「ちからとこころ」

 火照ほてった気持ちを持てあましながら、急がなければと思いつつもラミア列車に乗る気にもなれず、ひとりのフィルフィナは帰り道をたどっていた。いくぶん冷たい風に、ほおと心をさらしていたかったというのがある。


 おかげで屋敷に帰り着いたころには、午後まで一時間と少しを残すくらいの時間になっていた。まるで朝帰りをしたような、後ろめたい気分にさせられてしまう。

 重たい気持ちで玄関の前に立ち、大きくひとつ、息を吸って、いた。


「ただいま、戻りました……」

「フィル!」


 施錠せじょうされている玄関の鍵を開け、小さな正面ホールに足を進めたフィルフィナを、自室から飛び出して来たリルルが出迎でむかえた――待ち受けていたといった方がいいのかも知れない。


「待ってたわ! いったい何をしていたの!」

「……何をしていたんでしょうね?」


 強引な調子で母によってお茶に誘われ、そこで母の愛人と対面――偶然ぐうぜんではあったが――し、聞きたいこと、聞きたくないことまで聞かされてしまって、心がいくぶんせていたのかも知れない。


「昨日、あなたも聞いて、見たでしょう! あの地からうなる声と、海から出た光――」

「聞いたし、見ました。……取りあえず、部屋でお話しましょう。長い話になるかも知れません……」



   ◇   ◇   ◇



 リルルの居間いま、四人掛けのテーブルにリルルを座らせ、フィルフィナは静かにお茶の用意をした。のど湿しめらせておかねばできない話だと思っていた。

 ふたり分のお茶をテーブルの上に置いて、フィルフィナも座る。リルルはその間無言で待っていた。


「……里からこれを持ってきました」


 フィルフィナがテーブルに置いたふたつの箱に、リルルが首をかしげた。箱を開けると見慣みなれた意匠デザインの腕輪が出て来た――その銀色に輝く色以外は、リルルが普段から右手首にめている『黒い腕輪』と同一のものだ。


「これは……?」

「『銀の腕輪』。……『黒い腕輪』と同じく、エルフの里に伝わる秘宝です」


 人が手に持つものくらいならば異次元の世界に格納かくのうさせることができ、加えて少しの特殊能力をあわせ持つ『黒い腕輪』。リルルに快傑令嬢リロットとしての基本的な力を与えるものだ。


「……フィル?」


 ふたつの箱のひとつに自然にびたリルルの手を、フィルフィナはそのこうに指をえて静かに制した。


「……お嬢様にこれを貸すつもりで持ってきたのですが、思い切りがつかないのです。これは……黒い腕輪とは比べものにならない力をもっていますから」

「比べものにならない、力……?」


 黒い腕輪の力だけでも大概たいがいなものであると思っているリルルの、首のかたむきがますます深まった。


「……お嬢様に貸し与えた今までの数々の道具。あれを合わせれば、お嬢様ひとりで百人の警官と戦えるくらいの力があります。それが今までのリロットの力だったはず。しかし、これは……」


 リルルの手から指を離す。ふたりとも決断を保留ほりゅうするように、それぞれの手が箱の前に置かれた。


「これは、万の軍隊とも対等に戦える力をお嬢様に与えてくれます。降り注ぐ矢を光のたてで弾き、百歩離れた敵も、無限にびる光のムチで両断できる――」

「っ」


 リルルが息を飲む音が聞こえたようだった。今まではせいぜいが、運が悪くない限りは銃弾を弾けるドレスと、十人力ほどの腕力や脚力を与えてくれる道具アイテム類だ。

 フィルフィナにいわせれば『チンピラどもと戦うには過ぎた道具』というところのものだった。


「――しかし、今回の敵は、こんな道具でも勝てるかどうか危うい相手なのです。ヴォルテールていでわたしが対峙たいじした闇の眷属けんぞくの者、わたしと同等、いえ、それ以上の力かも知れません……運がよくなければ、わたしはあの森で死んでいました」

「……そんな」

「だからお嬢様にこれを渡したい。ですが、逆の気持ちもあるのです。……小国を相手に回して戦えるような大きな力を得て、お嬢様が変わってしまわないかどうか……」


 テーブルに置かれたフィルフィナの手が震えている。リルルの目がその手から顔に向けられる――いつもは冷静な顔が不安の色にまっていた。


「……いえ、わたしはお嬢様を信じています! 信じているからこそ、今まで人間には過ぎた道具をお貸ししてきました。ですが、万が一、万が一にでもお嬢様が力に飲み込まれて、変わってしまったら。これは、自分の中の正義を無限に行使してしまえる道具なのですよ」


 これは、人間の手に渡すことのできない道具。十年前、ふるい里がエルカリナ王国の軍勢に襲撃しゅうげきされた時、フィルフィナはこれを使わせてもらえなかった。命を捨てて時間をかせ殿しんがりの者が戦場に倒れ、これをうばわれては取り返しがつかないことになるからだ。


 それが今回、強引な黙認もくにんという形であっさりと貸してもらえた。母にもいくらか思うところがあったのかも知れない。この王都を守る意義は、母の中にもあるのだろうから。


「……あなたは優しい。その優しさがあなたを快傑令嬢にし、今までたくさんの人々を救ってきました。それもあなたの中にある優しさと、正義のため……ですが、その正義が暴走すればどういうことになるか。許せないと思うものに、無制限に制裁を加え出すかも知れない……」

「フィルのいうこと、わかるわ」


 フィルフィナが目を上げた。アメジスト色の瞳が目に見えない波紋を作って揺れていた。


「……私にも自覚はある。今のリロットの時点で力の誘惑ゆうわくを感じる。悪者に手加減が難しくなったこともいくらかある。殺したくない、殺すのがこわいという感情がそれを止めていたけれど、その歯止はどめだって、いつ外れるか……多分、目の前であなたやニコルたちが殺されたら私、くるってしまうと思う」


 ふぁ、とフィルフィナの喉から熱い息がれた。目の端がれていた。


「フィル。もしも私が我を忘れ、この腕輪の力を振るい出し、止められなくなったら――私を殺して」

「お嬢様!」


 どこまでも真剣な光をその眼差まなざしに乗せたリルルのまっすぐすぎる言葉に、フィルフィナは悲鳴を上げた。


「フィルの言葉にも耳を傾けられない私なんて、怪物や悪魔といっしょよ。私、そんな私でいたくない。だから」


 リルルの手が動く――箱ではなく、フィルフィナの手を取って、にぎった。


「怪物や悪魔となって、みんなの敵になって、うらまれて誰かに殺されるくらいなら……私、フィルに止めて欲しい。フィルならそれができるでしょう。私なんかよりもずっと強いんだから」

「できるわけないじゃないですか! わ……わたしに、あなたを殺すなんて!」

「じゃあ、私といっしょに悪魔になってくれる?」

「っ――――――――」


 一瞬、うなずきたい衝動しょうどうに、フィルフィナは|喉をまらせた。


「……私も死にたくないし、フィルやみんなといつまでも一緒にいたい。そのためにこの腕輪が必要なら、つける。力の誘惑ゆうわくにも耐える……でも、抵抗らがえなかった時は……」

「……こんなことになるのなら、お嬢様にリロットの力なんて与えなければよかった、そう後悔こうかいしています。小物をやっつけるだけならいいか……そんな風に思っていた自分がおろかしい……」

「フィル、それは違うわ」


 自分の手の中にある震えを抱くように、リルルはフィルフィナの細い指の連なりを握った。先まで冷たい感触が伝わってくる。フィルフィナらしくない――そして同時に、フィルフィナらしい感情の揺れ。


「あなたが私に力を貸してくれたから、こんな時に戦える。……かなうかどうかはわからないけれど、もしあの時あなたが私に力を貸してくれる気にならなかったら、私は今、こわさに震え続けるだけの女の子でしかなかった。戦えずに震えてちぢこまるだけなのは、とてもとても怖いことだと思うの」


 戦う。戦うこと、戦えること。


「――私の大好きなフィル。私を信じて、とはいわない。私を見ていて。ずっと見守っていて。そして……見守るにあたいしないのだと思ったら、私を断じて。私は決して後悔しない。あなたに全てをゆだねるわ。だから……」

「わ……わかりました!」


 リルルの手に、フィルフィナのもう片方の手がすがるように乗せられた。


「わかりました……わかりましたから、もうそれ以上いわないで下さい! ……そして、覚えていて下さい! わたしがあなたを殺したら、わたしもその場で後を追いますからね! おどしじゃありません、本気ですよ! わたしにそんなことをさせたくなかったら、わかっていますよね!」

「ありがとう」


 リルルが微笑ほほえんだ。自分の視野の中でぼやけてにじむそんな彼女を、フィルフィナは懸命けんめいに目を開けて見つめた。


「お嬢様……わたしの手を握っていてください……」


 覚えがある、この不安――エルフの少女は思い出す。これは、十年前、雨が降りしきる貧民街のすみっこで、汚れきり冷え切った自分が、石畳いしだたみの冷たさと味をめきっていた時に感じていたもの……。


「わたし、怖い……わたしはあなたのお姉さん、あなたの母親代わりなのに……いいえ、だからこそ怖い……。あなたとの別れがすぐにでも来るという不安が、本当に、耐えられなく……」


 フィルフィナのほおを涙の粒がいくつも転がり、落ちたそれが二人の握り合う手を濡らす。


「生き残るのよ――みんなで。そうでしょう?」

「そう……そうね、そう……あなたや、わたしたちの、大事な人たちと一緒に……」


 大事な人。

 ――人間嫌いのエルフである自分が、気が付けば、多くの大事な人間を抱えていた。それは、リルルの世界を支えてくれる人たち。リルルの世界を愛する自分に、なくてはならない人たち。


「……リルル、ほんの少し、ほんの少しでいいの。わたしの手を握っていて……」


 守るべきものを持ちすぎた、と思う。守るものがあるから、それを失うことを怖れる。

 しかし同時に、逆にも考えるのだ。

 失うことを怖れるものがないということは、とてもむなしいことなのではないのか、と……。


 それは、生きているということに、値することなのか?

 ――エルフの少女の中で、それはもう、解答が出ていることだった。

 だから、わたしフィルフィナは、ここにいる。


「そうすれば、元の強いフィルフィナに戻るから。あなたを守れるわたしに戻るから……」

「――フィル」


 リルルの左手が、フィルフィナの手の甲に優しく乗せられた。その手の平から感じるぬくもりが懐かしい記憶を想起そうきさせる――芯から冷え切り、こごえ、こおっていた自分の心を溶かしてくれたもの。

 このぬくもりに触れた時、自分は決意したのだ。この少女の隣にいたい、このぬくもりを守りたい。


 少女の命が永遠ならば、自分は喜んで永遠の時間を彼女にささげるのにと、いつも思う……。


「フィル。私のお姉さん、私のお母さん――私のともだち。ずっと隣にいてね」

「ええ、ええ、ええ……! 出て行けっていわれても、出て行きませんよ! まだわたしは、あの時の負債ふさいを返しきっていませんから!」

「まだ覚えてたんだ。あはは」

「お嬢様とのあの約束、忘れるはずないじゃないですか……! わたしはそのためにここにいるのですから……!」


 エルフの命は軽くはないのだ。それを救ってもらった借りは、まだ全然返せていない。

 目の前にいる人間の少女の一生をかけて返してやる、と思っているのに、少女の無理解に腹が立ったから、笑ってしまった。


「――お、お茶が冷めましたね。淹れ直しますか……」

「もったいないじゃない。飲むわ」

「お嬢様は、本当に伯爵令嬢らしくないですね……あなたを初めて見た時、とても貴族だとは思いませんでしたよ……」

「ありがとう」


 皮肉ひにく嫌味いやみなどかけらもなく、本当に心からリルルが笑った。少女にとって、それが最大の賛辞さんじだったのだから。


 二人が手を離し、ようやく目の前のカップに手を掛けようとした時、壁の掛け時計が鳴り響いた。時報のかねではない――玄関に誰かが来た時に鳴る鐘だ。

 フィルフィナが反射的に立ち上がり、部屋を出て玄関に向かう。リルルは反対に寝室に走った。そこからなら玄関の外に誰がいるかが見えるのだ。


 寝室の窓を開け放ち、窓から身を乗り出すようにしてリルルは――そこにいる人物を見て目を丸くした。


「ママ!? ……ソ、ソフィア! どうしたの!?」


 思わず口走っていい直す。自分の乳母うばだった女性で、ニコルの母。物心ものごころつくまで本当の母だと思っていた彼女。そんな彼女が直接この屋敷に来るなど、乳母の役目をかれて以来のことだった。いつもは自分から出向くのに。


「リ……リルル! た……大変なんだよ!」


 窓から体を乗り出したリルルに気付き、ソフィアがけ寄ってくる。そのソフィアの顔から一切の血色けっしょくが引いているのを見たリルルに浴びせられた言葉は、衝撃などというものではなかった。


「ニ、ニコルが、ニコルが……!」

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