「その三」

「だいぶ、せたみたいね……」

「ふふ」


 公爵令嬢と呼ばれていた時はふっくらしていたわけではないが、それでも痩せ細っているという印象もなかった。少女の生気を支える肉感は確かにあった。が、そこそこ大きかったはずの胸が、真っ先に一回りは小さくなっている。腕もそれと同じ印象があった。


「――確かに経営は、お金は苦しいわ。こうして慈善じぜんのご寄付に頼るのがほとんどですもの。わたしが働きに出る余裕なんてあるはずがない。わたしも一食を抜くなんてしょっちゅうよ。そうしなければ子供達に食べさせてあげられないわ」

「もう少し寄付金を増やすわ。苦しいなら苦しいといって……遠慮えんりょしなくてもいいんだから……」

「いいえ」


 エヴァは首を横に振る。微笑ほほえみを残しながら。


「遠慮しなくてはならないの。わたしがあなたと親しい仲だからといって、特別扱いしてもらうわけにはいかない……。あなたのおうちは、他の孤児院にもたくさん寄付をしているのでしょう。今でギリギリのはずだと思うわ」

「…………」


 父の影響で数字には多少強いリルルは、エヴァの言葉を否定することはできなかった。寄付を納めて回って聖女扱いされることはあるが、結局はそれは自分でかせいだ金ではない。全て父が、父が経営する会社が、会社で働く従業員たちが汗水垂らしてもうけたものだ。


 利益を得るためには原資が必要で、今持っている資産の全てを寄付してしまえば、フォーチュネットの家はそれで終わってしまう。


 エヴァは、胸の前で手を組んだ。自分の心を相手の心にそのまま写すかのように、まっすぐな視線をリルルに向けた。

 かつて学校で侮蔑ぶべつの視線を、戦場で憎しみの目を見せた少女の瞳のにごりは、最早もはや、どこにもなかった。


「あなたがわたしのことを気にかけてくれるのは、本当にありがたいの。わたしは、あなたのことを本当の親友だと思っているわ……」

「……私もよ、エヴァ。私、いうほど友達は多くない。数少ない友達の一人よ、あなたは」

「…………ありがとう……」


 少女たちの目が横に向けられる。なんとかその形を保っている教会。台風のひとつでもくればバラバラに分解して飛んでいく、そういわれても納得してしまえるほどのオンボロ教会だ。


「――わたしがこの教会に流れ着いたのは、運が良かったのか悪かったのか。下働き同然の修道女を集めていると聞いて、住み込んだはいいのだけれど……」

「それが、暴力団同然の偽教会だったとか……ね」


 肩を並べるようにして立つ二人の少女は、言葉を交わすまでもなく、同時に同じ場面シーンの記憶を再生していた。

 それは、ひとつの季節が巡る前の記憶だった。



   ◇   ◇   ◇



 快傑令嬢リロット――リルルの剣が、エヴァレーの首を目がけ、まっすぐに剣を振り落とされた。

 風が切り裂かれ、彼女エヴァレーの背中と肩から流れていた金色の長い髪が、まるで付け毛ウイッグが外れたかのようにして落ちた。


「…………え?」


 その光景を張り詰めていた目で見ていたフィルフィナとスィルスィナが、小揺るぎもせずに口を真一文字に結び、唇をんで全てから目をそむけていたサフィーナが、自分がおそれていたものが展開されていないことに気づいて――視線を前に戻した。


 エヴァレーの首に、リルルの剣は振り下ろされていた。

 首の脛骨けいこつで盛り上がった皮膚がやいばに触れ、剣はそこで止まっていた。

 ――血は、出ていなかった。


「――どうしたの」


 両手を胸の前で組み、両の目をつむって全てを受け入れようとしていたエヴァレーが、目を閉じたままでくちびるを動かした。

 首にぶつかってきた衝撃は骨に響くほどあったが、手品かなにかのように、肌には傷のひとつもついてはいなかった。


「どうしたの。わたくしの首はまだ、落ちてはいないわよ……」

「エヴァレーは死んだわ」

「――――――――」


 エヴァレーの目が、開いた。


「エヴァレーは死んだわ! 今、私が殺した!」

「リルル、貴女あなたはなにを……」

「聞きなさい!」


 リルルが剣を投げ捨てる。派手な金属音が響く。汚れるのもかまわずエヴァレーの正面でそのひざを着き、リルルは揺れる瞳を定まらせることができない少女の肩を、つかむようにして抱いた。


「エヴァレーは今、私がった! もう死んだの!」


 リルルの目の中で輝くアイスブルーの瞳が、燃えるような光をたたえている。全てのものを溶かしてしまう熱量を思わせるその青さに正面から見据みすえられる少女は、自分という存在がその光の前にかき消されるのではないかと思った。


「ここにいるあなたは、エヴァレーなんかじゃない! あなたは今、別の人間に生まれ変わったのよ!」

「リ……ルル……」


 口を動かしてその名を呼ぼうと思うが、上手く音にならない。視界にはその少女の顔しか入らないほどの間合いしかない。

 声が、息が、肌が焼けるくらいの熱を帯びてエヴァレーであった少女に浴びせかけられた。


「あなた、私に斬られる前に何を祈ったの!? 生まれ変わりたいと願ったのではないの!? そうでしょう!?」

「……それは……」

「なら、今、自分の意志で生まれ変わるのよ! 死んだら生まれ変われるなんて、おとぎ話だわ! 人間は、生きてる間でしか生まれ変われないのよ!!」


 指が、爪が食い込むのではないかというくらいに強くつかまれた肩が揺さぶられる。その揺さぶりの中でエヴァレーだった少女は、浴びせられた言葉を意識の中で無限に反響させた。


「私は、ふたりの大事な人の死を見てきた……忘れられないし、忘れたくないふたりの死よ……」

「ふたり……?」


 それは誰だ。

 目の前のこの少女リルルは、誰のことを語ろうとしているのだ。


「私たちと同じ、貴族のふたり。そのうちのひとりは私たちと同じ、親に生きる道の何もかも決められてうんざりしている人だった。生きることに意味を見出みいだせない人だった」


 リルルの心の中でひとりの人物が再生される。少女の心の中で今も生きている、その人。


「……いい人だった。自分よりも他人のことを気にかけられて、おおらかで優しくて……。そんな人が、やっと生き甲斐がいを見つけられた。これから自由に生きていこう、そう思えるようになったその矢先に、その人は死んでしまったわ。私の盾になって、その命をしげもなく投げ出してくれた……」


 丸っこい体、丸っこい顔、丸っこい笑みが心の中に浮かぶ。手元に残ってるその人の写真は、かろうじて一枚だけだ。しかし、リルルは思い出せる。本当に短い間ではあったが共に過ごした時間、本当に少しだけのものだったが交わした全ての言葉を思い出せる。


 それは今も心の中で、かすかにも色せはしていない。


「もうひとりは、家の歴史に、運命に翻弄ほんろうされた人だった。世界に憎しみの全てを向けてその力を振るったけれど、最後にはあやまちに気づいた、い改めてくれた。助かるただひとつの手段を敵であるはずの私にたくして死んだ。つぐないたかったはずなのに、生きることができなかった……」


 白髪はくはつの少年が最後に向けてくれた面影おもかげもまた、よみがえった。彼は泣いていたと思う。罪をつぐなうことから逃げてしまう自分を許してくれといっていた。

 ――リルルは許した。許す以外のなにができたろう。


「そのふたりは、生きたかったのに、生きられなかった……」


 リルルの頬を、涙が伝った。


 望みをたくして腕の中で息を引き取ったコナス。リルルを逃し『竜』に残って、ちるそれと運命を共にしたカデル。そのふたりの死は、少女の心の形を変えてしまうくらいの傷をのこした。それは決してえはしない。歩くたびに、その傷のうずきを覚えながら生きていくことになるのだろう。


「――あなたは、まだ生きられる。それにあなたは、生まれ変わってでもしたいことがあるのではなかったの……」

「したいこと……?」


 放心の中で少女はつぶやく。


わたくしに、生まれ変わってでも、したいこと……」


 絶望の末に破滅はめつを選んだ自分に、そんなことがあっただろうか。

 ――いや。


「ああ……」


 あった。

 ねたみと憎しみによどみきった心の自分が触れた、清浄せいじょうなもの。

 とうといもの。


わたくしわたし・・・……ニコルに、謝りたい……」


 少女の目が、涙のすじを引いた。透明のしずくが目の端からこぼれ落ち、頬を伝って、あごから落ちた。


「彼に、すまなかったと……ごめんなさいと、わたしの口から伝えたい……」


 許されなくても、いい。

 謝りたい。その気持ちを伝えたい。


「なら、そうするのよ! あなたには今、それができるんだから!」


 瞳を熱い涙にうるませたリルルが、もうなにものでもなくなった少女を、その腕にかき抱いた。胸に血が移るのもかまわず背中に手を回し、自分の内側に取り込んでしまうかのように少女の全てを抱きしめた。

 開きかけた胸の傷の痛みさえ忘れて、少女はその強い抱擁ほうようを受けた。


「あ……ああ、ああ……」


 ――体から、感覚の全部が抜けていく感じがする。体の中の力が溶けた氷のように消えて行く。

 それをめるように、新しい力が反対側から注がれてくる。全身の細胞が一度全て死に絶え、その全てが新たによみがえる。


 今まで抱えていたうらみもこだわりも、その全てが消えて行く。

 心が、たましいが洗われていく。


「――リルル、わたし、生まれ変われる……いいえ、生まれ変わった気がするわ……」


 おずおずと、少女の手がリルルの背に回る。

 誰かと抱き合う、誰かを抱き寄せる――今までにしたことのない、しようとしたこともないその行為を、リルルの背中はこばままなかった。


「お願い、生きて。死なないで、生きて……」

「リルル……!」


 頬をくっつけ合ったふたり、その頬と頬の間をそれぞれの涙が流れ込み、合流し、溶け合い、洗う。今まで裏表になっていたふたりが今、一人として合わさったような錯覚さえ覚えさせた。


「――リルル。私、今まで思いちがいをしていたわ……」

「……サフィーナ」


 呆然ぼうぜんとしたサフィーナの呟きにフィルフィナが振り返る。サフィーナのエメラルドグリーンの瞳もまた熱く濡れて、きせぬ涙を心からみ上げ。その頬に流していた。


「快傑令嬢の力は、あなたが与えたエルフの魔法の道具によるものだと思ってたわ。でも、そんなものは、手助け程度のものなのよ。快傑令嬢の本当の強さは、リルルの心の強さから来ているのね……」

「――わたしも、そう思います」


 声を押し殺して泣くふたりのドレスの少女の姿、それがアメジスト色の瞳の中でも濡れて揺れていた。自分は涙を流さない女と思っていた十年前以前、その認識が全く馬鹿らしいものであるとフィルフィナはまたここで認識させられていた。


「……ですから、わたしはリルルを信じるのです。そして、裏切られたことはありません。十年間一緒にい続けて、一度として」

「私も、リルルに負けないようにしないとね……」

「ええ……」


 今、続いていたひとつの戦いはここに、本当の意味において、終わった。

 その意味をそれぞれにみしめながら、この場にいる少女たちは今一度涙の味を各々おのおのの記憶の中に埋め込んでいく。


 それは、初夏の気配が忍び寄る、ある晴れた日のことだった。

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