「フォーチュネット伯爵誘拐事件」(その三)

 西の空に夕日がゆっくりと沈んでいく。

 全てのものに長くあわ陰影いんえいきざませていたオレンジ色の光が消え失せ、大運河に面した河川敷かせんじきは、うすい暗闇の静謐せいひつの中に閉ざされた。


 堤防の下に立ちくすふたりの男の頭上をまたぐようにけられた大鉄橋は、その輪郭りんかくを無数のランプで浮かび上がらせ、せまい周囲に肉眼でかろうじてものを見ることができる最低限の光を投げかけていた。


 人気ひとけの絶えた河川敷。男たちは待っていた。


「そろそろだ」

「ああ」


 待ち合わせ場所は、フォーチュネット伯爵邸最寄りの大鉄橋の下。時刻は夕日が沈んだ直後。

 全ては誘拐したフォーチュネット伯爵の屋敷に文書で伝えてある。

 相手に主人を助ける意思があるのなら、もうすぐ来るはずだった。


「来たな」


 高い堤防の上に、ひょっこりと浮かぶように現れた小さな人影をふたりの男は見逃さなかった。それは本当に影のようにしか見えなかったが、形で背の低いメイド服姿の女性だということは見当がついた。全て指示通りだ。


 堤防のいちばん上に立った人影は少しきょろきょろと辺りを見回し、大鉄橋の下に人がいるらしい気配を認め、とてとてとけ下りてくる。足取りからして完全に子供だった。これも指示通りだ。


「あの……」

「伯爵令嬢の使いのメイドだな」

「は、は、はいっ」


 やけに髪の量が多い少女だ。大鉄橋から届く明かりでようやく表情がわかるが、今にも涙があふれ出しそうな泣き顔で、大きな箱を胸に抱えている。


「わ、わ、わたし、フィルフィナと申します、フォーチュネット伯爵のお屋敷で働かせていただいているメイドですっ。だ……旦那様だんなさまは、旦那様はご無事なんでしょうかっ!?」


 遠いランプの光を受けてその涙目がきらきらと光っていた。もう死んだ、と冗談のひとつでもいってやれば、その場で火がついたように泣き出しかねないほどの涙の貯水量だ。


「心配するな。大人しくいうことを聞いてるから大事にされてるさ。身代金みのしろきんの受け渡しが終わったら、綺麗な体で返してやる」

「別にけがしたくもねぇしな」

「これは、お嬢様から預かっている返書です。どうぞこの場でお読みください」

「おい、あかり」

「へいへい」


 男たちは足元に置いていたランプにともし、メイドの少女が差し出した封書から手紙を取り出してそれを広げた。


「――明日、この時刻に身代金の受け渡しに同意する、か。嬢ちゃんよかったな。あんたの大事な旦那様は無事に帰ってきそうだぞ」

「なんだ? この、『酒を渡してほしい』っていうのは」

「これです」


 メイドの少女は抱えている箱のふたを開けた。その下から現れた一本のびん、それに貼られた鮮やかなラベルに男たちが思わず喜色を浮かべる。


「おいおい、えらい高級なウイスキーじゃねぇかよ」

「こんなもん、大型百貨店デパートの奥でしか売ってないもんだぜ」


 自分たちが普段飲んでいる安酒なら軽く百本は買えるだろうそのウイスキーを前にして、ふたりの頭から理性が飛びそうになる。わざわざ専用の小さなグラスがえられ、瓶には一つの輪で結びつけられている、金色と銀色に輝く二つの小さな鈴がかざりのように取り付けられていた。


「お願いです。旦那様はこのお酒を大変好みにしてらっしゃいます。今、旦那様は大変心細い心境でいらっしゃると思います。せめて一口、一口だけでもこれを飲ませてあげてください。お願いします」

「……そんな、心細いなんていう風でもなかったけどな」

「むしろ図々しいほどだった。――ま、いいか」


 この返書は頭目に渡して読ませないといけないし、その中に酒のことも書かれているのならば、自分たちで喉の奥に隠滅いんめつしてしまうわけにもいかない。回して飲んでお裾分すそわけがあるのを期待しながら、男のひとりがメイドから箱を受け取った。


「嬢ちゃん、お前はここからまっすぐ、いちばん近い道で屋敷に帰れ。俺たちの仲間がお前を遠くから監視している。途中、乾物屋かんぶつやに寄ることも許さんからな。――お前がここまで来るのも全部を監視されていたことに気づいていたか?」

「ひゃ、ひゃいっ」

「投げ込んだ指示書にも書いてるが、屋敷も俺たちが見張ってる。屋敷に入る人間はいても、出る人間がいたら人質は殺す。例外は、金を工面くめんしに行くお嬢様だけだ」

「そのお嬢様にだってぴったり監視がつく。警察に知らせたのがわかっても人質は死ぬ――念を押していたとお嬢様に伝えておけ」

「わ、わたしたちは、旦那様に傷ひとつ負わせることなく、その身を戻していただければ結構です! どうかよろしくお願いします!!」


 腰を直角以上に折って頭を下げるメイドの少女を前にして、男たちは薄く笑った。


「じゃあ、早く帰れ。途中で警官に出くわさないことを祈ってろよ」

「は、は、はいっ」


 メイドの少女はスカートの裾をひるがえし、とてとてと子供っぽい足取りで戻っていった。


「――どうやら、素直に応じるようだな」

「俺は頭目のところにこれを渡しに行く。お前は屋敷の監視に戻ってくれ」

「まっすぐ向かうなよ。反対側の城門から外に出るんだ」

「わかってるよ……馬でも時間かかるな、ちくしょう」


 男たちはすぐに別れ、それぞれの行動に移った。物事は敏速びんそくに処理しなければならない。



   ◇   ◇   ◇



「上手くいきました」


 戻って来たフィルフィナの報告は簡潔かんけつだった。


「あと数時間もすれば、旦那様のいらっしゃる場所が確定されます」

「そこを今晩のうちに夜襲やしゅうね」

「はい」


 きっと、明日におがめる二十億エルの札束の山のことを夢見ながら眠るのだろう。素敵な一夜になるにちがいない。


「だいたい馬鹿なんですよ。十億エルの札束さつたばとか、重さは百カロクラムになるんです。二十億なら二百カロクラム。お嬢様四人分の重さじゃないですか。お嬢様ひとりでどうやって運ぶんです。根本こんぽんの計画性のなさにあきれますね……勢いでいってるだけでしょう」

「だから付け込むすきがあるんじゃない。ありがたいことだわ」

「わたしとしては少し物足りません――二時間はこのまま屋敷で静かにしておきましょう。時間になったら、アジトの方に移ります」


 誘拐団の一味は四方からこの屋敷を監視し、人の出入りをしばっているつもりだろう。しかしそんなものは、リルルの部屋に設置してある転移鏡てんいかがみを使えば、全く意味のないものなのだ。

 それを思うとリルルは、寒空さむぞらの元で寝ずの番をする誘拐団たちに、少々申し訳ない気持ちになった。



   ◇   ◇   ◇



 フォーチュネット邸との接触に成功し、要求に対する返書を受け取った頭目はその内容に目を通し、笑いを浮かべた。自分たちの運命が記されているその内容を一刻いっこくも早く知りたいのか、伐採所跡ばっさいじょあとを利用した誘拐団根拠地こんきょちに詰める手下達の全員が、頭目を取り囲んでいた。


「よし、要求を飲んだな。屋敷を仕切ってるのは、まだ二十歳にもならない小娘だ。ちぢみ上がってこちらのいうことは何でも聞くだろう」

「少し調べてきたんですが、あの屋敷に出入りしているのは子供みたいなメイド一人だけらしいですよ」

「ますますいいことじゃねぇか。監視が楽だってもんだ。娘が会社の方と連絡した形跡もないんだよな」

「ええ。あの親父をさらってから、屋敷を出入りしたのはあのメイドが夕暮れに一度っきり。奇妙なくらい静かですね」

「会社も親父が失踪しっそうしたくらいに考えているんだろう。いい感じだ」


 手下がメイドから渡され持ち帰ってきた高級ウイスキーが、頭目の機嫌をますますよくしていた。少しずつなら二十人に回しても全員に行き渡るくらいはある。勝負の明日に向けて士気を高めるには絶好のご褒美ほうびだろう。


「あとは明日、金を作るために外に出る娘が下手な真似をしないかどうかしっかり見張ることだ。わかってるな――俺たちにはもう後がねぇんだ。この親父の身代金で全員で遊んで暮らす、最後の好機チャンスってやつだ、わかってるな!」


 へい、と声がそろう。全員の気持ちがひとつになった瞬間だった。前途には希望しか見えないのだ。


「よーし、持ち込んだ酒と合わせて宴会えんかいと行くか。たっぷり飲んでたっぷり寝ろ――明後日には俺たち全員、ゼニでうずまってるぜ」


 心配するな、お前らにも飲ませてやるから――頭目は欠けた歯をき出すようにして笑った。部下にいい目を見せてやるのが、優れた頭目というものなのだ。



   ◇   ◇   ◇



「――フィルはこう仕掛けてきたか」


 牢代ろうがわりの小屋の前で騒いでいる誘拐団たちを格子越しに見ながら、壁にぴったりと背をつけたログトは口の中でつぶやいた。リルルが全て要求を飲み、いわれるがままに身代金を払うかのように見えているが、高級ウイスキーを土産みやげえてきたというのがひとつの合図だった。


 予想通りウイスキーはログトの方には回ってこなかった。それについてはむしろ助かった。そもそもログトは全くの下戸だった・・・・・のだから。


 昼間にここに連れて来られてから食事も出されていない。コップに満たされた水が持ってこられたのが唯一ゆいいつ与えられたものだが、ログトはそれで喉の奥を湿らせるだけにしていた。腹の減り具合で時刻の見当をつける――今は午後十時を少し回ったくらいのはずだ。


 フィルフィナが行動を起こすなら今夜のうち、連中が油断しきっている今しかない。

 十年も付き合ってその気質きしつを知りくしているメイドの思考の延長線をにらみ、ログトはうなだれたふりをしながらわずかに体を動かし、全身の筋肉をほぐしていた。


 今の今まで反抗的な態度を見せなかったために、腕のいましめさえされていない。


「――さて」


 ログトが上半身の背面を張り付けている壁が、不自然な音を立てたのはそんな時だった。


 こん、こっ。こんこんこん、こっ、こん――。


「――――」


 本当に軽く壁を叩いている振動がログトの肩甲骨けんこうこつに響き、その一定の調子がログトのあごかすかに上げさせた。


こん、こっ。こんこんこん、こっ、こん。こん、こっ、こんこん。こんこっこん、こっ。こん、こっ、こん、こっ、こっ。こん、こっ。


 それが三回、全く同じ調子でり返される。薄い壁一枚向こうに人の気配をうっすらと感じ、ログトは口の中で声にならない音を刻んだ。


「助けに来た、か……」


 さりげなく手を壁の方に回し、右中指第二関節で軽く壁をたたく。

 叩かれたのと、似たような調子で。


 こんこん、こっ。こんこん。こっ、こっ、こん。こっ、こん、こっこっ。こっ、こん。


「――了解、と……」

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