「リルルとニコルの、暗転」

 港で拾った辻馬車つじばしゃ行李スーツケースせ、自らも乗り込んだリルルとフィルフィナは、ゆっくりと時間をかけて大運河の向こうの平民の住宅地、その真ん中に位置する自分たちの屋敷に到着した。


 停車した馬車の後部からフィルフィナが行李を降ろす間、リルルは施錠せじょうされた門を開けようと鍵を取り出す。


「そういえばあの門番、もうだいぶ姿を見ていない気がするんだけど……」

旦那だんな様が解雇クビにしたんじゃないんですか?」


 のぼっている間、年がら年中門の近くでうたた寝をしていた初老の門番の顔をリルルは思い出した――が。


「なんていう名前だったっけ……」

「わたしも思い出せません。最初から知らなかったのかも」

「ま、いっか」


 フィルフィナが押して開けた門をくぐり、一週間留守るすにしていた我が屋敷にリルルは入った。フィルフィナもそれに続き、空気を入れえるために屋敷の窓という窓を開けていく。


「あー、やっぱり自分の家、自分の部屋がいちばん落ち着くわね!」


 ソファーに飛び込むようにして体を投げ出したリルルが、クッションのひとつを抱きしめる。


「――でも、お父様にこの部屋を追い出されることになるのかも知れないわね。お父様の夢をあきらめさせてニコルと結婚したいなんていったら、きっとカンカンでしょうね……覚悟しなくちゃ……」

「……お嬢様、本気で旦那様とやり合うおつもりですか」


 少しの間を置き、フィルフィナも居間に入ってきた。うつせになって身を横たえているリルルの対面に座り込む。


「本気よ。いったでしょ、ニコルと相談ずみって。……今回のメージェ島での一件、みんな無事にすんだからよかったけれど、あやうくニコルもあなたも失うところだったもの。後悔はしたくないわ……」


 クッションにほおをぎゅっと押し当て、リルルは目をつぶった。


「お父様には本当に悪いと思うけれど、私たちだって私たちなりに幸せになる権利がある。あのお父様の気性きしょうじゃ、絶対にゆるしてくれないわね。追い出されたらどうしようか……ニコルとどこかに部屋でも借りようかしら。それとも小さな一軒家いっけんやの方がいいのかなぁ」

「お嬢様……」

「――ね、フィルはどうする? この屋敷で働いてお父様からお給料をもらう? それとも私たちについてくる? でも、私たちについてきてもお給料は出せないわよ。警備騎士のお給料ってそんなによくないんだって。――その前に、ニコルも警備騎士をめないといけなくなるかも」


 考えれば考えるほど問題は積み上がっていく。しかしそれも、今のリルルにはさほど大きなものではない。乗り越えようという意志があれば、高い山も案外低く思えるものなのかも知れない。


「どこでもいいわ。田舎いなかに引っ越してもいい。二人で働けばどうとでも食べていけるでしょう。私、ニコルと一緒であれば貧乏でもいいの。ニコルはロシュちゃんを連れてくるのかな――ねぇ、フィル」

「お嬢様は、働く必要なんてありません!」


 突然爆発したような声に、リルルがソファーの上で体を弾ませた。


「お嬢様は家でぬくぬくとして笑っていればいいんです! お金なんて、フィルがなんとでも都合つごうします! ですから……ですからお嬢様、わたしも置いてください!」

「……フィル?」


 耳元で爆発するように響いたフィルフィナの声に、リルルは目を開けた。涙ぐんだ顔を見せるフィルフィナが、息のかかる距離きょりに身を寄せていた。


「フィルも、お嬢様のお側にいられればそれでいいのです。お忘れですか、初めてこの屋敷に来た時にお嬢様がいわれたことを……。わたしは、まだ自分の命の十分の一も働いて返してはいません。まだあと九十年は、お嬢様にお仕えしなければならないのです! 給料なんて、自分で自分に払います!」

「なにそれ、おかしいわね……ふふ」

「お嬢様はニコル様と結婚して、たくさんお子様を作ることに専念してください! 生まれたお子様はわたしがお世話させていただきます! お嬢様はもう、十分に戦われたじゃないですか……」

「やだ、私まだ十六歳よ。でも、ニコルと結婚したら快傑令嬢も辞めなきゃいけないかもね。どうしよう……ロシュちゃんに二代目をいでもらおうかな? あの子、私よりもよっぼど強いし」

「お嬢様、真面目に聞いてください……」

「真面目に聞いてるわ。――フィル、あなた本当に疲れてるんじゃない? 早く寝た方がいいわ」

「ですが、まだわたしにはやることがたくさん……」

「いいの、いいの。私が代わりにやるから。フィル、取りあえずお茶にするわ。ここで座っていて待っていて」

「いいえ! それくらいはメイドのつとめです! わたしが用意します……あっ、お茶菓子ちゃがしを切らしていたんでした、すぐに買ってきます! 少しお待ちください!」

「フィル、そんなにパタパタしなくてもいいの、よ……と」


 身を起こしたリルルの声が終わるよりも早く、け足のフィルフィナが部屋を出て行った。彼女が巻いた風の名残を感じながら、リルルは軽く息をいて再びソファーに身を投げ出す。


「フィルったら、なんか沈んでるのか空回りしてるのかよくわからないなぁ……。私だってお父様と対決するのは気重なんだから、こういう時にフィルが私をしっかり支えないでどうするの」


 鋼鉄はがねのような心を持っていると見せながら、たまにもろい所をさらけ出してしまうのがフィルフィナという少女だというのもわかっている。だが、今のフィルフィナは別人のような頼りなさだ。


「お茶でも飲んで体を温めて、夕食はふたりでどこかに食べに出かけて……ゆっくりお風呂に入ってたっぷり寝れば、元に戻るでしょ。お父様との対決は……明日以降ね……いつ帰って来るかわからないし、こっちから乗り込んでいかないと話にならなさそう……」


 首の後ろ辺りに生まれた眠気が頭の中に入ってきて、ふわあ、とリルルにあくびをさせた。リルル自身も激闘の余韻よいんがまだ体に響いている。百二十階の塔を百階ほど戦いながら上がったのだ。骨に染みこんだ疲労が全て抜けきるのに、もう何日かの静養が必要なのかも知れない。


「出発前に暴れたから、留守中に事件はなかったけれど、しばらく起こらないでくれるかな……もう体が、もたない……」


 再びクッションに顔をめる。寝台まで体を持っていく気力もなく、リルルは数分とせずに意識が小さな睡魔すいまおそわれ――やがて、静かな寝息を立てて浅い眠りにおちいった。


「すぅ……すぅ…………すぅ…………」


 覚醒かくせい睡眠すいみん狭間はざまを数分ごとに揺れ移るような、眠りと呼ぶにあたいするかどうか、あやしい状態。


 それでも、少なくない戦いの中でつちかった力なのか、玄関の扉をバン! と乱暴に開けて立てられた音に、リルルの耳が、かんが反応していた。


「誰……?」

「――リルル、リルル!!」


 扉と壁越しの廊下から足音が、声が聞こえてくる。それがログトのものであるということを、にぶく渦巻く思考のうねりがかろうじて知覚していた。


「リルル、リルルは帰っているか!」


 続いて容赦ようしゃなく居間いまの部屋の扉が開けられる。案の定、ログトが床を踏み抜きそうな勢いの足取りで部屋に入り込んできた。


「おお――リルル、いてくれたか! よかった、よかった!」

「よくないわよ。ノックぐらいしてよ、お父様。年頃の娘の部屋なのよ」

「いいんだ、いいんだそんなことは! リルル、やったぞ! ついにやったぞ!」


 満面の笑みというのを絵に描けばこうだろうかとばかりに輝かしい、晴れ晴れとした笑顔のログトが歌うようにいった。そのあまりもの上機嫌さにリルルは一瞬首をかしげ、次には気づいた。


「お父様、また縁談えんだんを持ってきたのね……」

「そうだそうだ! それもとびっきりの縁談なんだ! リルル――お前は本当に幸せ者だ! そしてこの私もな!」

「もう、お父様のおかげで私は不幸になってるのよ。はぁぁぁ…………ま、いいわ」


 いまさらこの頃合ころあいでどんな話を持ってきても無意味なことだ、と心を決めてリルルは体を起こした。それに、父親といえど滅多めったに家に寄りつかない父が自分から来てくれたのは都合がいい。フィルフィナの援護えんごがあれば、なお心強かったが。


「それで、お相手は? 聞くだけ聞いてあげる。最後の縁談の相手が誰かっていうのは、記念に覚えておきたいし。また分厚い資料があるんでしょう?」

「いや、資料なんてないぞ。資料なんてらない相手だ」

「――はぁ?」

「これだけいってもまだわからんか? ははは、お前もさっしがにぶい娘だな。ま、いい。リルル――聞いておどろけよ! お相手の名はな――」


 ログトが、その相手の名を、いった。


 ガシャン!!


 絶妙せっみょうな間を置いて、金属が打ち付けられ、陶器とうきくだける音が鳴り響く。

 リルルたちが振り向くと、足元にお茶の用意をぶちまけたフィルフィナが扉の側で立っていた。


「――旦那様、今、お相手の名をなんとおっしゃいました……」

「……お、お父様。私もよく聞こえなかったわ」

「ははは、お前たちも耳が遠いわけじゃあるまいに。いいぞいいぞ、いくらでもいってやろう。私もな、いくらでもこのことをいいたい気分なんだ。お相手の名はな――」


 ログトが、その名をり返し、口にした。


「――――――――」


 その音が耳を打ち、脳に入り込んだ二人の少女の心が、瞬く間に、闇の中に飲み込まれていった。



   ◇   ◇   ◇



 自宅の寝台でうとうととしていたニコルは、天井から響いてくる、屋根の向こう側をたたいている音に気づいて体を起こした。物書き机の椅子の上で人形のように座るロシュが、上も向かずに口を開く。


「ニコルお兄様、直上ちょくじょうに生命反応を感知しました。リルルお姉様のものと判断します」

「――リルルだって? 屋根の上に?」


 一瞬で覚醒かくせいしたニコルの意識が状況じょうきょうさっする。自室の扉を開け、母と祖母そぼが出かけて留守にしているのを確かめ、壁際に身を寄せた。


「――大丈夫だよ、入ってきていい」

「ニコル!」


 天井の向こう側から突然降ってきたリルルの姿、それを予想はしていたが、おどろきのうめきをニコルは殺せなかった。黒い腕輪が持つ一瞬の透過とうか能力、それを使って部屋の中に直接下りてきたのは――やはり、快傑令嬢リロットの薄桃色のドレスをまとったリルルだったからだ。


「リルル! どうしてそんな格好で。まだ陽も落ちていないのに危ないじゃないか。いや……もしかしたら、ただ事ではない事件でも起こったのかい? それなら――」

ちがう、事件じゃない、でも大変なの! だから一分、一秒でも早くニコルに伝えなきゃって!」


 取り乱している、というよりも半狂乱はんきょうらんに近いリルルがさけぶ。幼児がメチャクチャにいじるあやつり人形のように、落ち着きの欠片かけらすらない動きで、自分をまるで制御できていないとしか見えない。アイスブルーの目からこぼれる涙の粒があたりにき散らされる様に、ニコルはなか圧倒あっとうされた。


「リルル、落ち着いて。落ち着かないとわからないよ。それに、あまり大声を出してもダメだ。外に人がいるかも知れない――」

「落ち着いて……落ち着いてなんていられないわ……! どうしてこんなことになっちゃったのか、私、もうわからなくて……!! なんで……なんでこんな時なのよ! ようやく二人で決心できたところなのに……なんで、どうして、なんで……!!」

「リルル、結論からいうんだ。聞くから。いったいどうしたんだい?」

「私、私、わたし、わたし――」


 リルルがあえいだ。腹の底から押し上げ、のどから出すにはあまりにも大きく、重すぎる言葉、それに耐えて耐えきって、リルルは自分の胸を張り裂けさせているものの正体を、暴露ばくろした。


「――わたし、国王陛下・・・・婚約こんやくすることになっちゃったのよぉっ!!」

「――――――――」


 ニコルの意識が閉ざされ、波打ちぎわしおが引いていくように、目の前が急速に真っ暗になった。

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