「あなたは、私。私は、あなた」

 ――九十五階。

 その階層の中央、この塔の中心軸となって上下をつらぬ昇降機エレベータの扉のすぐ前で、サフィーナは――全く、動けなくなっていた。


 この階層の敵はあらかた殲滅せんめつした。そこかしこにくだけ、割られた機械の部品が散乱さんらんしている。この階層だけで一体、何十体の機械の敵を破壊したことだろうか。何十人もの子供がそれぞれに持ち寄ったおもちゃ箱を、全てひっくり返したような光景だった。


 そんな中、リルルは、あらく息をくサフィーナのひたいにハンカチを当てていた。


「サフィーナ……。顔色が本当によくないわ……」

「リルル……」


 帽子ぼうしがされ、らされたハンカチで額を冷やされるサフィーナは、心が砕けたかのような色の目で天井をあおいでいた。


「無茶し過ぎよ……。私の前に立って、盾になってるみたいに力を振るい続けるんだから。あと二十三階を突破しないといけないのよ。力の配分に、もっと気をつけなくっちゃ……私よりも、あなたが注意するべきことで――」

「……気をつけたわ……」


 リルルに目を向けることさえも億劫おっくうなのか。サフィーナの視線は天井を見つめたままだった。


「気をつけたから、こうなってるの……」

「サフィーナ……?」

「……リルル、私はもう、水もらない…………」


 ふたを開けた水筒すいとうを渡そうとしたリルルを、サフィーナが重そうに上げた手でせいした。


「私の持っているもの、使えるものをみんな渡す……持っていって……」

「持っていって、って……」

「……私は、ここに残るわ」


 リルルの瞳が、音を立てるのではないかという勢いで収縮した。


「……これも預けるわ」

「サフィーナ!!」


 サフィーナが左の手首・・・・から、自分たちが身につけているものの中で最も貴重きちょうなものを外した。それを差し出された時、リルルは心臓が止まるのではないかと思った――それは、自分の心臓を相手にささげようとしているに等しい行為かも知れなかったのだ。


「銀の腕輪を外すなんて、正気なの!? これがなくっちゃ私たちはあの蜘蛛クモモドキにも勝てないのよ!?」

「――リルル、私は正気よ」


 ことん、と銀の腕輪がサフィーナの手からこぼれ、床に転がされた。


「これは、エルフの王族に伝わる大切な秘宝ひほうでしょう……。これをなくしたりしたら、世界の損失よ。それこそ、私の命なんかではつぐないきれないわ……。だからリルル、あなたが責任を持って、エルフのみなさんに返すの」

「サフィーナ、あなた……」


 サフィーナは一度だけ長くまばたきし、言葉を選び定めてから、いった。


「私は、あなたの力を温存するためにがんばった。ここからあと、二十三階。――足手まといの私を切り捨てれば、あなた一人で突破できる……。リルル、すぐに、行きなさい。もう、時間がないのよ……」

「あ、あなたをこんな所に見捨てて、一人で行けるわけがないじゃない! 敵が一体出てきただけで死んでしまうに決まっているわ!」

「いいのよ、それで……」


 ふぅぅ、とサフィーナの口から息がれた。大きく胸を上下させて息をするだけで精一杯で、投げ出した腕も脚も、何もかもが動かせない。


「――どのみち、私にはもう、大して思い残すことがないのよ……。ニコルと結ばれて、あなたが幸せになる……いえ、ちがうか……あなたと結ばれて、ニコルが幸せになる、その願いしか……」


 サフィーナの目は、揺れなかった。


「私の願いはもう、それだけ。望みのない恋を追うのも、疲れた。ふふ……あきらめたといっても、まだ未練みれんがましく、あなたたちにくっついて、ニコルの前をちょろちょろ……。快傑令嬢になりたいというのも、半分は、そうすればニコルともっと会えるかもと思ったからか……ふ、ふふふ、ふふ……なんてあさましい私……」

「サフィーナ……!」

「いいの……」


 サフィーナが、目を閉じた。


「私は、最初から死ぬのは覚悟していた。……ニコルを幸せにできるのはリルル、あなただけなのよ……。だから……行って。私も、満足よ……少しでも、ニコルに近い所で死ねるもの……」


 少女のまぶたが閉じられ、しぼり出された涙が一線ひとすじさびしげな微笑みが浮かんだほおを転がり落ちていった。


「これで、いいの。これで正しいの……だから、リルル、一刻も早く……」

「――あなた」


 床に置かれた銀の腕輪を、リルルの手がつかんだ。


「リルル……?」


 ――つかんで、それをそっと、サフィーナの手にせた。


「あなた、間違まちがってる」


 サフィーナが、ゆっくりと視線を下げた。エメラルドグリーンの瞳を開くと、アイスブルーの瞳に鋭い光を宿したリルルの眼差まなざしがまっすぐに向けられていた。


「あなたがニコルのために死んで、それでニコルが幸せになれるなんて、本当に思ってるの?」

「でも、私には……もう、できることなんか……」

「そんなことをしても、ニコルは喜んだりなんかしない。一生あなたのことを想って、二度と微笑わらえないくらいに引きずるわ。そんなの、あなたもわかっていることでしょう……?」


 リルルはサフィーナの左手首に銀の腕輪をめ、彼女の左脇の下に自分の肩を潜り込ませた。

 

「私が、あなたを連れて行く。あなたを抱えて上がるくらい、できるわ。今の私は力持ちだもの」

「リルル……!」

「どうしてニコルが私を選び、あなたを選ばなかったのか、その違いは知っているでしょう?」

「ち、違い……」


 そのリルルの問いかけを受けて、サフィーナは思い出していた。

 冬が終わり、春に差し掛かった日の夜、自領であるゴーダム公爵領を離れるため、ニコルが最後の挨拶あいさつに顔を見せた時のことを。

 あの時、ニコルはいっていた。

 自分が何故、この地を離れるのか、その理由わけを。


「…………あなたとの約束の方が、先だった、から……」


 サフィーナは、ニコルが語った時に見せた眼差しを忘れてはいない。それはサフィーナにとって、金色の髪を持つ少年に重なる恋をした瞬間だったから。


「私とあなたの差は、それだけなのよ」


 紫陽花あじさいいろ色の帽子ぼうしをつかみ、相手の息の色がわかるほどに顔を寄せている少女に、リルルは語りかけた。


「もしも、あなたが先にニコルと約束していたら、ニコルはあなたを選んで、決して揺らぎはしないわ。その時は、私があなたをうらやましく思ったでしょう――だから、こうなのよ。


 あなたは、私。私はあなたなの。


 ――私が、自分であるあなたを置いていくはずがないじゃない。

 私は、私を連れて行くわ」


 リルルは、微笑ほほえんだ。

 その微笑みを目の前にして、サフィーナの決意がもろくもくずれ去った。

 そして、同時に思う――これが、リルルの強さなのだと。


「リルル……」

「もしも、そのために失敗したとしても、みんなは許してくれる……あなたを見捨てたりなんかしたらそれこそ、みんなは私を許さないでしょうね。それに、あなたがいないと、ニコルは幸せになれないのよ」


 リルルの言葉のひとつひとつが、サフィーナの胸にみた――かわいた大地に降る慈雨じうのように。


「……あなたがニコルを好きでいるのと同じくらい、ニコルもあなたを大事に想っているのだもの」

「…………」

「サフィーナ、がんばって。私はあなたを見捨てない。だからあなたも、自分を見捨てないで――」

『おやおや、感動の場面だねぇ』


 天井からどこか間延まのびした声が響いた。数時間ぶりに聞こえて来たその声に、リルルとサフィーナが反射的に上を向いている。


『ふたりの恋する少女がひとりの男の子をめぐっての、実にうるわしい友情だね。思わずほろりとさせられたよ、ボクは』

「――聞き耳を立てるとか、それはあんまりに不躾ぶしつけじゃないかしら、フェレスさん!? 私たちはあなたを楽しませるために、歯を食いしばっているんじゃないのよ!」

『まあまあ、そんなに怒らないでほしいなぁ、リルル嬢。愛らしいお嬢さんは怒るより、笑顔の方がお似合いだ。それにそんな顔をしていたら、今からそちらに行くニコルくんの千年の恋が冷めてしまうかも知れないよ』

「――ニコルが!? こっちに!?」

『ここまでたどり着いたご褒美ほうびだ。また一分だけニコルくんの姿を見せてあげるよ――ふふふ、なかなか興奮できると思うよ、今のあられもない・・・・・・・・ニコルくんの姿は』

『嫌です! やめてください! ――こんな格好を、リルルたちに見られたくない!!』


 ニコルの声、というより悲鳴が被さり、それにリルルたちの背筋がねた。


「ニコル!? ニコルがそこにいるの!?」

『いるよ。ニコルくんは今、昇降機にいるんだ。キミたちが昇降機の真ん前にいるのはとても都合がいい。今、ニコルくんをそこまで降ろしてあげるからね――おっと、持ち帰りはできないんだけれど』

『やめて、やめてください! 昇降機を動かしたら、僕は舌をみます! それでもいいんですかぁっ!!』

『できないことを口にするのはよくないね、ニコルくん。キミはなんとしてでもご令嬢の元に戻らなきゃいけないんだろう。それをたかがそんな恥ずかしい・・・・・・・・格好をさせられているくらいで自害じがいするとかは、本当に馬鹿らしいよ。もっと命を大切にしたまえ』

「こ、『こんな』!? 『恥ずかしい』格好って!?」


 異口同音いくどうおんに口走った二人の少女の頭の中で、百通りの想像が一瞬で浮かんでは消えて行った。


『お願いします! 僕の服を返してください! せ――せめて、せめて僕の下着だけでも・・・・・・!!』

「ええぇぇぇぇぇぇぇっ!?」


 リルルとサフィーナの顔が一瞬で赤熱し、ぼふっと水蒸気をいた。


「ニコル! 今、あなたはなにをされているの!? ま、まさか――!!」

『嫌だ! 答えたくない! この昇降機を動かすのだけは! それだけはやめてください――!!』

『ダメダメだねぇ、拒否きょひするよ。では、リルル嬢サフィーナ嬢、お待たせした。今、昇降機を下げるからね。ニコルくんの美しい姿をたっぷりねっとりと観賞かんしょうしてあげたまえ。もう、とてもとてもお気にいると思うからね――では行くか、ポチッとなと』

『うわぁぁぁ――――――――!!』


 ニコルの細くびる悲鳴が引かれ、昇降機の所在を示す光点が右端から左に動き始めた――百十九階から九十五階までは十秒とかからないだろう。

 二人の少女が完全に目を釘付くぎづけにしている前で、チーンという軽いかねの音が鳴り響く。


 そして――少年の哀願あいがんを無情にも無視し、昇降機の扉は、左右に開かれた。

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