでいた。


「お嬢様……リルルお嬢様…………リルル…………」


 フィルフィナにはわかる。リルルの微笑みにわずかな、フィルフィナでなければわからないような震え、きしみがあることを。無理をしている、という気配を読み取れる。


 それがフィルフィナの心をつらぬき、しんにまで差し込んできた。自分が寂しいことを押さえ込んででも、リルルははげまそうとしてくれている。

 今、いちばんつらく苦しいのは、いうまでもなく、狭い尖塔せんとうに閉じ込められて孤立しているリルルだ。


 そんなリルルが、自分を置いてでも励まそうとしてくれるのを、どうして無駄にできるものか。


『あなたがお父様にクビにされたって――フィル、あなた私の家族。私は、あなたといつまでも側にいてほしいから、あなたにメイドになってもらった。だから、これからもそうでいてもらわないと困るの。

 ――フィル、いつまでも側にいて。そして、私の心に寄りっていて』

「……リルル……」


 アメジスト色の瞳が熱くえ、熱く透明とうめいな涙がき出して、こぼれた。だがそれは流していて悲しくなる涙ではない。心を洗って流れてくれる涙だった。


「……わかりました。フィルは、さびしがるのをやめます。あなたを助けることができるように、準備をします。顔を上げて、あなたがそこから出られる、一瞬の好機を逃さないように……。

 フィルは、負けません。フィルが負けることが、あなたの負けになる。わたしたちはふたりでひとつ――いいえ、みんなでひとつなのです。そのためにも、負けられない……」


 そんなフィルフィナの声がまるで聞こえたかのように、記録のリルルが微笑んだ。


『――もう、これ以上は話せないみたい。お城の警戒が厳しいみたいだから……。ニコル、フィルをよろしくね。私の代わりに支えてあげて……』

「わかっているよ、リルル」


 ニコルのうなずきを見届けたように、リルルの幻は、なんの前触れもなく消えた。


「――記録はここまでです。城内の警備が厳重げんじゅうで、撤退てったいの必要がありました」


 無表情のロシュが伝えた。


「一晩中、お城を探照灯たんしょうとうが照らしていた。あんなに警戒が厳しいのは初めて見る。リルルが尖塔に入ったからだと思うのだけれど、ちょっと行き過ぎだと思うよ……なにをおそれているのかわからない」

「嵐が来る……」


 フィルフィナの呟きに、ニコルが振り向いた。


「メージェ島からの帰りの船の中、嵐が来る、と母はいっていました。それが具体的になんなのかは全く教えられていないのですが、符合ふごうするものを感じます。母はなにかを知っていて、それを明かすことができないのか」

「嵐が来る……」


 ぞくり、とニコルが体を震わせた。

 この異変は、メージェ島から帰ってきた直後に起こっている。とすれば、フィルフィナの母――ウィルウィナはある程度のことまで知っていてそんな言葉を残したのか。そして彼女自身も、これから起こることの全貌ぜんぼうを知らないのか。


「……ともあれ、今は待つしかできません。わたしたちにはなにかが起こった時のための後背地こうはいちも必要です。今王都で異変が起これば、後退する地がありません……エルフの里もあることにはありますが、色々と不都合があります。ニコル様のお話は、その後背地をきずくのにうってつけでしょう」


 フィルフィナがハンカチでひとつ涙を拭うと、その瞳に揺れはなくなっていた。頼もしささえ感じさせる落ち着いた眼差しが、そこにあった。


「ニコル様、このフィルフィナがニコル様の領地経営に協力させていただきます。いくつか試案しあんがあります――まずはその検討から参りましょう」

「そろそろお話は終わったかしら?」


 ノックなしで部屋の扉が開いた。地味な町娘らしい服装に着替え、それでも公爵令嬢らしい高貴な雰囲気ふんいきを消せないサフィーナが微笑んでいた。


「落ち着いたようね。今夜は私の屋敷で泊まるがいいでしょう。打ち合わせしたいこともあるわ」

「サフィーナ……。ご心配をかけたようで、申し訳ありません」

「いいのよ。リルルと離れ離れになってもぐらつかないフィルより、よっぽど好き」

「ありがとう……サフィーナ。……ニコル様、わたしはこれから着替えたいと思います」

「さあ、殿方とのがたはあっち。淑女しゅくじょの着替えをのぞかないように」

「わわ、サフィーナ様」


 ニコルの両眼に手を当て、サフィーナはニコルを押し出すようにして自分も部屋から出て行った。それにロシュも続いて扉を閉めると、部屋は本当に静かになった。


「……ありがとう、ニコル様、サフィーナ、ロシュ……」


 フィルフィナは大型鞄トランクを寝台の上に載せると、それを開いた。中から、二度とそでを通すことはないと思っていた一着の服を広げ、今着ている服を脱ぎにかかった。



   ◇   ◇   ◇



「私は馬車の準備をさせていますから、終わったら下りてきてください」


 そう言い残してサフィーナは階段を下っていった。ロシュもそれに続く。

 フィルフィナの部屋の外、廊下ろうかに立つのはニコルとティーグレだけになっていた。


「ありがとう、フィルを守ってくれて。あなたがいなければどうなっていたかわからなかった」

「礼なんていいんだよ。あんたのためにやってるわけじゃねぇ。――それよりもな」


 虎の目がギロリとニコルをにらむ。チンピラならそれで腰がくだけそうなくらいの獰猛どうもうな視線にさらされても、少年男爵はすずしい表情を変えなかった。


「今ふたりっきりだからいうんだけどよ、あねさんは……なんでだか本当にわからねぇんだが、お前にれてるんだろうが。さっさと姐さんを抱いてやれよ。お前も姐さんのことを好きなんだろう」

気遣きづかってくれているのは本当にありがたいんだ。でも、僕とフィルはそういう関係じゃない。体のつながりがなくても、いいや……体の繋がりがないからこそ、固く心で繋がっているんだ。もちろん、先にわした約束がなければ僕も、とっくの昔にフィルに愛の告白をしていると思うよ」

「……よくもそんな真顔で、そんなずかしいことをいえるもんだ」

めてくれてありがとう」


 ニコルは微笑んだ。女性たちの心をわしづかみにする微笑みに、チッとティーグレが舌打ちする。

 扉が内側から開いたのは、それから一分がったくらいの頃合いだった。


「お待たせしました、ニコル様」

「……フィル」


 扉から出てきたフィルフィナの姿にニコルは瞬き、次には安らぎの笑みを浮かべた。彼女が、いつものメイド服を着ていたからだ。


「サフィーナたちを待たせているようですね。早く行きましょう。――ティーグレ、お世話になりました。このお礼は、後で必ず」

「姐さん、礼なんていいんですや。俺ぁ、姐さんが元気になってくれたのがなによりのご褒美ほうびだ。また困ったことがあればいつでもこのティーグレを頼ってくだせぇ。力になりやす」

「ありがとう、ティーグレ――あら、頭の毛にゴミがついているようですよ。かがんでください、取ってあげましょう」

「ゴミですかい?」


 反射的に虎獣人がひざを折る。フィルフィナは前屈みになって頭を下げたティーグレに微笑みかけ、ちょうどいい高さに下りてきてくれたティーグレの鼻に、ちょん、とくちびるせた。

 毛むくじゃらのはずの虎のほおが、地肌が焼けているかのように真っ赤になった。


勘違かんちがいでした。ゴミはついてなかったようです――ではティーグレ、ごきげんよう」


 フィルフィナが歩き出し、ふふと小さな笑いを残してニコルが続いて、廊下にはティーグレだけが残された。

 ティーグレが、自分は生まれてきて今最高に幸せであると気づいたのは、我に返って硬直こうちょくが解けた、三分後のことだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る