「奈落の底」

 ウィルウィナの眼前、テーブルの上のカップに満たされた紅茶が、その水面に波紋を刻んだ。


「…………地震!?」

「ちょっとちがうようね」


 それを追うように、号砲ごうほうに似た音が遠く――足下のはるか下からとどろいてきた。


「この、震動の伝わり方は、爆発……!?」

「ご明察めいさつね」


 狼狽うろたえを隠せないニコルと違い、ウィルウィナにはカップを手に取ってお茶をすする余裕さえあった。


「何か仕掛けてくるとは思っていたけれど、この城の中でやってくるとは、ね……敵も馬鹿ではない、か」


 言葉を失ってしまっているニコルの手に、ウィルウィナが手をえる。


「ニコルちゃん。お肩揉かたもみのお駄賃だちんに、お姉さんがご褒美ほうびをあげましょう」


 ウィルウィナは自分の手首の黒い腕輪を叩いた。リルルやフィルフィナがめているのと同じ腕輪から、一振りのレイピアが飛び出して来る。


「これは……!」


 手首から剣が生えて飛び出してくるという手品以上の技に、ニコルは言葉を失ったまま、目を見開いていた。


「持って行きなさい。あなたの好きに使うといいわ」


 銀のさやに刃が収められているそれを、ニコルの手が受け取る。鞘の先端からつかいたるまで、一つの優美ゆうび輪郭りんかくを形作っている細剣レイピアに、ニコルの視線は吸い込まれた。


「……美しい……」


 気品さえにおわせているそのレイピアを両手でかかげ、ニコルは瞬間、思考をなくしてそれを見つめた。


「こ、こんな素晴らしいものをいただいてよろしいのですか? 僕もくわしくはありませんが、今まで僕が目にしたものの中で、これ以上に価値がある刀剣を見たことはありません。僕には過ぎた……」

「あなたのお肩揉み、とても気持ちがよかったわ。それをあげるくらいの価値があるものよ。素直にいただいておきなさい」


 ウィルウィナが微笑ほほえむ。その優しさしかない表情に、ニコルは考えるよりも先にうなずかされていた。


「これは切れ味も相当だけれど、魔法が込められているレイピアよ。きっとあなたの力となるわ」

「魔法……ですか?」

「使い方はね…………ほら、耳を貸して」


 ニコルがウィルウィナの口元に耳を寄せる。と同時に、ウィルウィナは少年の小さな耳穴をねらい、そのすぼめたくちびるからふっと息を吹き込んだ。


「ウ、ウィルウィナ様ぁ!」

「ごめんなさい、一度やってみたかったのよ。今度はちゃんと教えるから。――ほら」


 短いが一通りの説明が終わり、微笑むウィルウィナの顔からニコルが耳を離す。


「――この剣は、そんなことができるんですか……?」

「あなたなら使いこなせるわ。上手に使いなさい。あと、これを」


 それは腕輪からではなく、ウィルウィナの胸元から取り出された。一つの輪で結びつけられている、金色と銀色に輝く二つの小さな鈴だ。

 ウィルウィナの手がニコルの手を取り、その手の平に鈴をにぎらせた。


「『双子の鈴』よ。フィルちゃんたちにこれを持たせているわ。鈴の鳴り方で、同じ物を持っている相手のだいたいの方向と距離がわかるはず」

「ありがとう、ございます……」

「三人は今、移動している。フィルちゃんたちが無事なことは確かなようね」

「ええ……確かめてきます!」


 失礼します、と一礼をし、ニコルは貴賓室きひんしつを飛び出していった。それを無言で見届け、ウィルウィナはふう、と息をいた。


「――さて、と」


 もう一度手首の黒い腕輪をノックする。腕輪に格納かくのうするにはギリギリの大きさである、長さ二メルト弱の長細いものが取り出された。紙の包みとひもでぬ厳重げんじゅう梱包こんぽうされたそれを、白い手が解いていく。


 それが完全に開梱かいこんされるよりも早く、ウィルウィナの耳は遠くでとどろいた悲鳴を聞きつけた。


「――――来たわね」


 窓の外から聞こえてくる、いくつもの折り重なった悲鳴。それが何を意味するかを、鋭敏えいびんな聴覚はだいたい把握はあくしていた。



   ◇   ◇   ◇



 震えるまぶたをこじ開けるように少女が目を開くと、覚えのない景色があった。


「こ…………こ……は……?」


 薄暗うすぐらい通路……灰色のコンクリートがき出しになった天井が目に映る。ぼんやりとした青白い光を申し訳程度に天井が照り返し、ぼやけていた視界が次第に輪郭りんかくを取り戻していった。


「あれ……あ、あいたた、たた…………!」


 割れるかと思うくらいに頭がガンガンと痛んだ。それでも、目を開けてしばらくすれば思考の能力も戻って来る。数十秒をかけて自分の名前を思い出したリルルは、辺りを見渡した。


「――大丈夫ですか」


 小さな手が体を揺り動かしてくる感覚に、リルルは目を向けた。衝撃――爆発の衝撃だろう――のために意識を失っていたようだ。何分、何時間気絶していたのかはわからない。


「フィ、フィル……」

「無理はいけません。……よかった。長いこと反応しないから心配していたのです……あっ、だから、無理をなさらないで!」


 上体を起こす。体のあちこちを打っているのか体は痛むが、骨折や重い打ち身はないようだ。手足の関節も、指も動く――動ける。


「ここは……」


 ようやくまともに回り出してきた頭で、リルルは周囲を観察した。

 壁に埋め込まれている蛍光石けいこうせきが薄暗い光を漂わせ、物の輪郭が見て取れる最低限の明るさをもたらしてくれている。壁や床の作りは地下下水道と大差はない。見慣れた雰囲気すらあった。


「どうやら、わたしたちは階段を転げ落ちきったようですね」


 フィルフィナの声にリルルは顔を上げた。何十段、何百段以上はある階段の上に、光が見えない。確か、輜重兵しちょうへいが背負っていた背嚢リュックサックの中に詰め込まれていた爆薬が起爆して……。


「とっさに銀の腕輪で防壁ぼうへきを張っていなければ、わたしたちも粉微塵こなみじんになっていました。目の前で、大量の爆薬が起爆したのですから。わたしたちは助かりましたが、しかし……」


 階上の光が見えないということは、くずれた瓦礫がれきが開放された扉をふさいでしまったということだろう。爆発を魔法の力でのがれられた自分たちはともかく、あの場にいた他の者たちの運命は。


「そんな……」


 リルルの心に重いものが突き刺さる。吐き気さえもよおすその感覚が、腹の底まで痛くしてくれて、目のはしに涙をにじませた。


「――そ……そうよ! コナス様は! 確か、私たちのすぐ側にいたはず! コナス様は、どこに――」

「僕なら、君たちのおしりの下だよ」


 目を丸くしたリルルが、視線を落とした。

 今まで気づかなかったのが不思議なくらいに、がっつりとコナスの背中に乗ってしまっていて、苦しさの中でも笑顔を作ろうとする彼と目が合った。


「やあ、なんとか無事だったみたいだね、フローレシアお嬢さんたち。君たちの椅子いすになっているのは、光栄なんだけれど……そろそろ、退いてもらえれば、助かるかな……」

「――す、すみませんっ!」


 跳び上がるようにリルルが立ち上がる。瓦礫のかけらを全身に浴びたコナスが、ゆっくりと身を起こした。


「おはよう、よく眠れたかな」

「こ……国王代理殿下は、ご無事で……」

「コナスでいいよ」


 玉座の間や閣議室かくぎしつで見せていた国王代理の仮面ががれ落ち、リルルには馴染なじみがあるといっていい、いつものコナスの顔がそこにあった。


「余とかなんとか、もう、自分で演じていてもおかしくてさ……気が抜けないから肩どころか腰もこっちゃって。どうやら僕たちだけのようだ。気楽にさせてもらうよ」


 丸い顔が笑う――その表情だけで、リルルの心に絡みついている鉄線がほどけて、落ちた。


「しかし、体が丸っこく分厚くて助かった。上手く転がれたせいで怪我けがだけはまぬがれたみたいだね……ううっ」

「――扉の開放口は、完全に塞がっています。部屋が崩落ほうらくしたようで、外に出ることができません」


 一度階段を上まで上がったフィルフィナが、そう報告した。自分たち以外に巻き込まれた者たちが、どのような運命になっているのかについての予想は、口にはしなかった。


「ですが、まだいったん引き返す手段もあります。ここは、一度……」

「いや、このまま進んだ方がいい。時間がない」


 フィルフィナの提案をコナスはやんわりと、しかし確かに否定した。


「割と、時間との勝負みたいだ。戻って隊を再編成して、という余裕は多分ない。手遅れになる前に、ヴォルテール男爵を取り押さえないと」

「私たちだけで、それが可能でしょうか……」

「戦うのは僕はからっきしだから、戦闘は君たちにたよることになるね……。さて、言い伝えによれば」


 コナスが階上に向けていた視線を移した。振り返り、遠くまで見通せない暗がりに目を向ける。


「言い伝えでは、この先は迷宮になってるらしい。五人の英雄が散々迷わされたという魔王城の迷宮さ。さぞかし広大なんだろうというのは想像にかたくないけれど」

「そんな迷宮を、私たちで突破できるのでしょうか……」

「ああ、それは問題ない」


 コナスがつむった右目をまぶたの上からいた。


「そのために僕がくっついているんだ。先頭に立つからね。すまないが、援護えんごをお願いするよ」


 立ち上がったコナスが服をはたいてホコリを落とし、そしてスタスタと気楽な足取りで歩き出した。その歩みには迷いがない。まるで、いつもの勝手知ったる散歩道を歩くような確かさがあった。


 リルルとフィルフィナは少しだけ顔を見合わせ――そして、その背中を追った。



   ◇   ◇   ◇



 王城の地下も地下の最深奥部さいしんおうぶ討伐とうばつ部隊が異変・・ったという空間に急行したニコルが目にしたのは、まさしく惨状さんじょうだった。


「これは……!」


 大きな爆発があったということは、一目で見て取れた。元は白亜はくあらしかった壁や床が、高熱に焼かれてげて黒く染まり、天井が崩落して奥の壁際が瓦礫の山に埋まっている。

 散乱しているのは、瓦礫だけではない。人の体や、体の部分も同じくで、文字通りに足の踏み場もなかった。


「これは…………ひどい…………!!」


 ニコルより先にけつけた兵士や家臣たちが、かろうじて息がある体を抱き起こし、数人で抱えて階上に運んでいる。が、まだ息がある人数は多くはなさそうだった。一目見ただけで生存が望めないという遺体が多すぎる。


 瓦礫が積み重なっている高さから、爆心地がどこであるかを推測すいそくするのは簡単だった。床に倒れている遺体の数よりも、部屋の大半を埋めている瓦礫の下敷きになっている人間の方が多いと直感できる。たしか、討伐部隊は三百人弱の人数が編制されていたはずなのだ。


「ぐっ…………!!」


 死体を目の当たりにした経験が皆無かいむではないニコルだが、物と肉が焦げる臭いに体が反応し、今しがた飲んでいた紅茶が食道にまでこみ上げてくるのをおさえられない。それが喉より上に上がるのはなんとかはばめたが、我慢ができなかった人間も多かったようだ。


 正気を無くすような様々な異臭が満ちている。地獄、という二文字をニコルは脳裏のうりに思い浮かべた。こんな惨状の中、フィルフィナやリロットはよく無事でいたものだと思えた。しかし、姿が見えない。移動している、とウィルウィナはいっていたが――。


「う……ん……?」


 ちりん、と鈴がなった。甲冑かっちゅうの左腕にひもで固定している鈴が、ひとりでに音を響かせたのだ。


「こっち……?」


 部屋の奥、瓦礫が最もうずたかく積もった向こう。その奥の奥から、もう一つの鈴が震える気配が伝わってきた――存在を感じる。


「この先……なのか……」


 ニコルにはわからない。この瓦礫の山が築かれた向こうに、何があるのか。

 ただわかるのは、リロットやフィルフィナたちが生きて、歩いているだろうということだけだ。


「追わなきゃ……」


 そのためには、この瓦礫をどう撤去てっきょするべきか。人力のみでは何時間かかるかわからない。しかし。そうしなければ追えるはずもなく――。


 ニコルの耳が、細く鋭く遠くに響く笛の音を聞いたのは、この瞬間だった。


「――――!!」


 それまで救出活動、いや、遺体の回収をしていた兵士たちが手や足を止める。その全員が、笛の音が響いてきた階上に目をやっていた。


「敵だ!」


 声が飛んできた。敵、という概念がいねんにニコルの肌がざらりとこすられる。敵――城塞都市じょうさいとしであるこの王都エルカリナ、その内側に、敵?


「敵が……魔物が城に押し寄せてくる! 奴等、下水道からいて出ているんだ! 全員、武器を取れ!」


 それまで下を向いて死体のかけらを集めていた兵士たちが、むしろ救いを見たような顔になって階段を駆け上がっていく。直視できないような惨状の中に身を投じているよりは、戦っている方がマシと思ったのか。


「僕は……!」


 場の空気が一気に変わる中、ニコルは自分がどうすればいいのか一瞬では判断できず、三十秒の間、その場に立ちくしていた。

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