「リルルとニコルの、暗転」
港で拾った
停車した馬車の後部からフィルフィナが行李を降ろす間、リルルは
「そういえばあの門番、もうだいぶ姿を見ていない気がするんだけど……」
「
「なんていう名前だったっけ……」
「わたしも思い出せません。最初から知らなかったのかも」
「ま、いっか」
フィルフィナが押して開けた門をくぐり、一週間
「あー、やっぱり自分の家、自分の部屋がいちばん落ち着くわね!」
ソファーに飛び込むようにして体を投げ出したリルルが、クッションのひとつを抱きしめる。
「――でも、お父様にこの部屋を追い出されることになるのかも知れないわね。お父様の夢を
「……お嬢様、本気で旦那様とやり合うおつもりですか」
少しの間を置き、フィルフィナも居間に入ってきた。うつ
「本気よ。いったでしょ、ニコルと相談ずみって。……今回のメージェ島での一件、みんな無事にすんだからよかったけれど、
クッションに
「お父様には本当に悪いと思うけれど、私たちだって私たちなりに幸せになる権利がある。あのお父様の
「お嬢様……」
「――ね、フィルはどうする? この屋敷で働いてお父様からお給料をもらう? それとも私たちについてくる? でも、私たちについてきてもお給料は出せないわよ。警備騎士のお給料ってそんなによくないんだって。――その前に、ニコルも警備騎士を
考えれば考えるほど問題は積み上がっていく。しかしそれも、今のリルルにはさほど大きなものではない。乗り越えようという意志があれば、高い山も案外低く思えるものなのかも知れない。
「どこでもいいわ。
「お嬢様は、働く必要なんてありません!」
突然爆発したような声に、リルルがソファーの上で体を弾ませた。
「お嬢様は家でぬくぬくとして笑っていればいいんです! お金なんて、フィルがなんとでも
「……フィル?」
耳元で爆発するように響いたフィルフィナの声に、リルルは目を開けた。涙ぐんだ顔を見せるフィルフィナが、息のかかる
「フィルも、お嬢様のお側にいられればそれでいいのです。お忘れですか、初めてこの屋敷に来た時にお嬢様がいわれたことを……。わたしは、まだ自分の命の十分の一も働いて返してはいません。まだあと九十年は、お嬢様にお仕えしなければならないのです! 給料なんて、自分で自分に払います!」
「なにそれ、おかしいわね……ふふ」
「お嬢様はニコル様と結婚して、たくさんお子様を作ることに専念してください! 生まれたお子様はわたしがお世話させていただきます! お嬢様はもう、十分に戦われたじゃないですか……」
「やだ、私まだ十六歳よ。でも、ニコルと結婚したら快傑令嬢も辞めなきゃいけないかもね。どうしよう……ロシュちゃんに二代目を
「お嬢様、真面目に聞いてください……」
「真面目に聞いてるわ。――フィル、あなた本当に疲れてるんじゃない? 早く寝た方がいいわ」
「ですが、まだわたしにはやることがたくさん……」
「いいの、いいの。私が代わりにやるから。フィル、取りあえずお茶にするわ。ここで座っていて待っていて」
「いいえ! それくらいはメイドの
「フィル、そんなにパタパタしなくてもいいの、よ……と」
身を起こしたリルルの声が終わるよりも早く、
「フィルったら、なんか沈んでるのか空回りしてるのかよくわからないなぁ……。私だってお父様と対決するのは気重なんだから、こういう時にフィルが私をしっかり支えないでどうするの」
「お茶でも飲んで体を温めて、夕食はふたりでどこかに食べに出かけて……ゆっくりお風呂に入ってたっぷり寝れば、元に戻るでしょ。お父様との対決は……明日以降ね……いつ帰って来るかわからないし、こっちから乗り込んでいかないと話にならなさそう……」
首の後ろ辺りに生まれた眠気が頭の中に入ってきて、ふわあ、とリルルにあくびをさせた。リルル自身も激闘の
「出発前に暴れたから、留守中に事件はなかったけれど、しばらく起こらないでくれるかな……もう体が、もたない……」
再びクッションに顔を
「すぅ……すぅ…………すぅ…………」
それでも、少なくない戦いの中で
「誰……?」
「――リルル、リルル!!」
扉と壁越しの廊下から足音が、声が聞こえてくる。それがログトのものであるということを、
「リルル、リルルは帰っているか!」
続いて
「おお――リルル、いてくれたか! よかった、よかった!」
「よくないわよ。ノックぐらいしてよ、お父様。年頃の娘の部屋なのよ」
「いいんだ、いいんだそんなことは! リルル、やったぞ! ついにやったぞ!」
満面の笑みというのを絵に描けばこうだろうかとばかりに輝かしい、晴れ晴れとした笑顔のログトが歌うようにいった。そのあまりもの上機嫌さにリルルは一瞬首を
「お父様、また
「そうだそうだ! それもとびっきりの縁談なんだ! リルル――お前は本当に幸せ者だ! そしてこの私もな!」
「もう、お父様のおかげで私は不幸になってるのよ。はぁぁぁ…………ま、いいわ」
いまさらこの
「それで、お相手は? 聞くだけ聞いてあげる。最後の縁談の相手が誰かっていうのは、記念に覚えておきたいし。また分厚い資料があるんでしょう?」
「いや、資料なんてないぞ。資料なんて
「――はぁ?」
「これだけいってもまだわからんか? ははは、お前も
ログトが、その相手の名を、いった。
ガシャン!!
リルルたちが振り向くと、足元にお茶の用意をぶちまけたフィルフィナが扉の側で立っていた。
「――旦那様、今、お相手の名をなんと
「……お、お父様。私もよく聞こえなかったわ」
「ははは、お前たちも耳が遠いわけじゃあるまいに。いいぞいいぞ、いくらでもいってやろう。私もな、いくらでもこのことをいいたい気分なんだ。お相手の名はな――」
ログトが、その名を
「――――――――」
その音が耳を打ち、脳に入り込んだ二人の少女の心が、瞬く間に、闇の中に飲み込まれていった。
◇ ◇ ◇
自宅の寝台でうとうととしていたニコルは、天井から響いてくる、屋根の向こう側を
「ニコルお兄様、
「――リルルだって? 屋根の上に?」
一瞬で
「――大丈夫だよ、入ってきていい」
「ニコル!」
天井の向こう側から突然降ってきたリルルの姿、それを予想はしていたが、
「リルル! どうしてそんな格好で。まだ陽も落ちていないのに危ないじゃないか。いや……もしかしたら、ただ事ではない事件でも起こったのかい? それなら――」
「
取り乱している、というよりも
「リルル、落ち着いて。落ち着かないとわからないよ。それに、あまり大声を出してもダメだ。外に人がいるかも知れない――」
「落ち着いて……落ち着いてなんていられないわ……! どうしてこんなことになっちゃったのか、私、もうわからなくて……!! なんで……なんでこんな時なのよ! ようやく二人で決心できたところなのに……なんで、どうして、なんで……!!」
「リルル、結論からいうんだ。聞くから。いったいどうしたんだい?」
「私、私、わたし、わたし――」
リルルが
「――わたし、
「――――――――」
ニコルの意識が閉ざされ、波打ち
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