「フォーチュネットの幻」
ログトとニコル、そして二人の
馬車の中でログトは
ニコルがふと窓の外を見ると、高級住宅地に入っているのがわかった。
フォーチュネット
そのニコルの予想を裏切って、馬車は大鉄橋へと続く通りから外れた。
王都の大動脈のひとつである大鉄橋が左手に
「ニコル、降りてくれ」
「はい」
ログトが先に降り、ニコルも続く。どうしてこんな所に降ろされたのか――さすがのニコルも、想像の翼を広げざるを得なかった。思わず腰の剣を意識してしまう。
堤防を乗り越え、
堤防の上に点々と灯されている街灯も、ここまで十分な光を投げかけてはくれない。夜の河川敷を訪れるような人間が他にいるとも思えなかったが、ニコル自身も周囲の気配を探るためにその目を細めた。
「隣に座ってくれ」
「……失礼します」
腹を決めるようにニコルが一礼し、ログトの隣に腰掛けると、ギシッと頼りない感触が尻に伝わった。二人の護衛は堤防の上に残り、他の誰かが来ないか警戒を続けているようだ。
「すまんな、こんな所に連れ出して」
「お嬢様のことですか?」
腹の探り合いをしても仕方がない。ニコルは
「そうだ。お前に頼みがあってな……その前に、この
確か、今年で五十の
「お前はフォーチュネットの家との付き合いも長い。我が家の事情はだいたい知っているだろう」
「……はい」
「先々代、私の祖父の代までは、フォーチュネット伯爵家というと、かなりの家だった。王都の北方、少し奥まった内陸に広がる豊かな
目の前の、右から左に
過去を
「――
ニコルは自分の
「私が生まれる前に祖父が死んだから、
フォーチュネット家の内情は知っていたつもりだった――
「私が成長するに連れて、家はゆっくりと
ログトの方を見ようとしても、ニコルには勇気がない。感情が
「私はすぐ王都に出たよ。生きていくにはここで働き口を探すしかなかった。
反射的にニコルは左に顔を向けていた。
「そこの鉄橋の下で寝起きしたこともある。何日ではないぞ、季節がひとまわりするくらいはそこに住んでいた。王都に出て来たばかりの頃だがな」
そこに若かりし頃の自分を見つけてしまうのが怖いのか、ログトの目は大河を見つめたままだった。
「働いて、汚れて、働いて、汚れて……借金を返すために、青春もなにもなかった。ただな、私は父から受け
ログトが初めてニコルの方を向いた。ニコルも
「それがなにかわかるか、ニコル」
「……フォーチュネットの伯爵位ですね」
「さすがだ。お前は
ログトの
「伯爵位など、買おうと思えば、買える。金さえあればな。――しかし、『フォーチュネット伯爵位』は、一度手放せば二度と買い戻せないかも知れん。だから私は売らなかった。いつかこの伯爵位を堂々と名乗れる日が来ることを夢見て。
闇の中で、
長い時間だった。
「十年以上をかけて借金を
「――
思わず聞き返してしまったことをニコルは
「貴族ではなかったが、そこそこ
「い……いいえ……」
ニコルは答えなかった。わかってはいたが、当ててしまうことに
そして、ログトの答えは、ニコルの想像をいくらも超えなかった。
「……その娘が美しかったからだ。――いや、もっと
ニコルの
「結婚して一年目にリルルが生まれた。私は喜んだよ。文字通りに
「
「聞いてくれ」
「いいのだ。私とリルルとの間に血の
ログトの目が再び前に向く。ニコルにはそれが
「……私はようやくここまで
……あと一息だ、あと一息で私の夢は
バネ仕掛けのようにログトが立ち上がった。ニコルの手が反射的に剣の
だが、ログトの行為は、そのニコルの予想の
「頼む、ニコル!」
ログトが
「頼む――リルルと結ばれることだけは、
「――――」
ニコルは動かなかった。動けなかった。
息をするのさえも
「私は
「……旦那様、やめてください! お願いしますから!」
ようやく膝の
「お前とリルルが、心から好き合っているのは、わかっている!」
たとえ足元が
「いまさら、お前たちに別れろといっても聞いてはくれまい。――好き合うのはいい、愛を語らうのも邪魔はしない、リルルの部屋に通ってもかまわん――だがな、リルルと、
必死の叫びだった。目の前の岩を、念だけで
「それだけは、それだけはやめてくれ! それさえしてくれなければ、私はもうなにもいわないんだ!」
「旦那様、わかりました、わかりましたから!」
「
ログトの手がニコルの足首をつかむ。頭は上がらない。口が石を
「誓ってくれ、そうすればお前を信じられる。私にお前を信じさせてくれ……!」
「誓います。ですから、旦那様、どうかお顔を――」
「なにに
ニコルの心を衝撃が突き抜けた。
なにに懸けて。
それは、お前にとって最も大事なものはなにか、という問いかけだ。
だからニコルは
大運河を
二人の体を押し包むような船の
「――この僕の名に懸けて、誓います」
右手が襟の
「ニコル・アーダディスの名、その名誉の全てに懸けて、誓います」
「おお……」
ログトが、顔を上げた。
額と鼻先が砂で汚れ、頬を涙が洗っていた。それでもその顔には、打ち震える感動が宿っていた。
「ニコル……私は、
「――旦那様は、僕の命の恩人です」
ニコルは
「僕が生まれる直前に父が死に、乳飲み子の僕を抱き
「すまん、すまん、すまん……!」
声もなく涙を流し続けるログトがニコルの手を取った。取ったその手を全力で
「私がその夢を諦めれば、お前たち若い二人を幸せにしてやれることはもう、わかっている、わかりきっているんだ。しかし、それをしたら私は、私は
「旦那様の意に逆らうことはいたしません。ですから、もう……」
「ありがとう、ありがとうニコル、本当にありがとう……」
今は
同時に、リルルのことを胸の中に
「……それで、だ、ニコル。渡したいものがあるのだ」
ようやく、ログトの手がニコルのそれから離れ、胸元からひとつの小さな箱を取り出した。
「受け取ってくれ。
「――これは!」
それを目の前で開けられ――ニコルの目が、輝いた。
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