第04話「剣舞は王都で荒れ狂う」

「退路、断たれる」

 エヴァレーは朝のお茶を楽しんでいた。

 テーブルの上にはお茶のセットと焼き菓子、その脇には一冊の本が広げられている――書名タイトルは『はじめての地学』。明らかに低年齢向けの、文章もやさしく絵もたくさん入った入門書だ。


 学者が所蔵するような専門書をなんなく読破どくはするエヴァレーにとって、それは絵本のようなものだったが、少女は楽しく読んでいた。

 楽しくないはずがない。それは幼いエヴァレーが図書館で触れた、最初の地学に関する本だったからだ。


 それほど厚くない一冊、ページをでるように手を触れ、目を通し終わり、もう一冊を本棚から運んでくる。

 次は分厚い本だった。先ほどの本の十冊分を軽く超える厚さだ。


 『地質学原理』。

 それも、エヴァレーにとっては特別な一冊だった。

 なにせこの本を買いたくて祖父に初めてのおねだりをし、それに折檻せっかんで応えられたのだから。


 祖父が死んだ後、この本を堂々と買えた時の喜びは、よく覚えている。世界がひらけたような気さえした。


 もう何百回目を通したかわからないその一冊を、不本意ながらもながめるだけで次々にページをめくっていく。

 もう時間がない。この調子でも最後までは読めないだろう。

 頭に馴染なじんだ情報を振り返る時間は楽しかったが、残念だった――それが、もう最後であることが。


 壁時計が重い音を響かせた。あおぎ見ると時計は時刻の八時を指し示していて、エヴァレーはふう、と深い息をいた。


「――時間か……」


 心残りを覚えながら本を閉る。パタン、とさびしい音が鳴った。

 エヴァレーは椅子いすから立ち、壁の一面を占拠せんきょしている本棚の前に移動した。


 蔵書ぞうしょは、寝室のものを含めれば三千冊を軽く超えるはずだ。稀少本きしょうほんも多い。この本棚にしか入っていないものさえ数冊ある。

 それだけにしかった。


「ごめんなさいね……」


 図書館に寄贈きぞうしようかとも考えたが、これほどの量の本を運ばせれば家の者に気取けどられるし、なにより自分の覚悟が揺らぐ――コトが終わればまた読める、では、帰る場所を残すのと同じだ。


 それに、きっと――その図書館まで無事ではすまなくなることになるのだから。


「まさか、わたくしが祖父と同じことをするなんて……。あなたたちには罪はないのにね……。でも、仕方がないの。……わたくしの覚悟が揺らぐから」


 意を決した。本棚をつかみ、乱暴に前に揺らす。大きなせきが溜め込んでいた水を一斉にき出すように、すさまじい本の雪崩なだれが起こった。千数百冊の本が一斉に投げ出され、開き、床に山を築く。

 そしてエヴァレーは、想い出の二冊をその山の頂上に置いた。


「く…………」


 載せた瞬間に、心が刺すように痛んだ。


 部屋のすみに置いていた、一抱ひとかかえはあるびんふたを開き、粘性ねんせいの高い液体を本の山へと慎重しんちょうに振りかける。自分の着ている服に飛沫ひまつもかからないように、細心の注意を払って、だ。

 部屋の中が途端とたんに、揮発きはつ性の高い刺激臭に包まれた。


 エヴァレーはバルコニーに出た。手首の黒い腕輪から拳銃を取り出すとそれを片手で構え、銃口を部屋の中に築かれた本の山に向ける。

 引き金に、細い指をそっと、えた。


「……もしも、わたくしが生まれ変わることができたら、あなたたちの兄弟に会いたいわ。その時は、あなたたちだけを読んで暮らせるようになりたい――それしか考えずに、生きられるように」


 人差し指に力を込める。その引き金は、とてつもなく重かった。


「許して」


 涙の気配に重なって銃声がとどろいた瞬間、エヴァレーの居間いまは、空間の全てを満たす炎のうずに包まれた。

 またたく間に、少女の夢と希望をんだものが炭化していく。燃え上がる炎が家具や建物に引火し、光も通さないほどの濃密のうみつな黒煙を窓からあふれ出させた時には、この部屋の主の姿はなかった。



   ◇   ◇   ◇



 ザージャス公爵邸は、母屋おもやから出火した荒れくるうような炎による延焼をはばみようもなく、防壁をねている周囲の居住区にまで、炎の太くあかく長い腕を広げていた。

 屋敷に詰めている使用人や騎士たちがあわてふためき、なんとしても焼かれることが許されない貴重品を抱えて門を飛び出して行く。


 それが沈む船から逃げ出すというネズミの群れに見えて、隣の邸宅の尖塔せんとうの上で真っ赤なドレスを強い風に吹かれて立つエヴァレーは、思わず笑ってしまった。

 自分が住み慣れた屋敷が猛炎に包まれているのにも関わらず、滑稽こっけいだった。可笑おかしさしかなかった。


「おい、おけという桶に水をませておけ! それと、今のうちに面している外壁に、水をかけておくんだ!」

「通りが炎を阻んでくれると思いたいが、飛び火もある! 全員を見張りに立たせろ! なんとしても燃え移るのは阻止そしするんだ!」


 エヴァレーの足の下で、隣家りんかが炎上しているのをの当たりにし、その目を釘付けにされている者たちが右往左往うおうさおうしている。屋根の上にその放火の下手人げしゅにんがいることに気づかないことに、エヴァレーはくすくすと小さな笑いを転がした。


「さようなら、エヴァレー・ヴィン・ザージャス……ザージャス公爵令嬢! ――もう、わたくしに帰るべき場所はないわ! わたくしはたった今から、名無しのエヴァレーよ!!」


 高層建築物が邪魔さえしなければ、王都のどこからでも観測できるほどに太い黒煙の柱が天高くのぼっていく。それを背中にして魔法のかさで飛ぶエヴァレーの姿に、気づく者は誰もいなかった。



   ◇   ◇   ◇



 王都のはる西方せいほう、二百八十カロメルトに存在するグァンモン海峡かいきょうは、そこを通らなければならないと知らされると、どの水夫すいふも顔をしかめるほどの、特異なせまさで知られていた。


 最もせまはばが五百メルトしかない海峡。その狭さが二十カロメルトも続く水路になっている。沿岸がまっすぐに整地されたそれは、上空から見ると『運河』に見えただろう。


 その細さゆえ潮流ちょうりゅうの速度が速く、操船そうせんいちじるしく難しい。この海峡を渡る中型船以上の船は自力の航行こうこうは許されず、動力船である曳船タグボートによる曳航えいこうを義務づけられている。時間帯によれば、一方通行の交通整理が実施されるのもめずらしくはない。


 しかし、この海峡を抜けなければ大陸の外縁がいえんを大回りすることになり、王都への航路が格段に長くなる――というわけで、下手をすればここで一日間の停滞ていたいを食らわされることも承知しょうちで、大部分の連絡船がこの海峡を通っていた。


 メルディス王国の主要港・ファウスを出港した定期連絡貨客船『グヌスタ二世号』は、全速であれば王都エルカリナまであと一日という距離きょり、海峡の西端せいたんで足止めを食らっていた。海峡管理局がここを通過する船舶せんぱくに序列を振り、海峡で渋滞じゅうたいが起こらないよう厳重な交通整理を行っているのだ。


 足止めといっても、ただ海の上に浮かんでいるわけではない。順番待ちの船は船着き場に誘導され、通行許可が下りるまでの短い接舷せつげんを許されていた。久しぶりの動かない地面に、短時間の上陸ながらも喜んでおかに上がるものは多い。


 グヌスタ二世号に海峡通過の許可が下り、満載排水量まんさいはいすいりょう二千五百九十トル、長さ七十三メルト、最大幅十三メルトの船は、その汽笛きてき盛大せいだいに鳴らし、上陸していた者を大急ぎで呼び寄せて離岸りがん準備にかかった。


 船の先頭に回った曳船タグボートが接続した鉄縄てつなわのたるみを引っ張り、甲板の水夫が乗降用のタラップを引っ張り上げようとした時、桟橋さんばしを走ってくる一人の女性の姿があった。

 いかにも役人という風情の堅い制服とタイトスカートに身を包む女性の姿に、水夫たちが目をく。


 今まさに収納される最中のタラップにその女性は大胆にも飛び乗ると、一気に甲板までけ上がった。


「あんた! 勝手に乗り込んで来て! 危ないだろうが!」

「海峡管理局公安部の者です!」


 目深まぶかかぶった帽子ぼうしの陰に、まだ少女の面影おもかげを見せるその女性が身分証を突き出した。


「船長に会いたい! この船に国際指名手配犯が乗船しているとの情報を受け、急遽きゅうきょ参上しました! 船長に目通りを!」


 曲芸アクロバットめいた乗り込みをしてきたその役人に、甲板に出ていた乗客の注目が集まる。艦橋ブリッジにいた船長もその一人で、強引な乗船を目の当たりして早足で甲板に駆け下りてきた。


「困りますな! 危険な乗り込みは!」

「海峡管理局の職員には、この海峡内であれば船の責任者の許可を受けずに立ち入る権限があります!」

「いや、それは承知だ。私は乗り込みの仕方のことをいっている」


 海の男となって三十年の船長も色んな事件に出くわしてきたが、桟橋から上がったタラップに飛び移ってきた人間を見たのは初めてだった。


「とにかく、火急の用件なのです。この写真の四名がこの船に乗船しているらしいという情報が入りました。速やかに捜査そうさを行うため、協力していただきたい」

「それはやぶさかではないが……」


 船はまさに海峡を通り抜けるために動いている。一時間と少しは自力航行もままならない――確かに、捜査に協力する余裕はないことはない、船長は頭の裏で考えた。

 元々行程は少し遅れている。あと半日、王都への到着が遅れることによる影響ペナルティを計算した。


「……まあ、取り調べのために出口で足止めを食らうのも、それはけたい。協力しましょう。おい。乗客の全員を甲板に上げろ、面通めんどおしをする。水夫たちには武器を持たせろ……それでよいですな?」

「結構です」



   ◇   ◇   ◇



 甲板のひとつ下に開けた雑魚寝ざこねの広い空間が、二等乗船券を買った乗客たちの客室だった。調度ちょうどが整った個室はわずか数室だ。客のほとんどが安価に海を渡りたいという、あまり裕福ゆうふくではない層の人間だった。

 なお、ここより湿気がひどく息苦しい客室――三等乗客のための部屋――は、もう一つ下の階層にある。


 今から、密航者がまぎれ込んでいないかどうか確認をさせていただきます、どうかご協力のほどを――水夫が告げたそのうその指示を、身に覚えがある四人の一行パーティー敏感びんかんに見抜いていた。


「どうやら俺たちを探しているらしいな」


 首をかしげながら周囲の人間たちが立ち上がる中、右手に正規の乗船券を握りしめ、若さの中に精悍せいかんさをうかがわせる青年が、焦げ茶色の短髪の中に苛立いらだたしげに左手を入れた。数日間、まともに水浴びもしていない分のよごれがこぼれ落ちた。


「脱出だ。荷物を回収するぞ。武器もそうだし、あれ・・を置いておくわけにははいかないからな。スィル、場所はわかるか」

「……目印をつけマーキングしている」


 茶色のフードを顔も見えないほどに深くかぶった少女が、かすれるような声をらした。


「よし、行け。曳船を乗っ取る。そこで合流だ」

「曳船を?」


 先が細長くとがった三角帽子を被った女性が応えた。真っ黒な丈の長いローブに身を包み、かしみきあらけずり出した、背丈せたけほどもあるつえを大事そうに抱えているその姿からは、魔道のじゅつに通じるものという印象しか伝わってこない。


「乗っ取ったら鉄線を切り離して逃亡だ。こんな船は海峡内では速度も出せないしな。――マハ、お前が魔法でおどかせば、曳船の乗組員なんか、自分から海に飛び込んでくれるだろ」

「まあ、そりゃあね」

「いざとなれば僕がおどろかせますから、大丈夫ですよ」


 細長い枯れ木を思わせる印象を見せる体型――極端にせた長身の男がそういった。なんの職業かと想像させれば、学者か医者くらいしか思いつかせない風貌ふうぼうだ。鼻の上にった小さな丸眼鏡が、その印象を余計に強くしている。


 自分が驚かせば、といってはいるが、よほどの意表を突かなければ、子供一人びっくりさせるのは難しいようにしか見えなかった。


「いったんバラけるぞ。五分後に一斉に曳船に飛び乗る。呼吸を合わせろ。それまで上手く時間をかせげ……じゃあな」


 四人は、一斉に腰を上げた。



   ◇   ◇   ◇



 スィルと呼ばれた背の低い少女は、人の流れに逆らいながら船倉せんそう最深部さいしんぶを目指した。乗客の荷物をひとまとめにし、盗難騒ぎが起こらないように鍵をかけて保管している部屋が、奥の方にある。目印につけておいた反応・・を手の中にある小さな鈴で感じ、その足は迷わない。


 案の定、というか当然その部屋は厳重に施錠せじょうされていたが、その少女には障害にもならなかった。右手首の黒い腕輪・・・の力で扉をすり抜けると、真っ暗闇の中に出る。懐にしていた豆ランプに灯を入れ、わずかな明かりを頼りにして、荷物が山と積み上がったそれに手を伸ばし――。


「っ!」


 横合いの暗がりからびてきた手に少女の細い手首がつかまれ、次には少女の意識は、き消えていた。

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