「エルフメイド・フィルフィナの華麗な一日」(午後)
午後一時半を少し回った頃、フィルフィナは王都西部の
「ご苦労様です」
小柄なメイド服、印象に残りやすいふわふわした髪型の少女が一礼したのを見て、一瞬とがめようと身を乗り出した警備員はそのまま元の位置に着いた。商品の
一般客の立ち入りが制限されている領域、倉庫と事務室が入り混じる裏方に入り、勝手知ったる場所というようにフィルフィナはそのまま気軽に階段を四階まで上っていく。扉一枚向こうは広大な売り場という階、迷わずにフィルフィナは
「
事務所の扉を開けた途端、両手にハンカチを
「こんにち……」
「ア・ラーキン先生!」
事務所に入ろうとしたフィルフィナは、そのとことん事務服姿が似合う男の突進を受けてそのまま
「遅いやないですか! もう来られへんと思って、心配してましたんです!」
「でも、まだ予定の二時には二十分ほどは――」
「こういう
他の人間からはあまり聞き
「五時には終わらさんといかんのです! 先生には今から始めてもらいます! そうせんと二百冊を
「二百冊?」
少女のアメジスト色の瞳が一瞬、
「百冊の予定じゃなかったのですか?」
「開店からお客さんが
「――――」
フィルフィナは体の背面全部に寒気を覚えた。これから二百人と殺し合いをするという方がマシに思えた。一度に百人なら同じ対応を何度かしたことがあるが、その
そもそもがんばれば、というが、実際にがんばるのはフィルフィナひとりのはずだった。
「……本当に二百人も並んでいるのですか?」
「ほんなら、自分の目で確かめてください!」
フィルフィナは、背中にしていた売り場に
「――――」
横二列、縦には――いったい何列いるのかわからない
その全てが今から一人一人自分が応対しなければいけない相手だということに、
「さ、ささ! ア・ラーキン先生! 早く着替えて着替えて!」
男がひとつの
――こうして、本日発売の『ちびっこ騎士・ニコニコと魔法の剣』の作者
◇ ◇ ◇
「ア・ラーキン先生! 握手、おねがいしまーす!」
もうこれで何十人目か数えるのも
「――おや、あなたはいつぞやの……」
「はい! この前の
見覚えのある少女だった。フィルフィナが持つもう一つの顔――物語作家『ア・ラーキン先生』として
十秒間握りしめられた手が解放され、目の前に買ったばかりと思しき本が音を立てて置かれる。
「今度は可愛いお子様騎士のお話なんですね! 続刊の予定はあるんですか!?」
「ええ、好評なら続きを書かせてもらおうかと――」
元気と夢しか持っていない可愛い金髪の騎士が、行く先々で敵味方問わず、様々なお姉さんから可愛がられながら冒険するという物語だ。
迫る締め切りに苦しみながら、思いつきで走り書きした本がこんなに売れるのかと思ってフィルフィナは
「じゃあ、絶対続きが出ますね! 楽しみ! がんばってください!」
「あ、ありがとう――」
半分気力で握ったペンでフィルフィナは差し出された本の裏表紙いっぱいに署名をする。書籍売り場の担当責任者である事務服姿の男が少女を手で
「ア・ラーキン先生! 握手をお願いします!」
「は――あ、ありがとう――」
薄れかけた意識を奮い立たせ、フィルフィナは顔を
自分がいつからここにいるのか、いつまでここにいればいいのか、全てが
いつかは、この無限に続く行いにも終わりがあるのだと信じて。
◇ ◇ ◇
三時間あまりの激闘を終え、二百の手に握手し二百冊の新刊に署名をしまくったフィルフィナは、ボタンも止められるかどうか怪しい手でメイド服に着替え、足取りもおぼつかなく夕方の繁華街に出ていた。
「ふう……」
今日、こなさなければならない用事はなにか――絶望感を抱えながら半分ぼやけた頭で記憶を掘り返し、全ての用事が終わっていたことに気づいてまたも大きな息が
「あとは……帰るだけですか……」
サフィーナと遊びに出かけているリルルは、きっと夕食も一緒にするに
客車の中は大勢がこの場所で降車したために、
疲れた。
エルフの里で王女をしていた時もそれなりの気苦労はあったが、人間の街というのはそれとは比べものにならなかった。リルルの世話、リルルにまつわる人々との交流、際限なく広がり続ける面倒な関わり合い――それは楽しいものも多分にあったが、心を
この街でまともでないことを無事にこなそうとすれば、とにかく金がかかる。リルルが行っている快傑令嬢としての活動にも金はかかる。情報は情報屋から買わねばならないし、闇市場から仕入れる武器弾薬爆薬の量だって相当であるし、そういうものは
最初にリルルが快傑令嬢リロットとして起つ、と決心してから一年が
しかし、それがこの王都に生きる人々を救っていることは確かなことだ。
物事は始まれば、いつかは終わる。
快傑令嬢リロット――リルルの最後の戦いがどのようなものになるか、それはまだフィルフィナには見通せない。今のフィルフィナにできることがあるとすれば、この戦いを最後のものにしないこと――そう祈るだけだった。
大通りの交差点で列車が停車し、大勢の客が降りて前から新しい客が乗ってくる。まだここは自分の降りる駅ではない。隣に座っていた客も降り、フィルフィナは
――また、
「フィル」
「ああ……わたし、今日は疲れているんですよ……。見逃してあげますから、今日は
「フィルってば」
「なんですか、
「そのニコルだよ」
フィルフィナは目を開けた。思考が
「――ニコル様……」
「こんにちは、フィル。いや、もうこんばんは、かな。ちょっと疲れてるみたいだね……フィル?」
フィルフィナは少年の少し濃い水色の瞳を見つめた。
その美しい色の中で、涙を一筋流している自分の顔があった。
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