「フォーチュネットの幻」

 ログトとニコル、そして二人の護衛ごえいを乗せて馬車は、夜の街を西に向かって走っていた。

 馬車の中でログトはくちびる真一文字まいちもんじに結んだまま、なにも話さなかった。ニコルもえてたずねようとはしない。話があるといって自分を連れ出したのだ。口が開く時には開くだろう。


 ニコルがふと窓の外を見ると、高級住宅地に入っているのがわかった。

 フォーチュネットていはこの区域にあるが、そこに向かうつじを無視し、馬車はさらに大通りを進む。王都を北から南に両断している大運河を渡り、西の区域に行くのか――。

 そのニコルの予想を裏切って、馬車は大鉄橋へと続く通りから外れた。


 王都の大動脈のひとつである大鉄橋が左手にのぞめる堤防ていぼうの近くで、馬車は停車した。最初に二人の護衛が降り立ち、まばらに立つ街灯が足元がわかるくらいには照らしてくれている暗がりを、入念にゅうねんに確認する。


「ニコル、降りてくれ」

「はい」


 ログトが先に降り、ニコルも続く。どうしてこんな所に降ろされたのか――さすがのニコルも、想像の翼を広げざるを得なかった。思わず腰の剣を意識してしまう。

 先導せんどうするようにログトは、堤防の階段を上がった。この街で最も人気ひとけがないだろう場所に向かっていくその背中を、ニコルもだまって追った。


 堤防を乗り越え、河川敷かせんじきに出る。雨風にさらされて表面の塗装とそうげかけている長椅子ベンチに、ログトは腰掛けた。


 堤防の上に点々と灯されている街灯も、ここまで十分な光を投げかけてはくれない。夜の河川敷を訪れるような人間が他にいるとも思えなかったが、ニコル自身も周囲の気配を探るためにその目を細めた。


「隣に座ってくれ」

「……失礼します」


 腹を決めるようにニコルが一礼し、ログトの隣に腰掛けると、ギシッと頼りない感触が尻に伝わった。二人の護衛は堤防の上に残り、他の誰かが来ないか警戒を続けているようだ。


「すまんな、こんな所に連れ出して」

「お嬢様のことですか?」


 腹の探り合いをしても仕方がない。ニコルはけ引きもなく切り出していた。


「そうだ。お前に頼みがあってな……その前に、このいぼれの昔話を聞いてくれるか」


 確か、今年で五十のなかばだったはず――ニコルは頭の中でログトの年齢を計算した。


「お前はフォーチュネットの家との付き合いも長い。我が家の事情はだいたい知っているだろう」

「……はい」

「先々代、私の祖父の代までは、フォーチュネット伯爵家というと、かなりの家だった。王都の北方、少し奥まった内陸に広がる豊かな穀倉こくそう地帯の領主。私はそこで幼少期を過ごした。金色こんじき大海たいかいのように広がる、美しい田園でんえんの風景を今でも覚えている……いや、忘れるはずがない……」


 目の前の、右から左に悠々ゆうゆうと流れる運河。その美しい領地とこの河もつながっているのだろうか。

 過去をている目だ、とニコルは思った。


「――祖父そふが早く死に、私が生まれる少し前くらいに父が家督かとくを継いだ。……父は浪費家ろうひかだった。領地経営の才もまるでなく、遊ぶことにしか興味がない。屋敷に出入りするメイドにかたぱしから手をつけ……私の母も、うじ素性すじょうもはっきりしないメイドの一人だった」


 ニコルは自分のまゆねるのをおさえられなかった。初めて聞くことだったからだ。


「私が生まれる前に祖父が死んだから、かろうじて認知にんちされた。時期が一ヶ月ずれれば、母子ぼし共々領地から追放されていただろう。その母も産後の肥立ひだちが悪く間もなく死に、私は屋敷に残された……父は私に興味はなかった。乳母の義務感とあわれみで育てられたようなものだ」


 フォーチュネット家の内情は知っていたつもりだった――つもりだった・・・・・・ことをニコルは思い知らされていた。ログトの半生はんせいなど聞いたこともないし、実際聞きたいと興味を持つこともなかったのだ。


「私が成長するに連れて、家はゆっくりとかたむいていった。先代がのこした莫大ばくだいな財産は食いつぶされ、ちょうどお前のとしになったころには、領地は全て売り払われ、父は流行病はやりやまいで死んだ――病名を口にするのもずかしい、父らしい最期だった。最後には屋敷が取り上げられ、がくを聞けば腰を抜かすような借金だけが残った」


 ログトの方を見ようとしても、ニコルには勇気がない。感情がおさえられた声からしても、その顔に表情がないことは明らかだった。


「私はすぐ王都に出たよ。生きていくにはここで働き口を探すしかなかった。変名へんめいし、素性を隠し、金になることならなんでもやった……殺し以外の、たいていのことはな。正直、この頃のことなどリルルには話せん。あいつに軽蔑けいべつされるのは間違まちがいがない……そこの鉄橋の下」


 反射的にニコルは左に顔を向けていた。


「そこの鉄橋の下で寝起きしたこともある。何日ではないぞ、季節がひとまわりするくらいはそこに住んでいた。王都に出て来たばかりの頃だがな」


 そこに若かりし頃の自分を見つけてしまうのが怖いのか、ログトの目は大河を見つめたままだった。


「働いて、汚れて、働いて、汚れて……借金を返すために、青春もなにもなかった。ただな、私は父から受けいだ数少ないものの中で、ひとつだけは、決して売らなかったものがある。それを売ればそこそこの金になるのはわかっていたが、えて死にそうになっていても、それを金にえることだけはしなかった」


 ログトが初めてニコルの方を向いた。ニコルも相対あいたいする。試すような、いどみかかるような光が、ログトの瞳の中にあるのを見て少年が息を飲んだ。


「それがなにかわかるか、ニコル」

「……フォーチュネットの伯爵位ですね」

「さすがだ。お前はかしこいな」


 ログトのほおがわずかにゆるんだ。満足の意思がそこにあった。


「伯爵位など、買おうと思えば、買える。金さえあればな。――しかし、『フォーチュネット伯爵位』は、一度手放せば二度と買い戻せないかも知れん。だから私は売らなかった。いつかこの伯爵位を堂々と名乗れる日が来ることを夢見て。おさなき日の、あの時代に帰ることを夢見て……」


 闇の中で、航行灯こうこうとうを赤々と灯した船が、ゆっくりと右から左に流れていく。それが視界から消えるまで、ログトは言葉を待った。

 長い時間だった。


「十年以上をかけて借金を完済かんさいし、資本をめ……私は小さな会社を作った。もう三十を過ぎていたが、そこからは順調だった。会社は見る間に大きくなり、部屋住まいから一軒家、今の屋敷まで持てるようになり……四十を迎える少し前、リルルの母親を買った・・・

「――買った・・・?」


 思わず聞き返してしまったことをニコルは後悔こうかいしたが、ログトは意にかいした風もなかった。


「貴族ではなかったが、そこそこ由緒ゆいしょある家の娘だった。別の男と婚約こんやくが決まっていたが、その家が借金で首が回らないのにつけ込み、札束さつたぱほおを引っぱたいたよ。婚約を解消かいしょうさせ、私と結婚させた。――私が、わざわざそんなことをした理由はわかるか?」

「い……いいえ……」


 ニコルは答えなかった。わかってはいたが、当ててしまうことに恐怖きょうふしたからだ。

 そして、ログトの答えは、ニコルの想像をいくらも超えなかった。


「……その娘が美しかったからだ。――いや、もっと露骨ろこつにいおう。その娘が産んでくれる娘なら、さぞかし美しい見目みめであることが期待できたからだ」


 ニコルの脳裏のうりにリルルの笑顔が浮かんだ。背筋に怖気おぞけを覚えながら彼女の顔を思い出すのは、ニコルにとって初めての体験だった。


「結婚して一年目にリルルが生まれた。私は喜んだよ。文字通りに狂喜乱舞きょうきらんぶした。期待した女の子だったし、なにより私に似ても似つかなかった・・・・・・・・・・からな――お前、私とリルルが似ているとは思わないだろう?」

旦那だんな様!」

「聞いてくれ」


 さけび、立ち上がりかけた少年、そのひざをログトは押さえた。


「いいのだ。私とリルルとの間に血のつながりがあるかどうかなんて、些細ささいなことなのだ。あいつは母親に生き写しだったし、美しく成長してくれたから、私は満足だ」


 ログトの目が再び前に向く。ニコルにはそれが幻影げんえいを見ている眼差まなざしにしか見えなかった。


「……私はようやくここまでぎ着けた。あとは、リルルを力のある貴族の家にとつがせ、その家の後援こうえんで、かつてのフォーチュネットの領地を買い戻す……。

 ……あと一息だ、あと一息で私の夢はかなえられるのだ。だからだ――ニコル!」


 バネ仕掛けのようにログトが立ち上がった。ニコルの手が反射的に剣のつかをつかんでいる。暗殺されるのでは、という万が一の危惧・・を頭から払えなかったからだ。

 だが、ログトの行為は、そのニコルの予想のはるか上をび越えていた。


「頼む、ニコル!」


 ログトが砂利じゃりの地面に落とすように膝を着けた。次の瞬間にはその上体が前に倒れ、ほとんどたたきつけられる速度で、手と頭が地にぶつけられていたのだ。


「頼む――リルルと結ばれることだけは、あきらめてくれ!!」

「――――」


 ニコルは動かなかった。動けなかった。

 息をするのさえもふうじられ、額が割れるのもいとわない勢いで頭を下げた伯爵を前にして、たかが十六歳の少年に、なにができたろうか。


「私は卑怯ひきょうな男だ。私がこんな格好をしたら、お前はその意を決して断れない、そんな心根を持っている人間がお前だと理解している――私は、それにつけ込んでいるのだ! 私を軽蔑けいべつしてくれていい! だが、リルルとのことだけは! 頼む、頼む……!」

「……旦那様、やめてください! お願いしますから!」


 ようやく膝の硬直こうちょくけ、ニコルがログトの前にひざまずく。それにログトは、顔を上げもしなかった。


「お前とリルルが、心から好き合っているのは、わかっている!」


 たとえ足元が泥濘ぬかるんでいたとしても、同じことをしていただろう。ますます力強く頭を地面に押さえつけるだけだった。


「いまさら、お前たちに別れろといっても聞いてはくれまい。――好き合うのはいい、愛を語らうのも邪魔はしない、リルルの部屋に通ってもかまわん――だがな、リルルと、子供ができるような・・・・・・・・・真似をするのだけは……!」


 必死の叫びだった。目の前の岩を、念だけでくだく力があったかも知れなかった。


「それだけは、それだけはやめてくれ! それさえしてくれなければ、私はもうなにもいわないんだ!」

「旦那様、わかりました、わかりましたから!」

ちかってくれるか!」


 ログトの手がニコルの足首をつかむ。頭は上がらない。口が石をめ、砂が舌に触れてもおかしくない姿勢だった。


「誓ってくれ、そうすればお前を信じられる。私にお前を信じさせてくれ……!」

「誓います。ですから、旦那様、どうかお顔を――」

「なににけて誓ってくれる!」


 ニコルの心を衝撃が突き抜けた。

 なにに懸けて。

 それは、お前にとって最も大事なものはなにか、という問いかけだ。


 だからニコルは即答そくとうできなかった。自分に問いかけるだけの時間が必要だった。

 大運河をさかのぼる船の汽笛きてきが響く中、頭をせ続けるログトと、その前に片膝をつくニコルという構図が続く。


 二人の体を押し包むような船のさけびが消え――ニコルは、いっていた。


「――この僕の名に懸けて、誓います」


 右手が襟の徽章きしょう、五角形の台座に有翼ゆうよく獅子ししを刻んだ徽章に触り、首から胸元にかけた細い鎖につながったものを、右腕が押さえていた。


「ニコル・アーダディスの名、その名誉の全てに懸けて、誓います」

「おお……」


 ログトが、顔を上げた。

 額と鼻先が砂で汚れ、頬を涙が洗っていた。それでもその顔には、打ち震える感動が宿っていた。


「ニコル……私は、他人ひとの言葉は信じない、信じないようにしている。しかし、お前のその言葉だけは例外だ。お前の言葉を、誓いを信じさせてくれ。私に、人の心にも信じるにあたいするものがあるのだと知らしめてくれ……」

「――旦那様は、僕の命の恩人です」


 ニコルはつぶやく。その誓いの理由を。


「僕が生まれる直前に父が死に、乳飲み子の僕を抱き路頭ろとうに迷っていた母を、旦那様がすくってくださいました。ニコルは、旦那様につかえる騎士のつもりでいます。ですから……」

「すまん、すまん、すまん……!」


 声もなく涙を流し続けるログトがニコルの手を取った。取ったその手を全力でにぎり込んできた。


「私がその夢を諦めれば、お前たち若い二人を幸せにしてやれることはもう、わかっている、わかりきっているんだ。しかし、それをしたら私は、私はまぼろしのためだけに生きてきたことになる……私は幻になりたくない。だから、すまん、私のわがままのために……」

「旦那様の意に逆らうことはいたしません。ですから、もう……」

「ありがとう、ありがとうニコル、本当にありがとう……」


 今はうながしてもログトは立とうとしないだろう。だからニコルは、ログトの涙が止まるのを待った。

 同時に、リルルのことを胸の中に想起そうきさせる。この誓いのことをリルルにどう伝えるべきか、それは今日考えるべきことの中で、一番の重大事だった。


「……それで、だ、ニコル。渡したいものがあるのだ」


 ようやく、ログトの手がニコルのそれから離れ、胸元からひとつの小さな箱を取り出した。


「受け取ってくれ。是非ぜひとも、お前につけてほしいものだ」

「――これは!」


 それを目の前で開けられ――ニコルの目が、輝いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る