「青と、赤と、偽りと」

 王都の港をはっし、沖合おきあいを丸三日航行こうこうした中型外輪船がいりんせんが今、エルカリナ大陸の東端とうたんに位置するベクトラル領の港に入ろうとしていた。

 船の後部で水をき出す巨大な動輪どうりんが回転する船。機関きかん稼働かどうさせるための魔鉱石まこうせきを大量に消費する船ではあるが、帆船はんせんしてその速度は速い。


 自分一人を運ぶために大層たいそうなことだ――船に乗り込んでから貴賓室きひんしつに閉じこもりっきりのコナスは、食事さえも部屋の中に運び込ませ、ほとんど誰とも話していなかった。そもそも気が合う家来などいない。あのメイド五人衆ごにんしゅう唯一ゆいいつ心を許せる相手だったのに。


 航行自体は順調だった。襲撃しゅうげきの心配が少ないだろうと海路かいろを選んだのは正解だったようだが、小さな問題が発生しなかったわけではない。まずは、母のハーベティのことだ。


 帆船よりは揺れが少ない船ではあるが、母のハーベティは出港後わずか数時間で重度じゅうど船酔ふなよいにおそわれ、自分だけは陸路りくろで行くといい出して手近な港で降りてしまった。おそらくは馬車を調達ちょうたつして領地に向かうのだろうが。


「ま、母上の金切かなきり声を聞かずにすむのは、結構なことさ」


 たまたま船に積んでいた高級葡萄酒ワインたるごと買い切って部屋に運び込ませ、のどかわごとにそれをちびちびとグラスに注いで飲んでいる。

 暗い部屋でたった一人で飲む高級酒は、少しも美味うまいとは感じられなかった。


「……同好会の三人との飲み会、楽しかったなぁ」


 もう何度推敲すいこう校正こうせいで目を通したかわからない「快傑令嬢記録全集」の試しりをめくりながら、またちびりと酒を口に含む。


「今まで飲んだことのないような安酒だったけど、美味かったなぁ。葬儀屋そうぎやに頭ぽかぽかたたかれたけど、あんなに本音ほんねで話せたことなかった。またみんなで飲みたいなぁ……でも、仕方ないか。命あっての物種ものだねだし……」


 寝室にまで暗殺者が乗り込んでくるような王都にとどまっていれば、命がいくつあっても足りないだろう。領地の方が安全だ――そうわめいた母の意見ももっともだったし、理解もできる。しかし、ようやく手に入れることができた友人と離ればなれになる苦悩くのうは小さくなかった。


 それに。


「……リルルちゃん、手紙を受け取れたかな。大丈夫だとは思うけれどな」


 五人目の婚約者。写真で一目見て好きになった。しかしもう、歳が離れすぎている――下手をすれば父と娘としても成立してしまう年齢差なのだ。立派な中年の自分を少女が心から愛してくれるなどということは期待していない。だが、嫌いになられるのもつらかった。


 どこからどう見ても、親の都合つごうだけで成立した立派な政略結婚せいりゃくけっこんだ。そんなものに体を差し出さなければならない少女の心を思うと、コナスの胸は痛む。結婚という形になってしまうのは仕方ないとしても、少女の心はできるだけ自由にしてあげよう。


 彼女が恋人と愛し合って、それで笑顔でいてくれるのなら、それでいい。こちらに愛情が向かないとしても、せめて好意があれば十分だ。彼女は、同じ屋敷に住む友人――可憐かれんで美しい女友達。朝の挨拶あいさつにがいものがなければ、満足だ。


「――立場と権力に任せて女の子を欲望のままに支配しようなんていうのは、悪者の発想だ。快傑令嬢に退治される人間の考えだ。僕は快傑令嬢を愛するから、そんなことはしない。それが彼女を真に愛するということなんだ」


 もちろん、人間としての生物的な欲求が頭をかすめないわけはない。だが、それを理性で打ち消せるのも、いや、理性で打ち消すからこそ人間なのだ。理性が働かない人間は、人間と呼ぶにあたいしない。人の姿をしたケダモノだ――それがコナスの哲学てつがくだった。


「早く問題が解決して、みんなに会いたいなぁ……。ヒィリーもデュリーたちもできたら呼び戻して、元の暮らしにしたい。みんな……みんな仲良く、笑顔で、楽しく――」


 少しも酔えない酒をまた少しずつ口の中にふくみ、その酸味さんみきてきた頃合ころあいだった。

 右の眼窩がんか――目のくぼみが、熱く焼けるように熱を発し出したのは。


「ううっ……!!」


 突然の熱、熱さにコナスはグラスを取り落とした。うすいガラスの器が床に落ちてもろくも粉々こなごなくだけ散る。座ったままでいられないほどの苦痛が目の奥から頭の中にまで突き刺さり、考えもなしに立ち上がった足が床のガラスをみ砕いた。


「なん……だ、なんだ、これは……!!」


 右目を手でおおったまま船室から転がるように出る。熱い――いや、熱ではない。顔の半分でなにかが激しく震動している感触だ。熱というよりは痛み、痛みというよりは――わからない、なんだこれは……!


「だ……旦那だんな様! あれを!」


 甲板かんぱんい出してきたコナスとすれちがった老年の執事しつじが空を指差している。コナスはいわれるがままにそちらの方向に目を向けた。


「あれは――――!!」


 明らかに王都エルカリナの方角だった。

 鮮やかな炎の色をした柱が一条、天から降っているのか? 地から伸びているのか――?

 雲を貫通かんつうし天と地とをつなげ、細くはあるが巨大であろう、という予感しか覚えさせない光がそびえ立っている。


 誰もが理解できないその光景に、船員が、乗員たちがわめきながら甲板にけ出して来た。

 視界の中で十数秒輝いていたそれは、やがて力きるようにすっと消え失せたが、誰の目にも鮮やかな残像となって焼き付いていた。


 いや、誰もが理解できない、というのはあやまりだった。

 この中で、その光のわけを唯一理解できている人間――コナス・ヴィン・ベクトラル伯が、全身の皮膚ひふからき出した汗で服の裏をらしながら戦慄わなないていた。


「あれは、まさか――いや、そうに違いない……! だが、何故だ。この僕がここにいるのに・・・・・・・・・・・……!!」


 光が消え失せると同時に、顔の半面の激しいうずきもおさまった。だが、これらの現象が意味することにコナスの心は冷え切っている。あせり――そうだ、自分は何をしなければならないのか。このまま放置していれば何が起こるのか、それを起こさせないためには――。


「船長! 船長はどこだ!」


 手すりにつかまりながらコナスは立ち上がった。今までに発したことのない大音声だいおんじょうを張り上げる。


「――伯爵様、なにか……」


 想像の外のものを目撃してしまって混乱する船員たちの収拾しゅうしゅうを、半ばあきらめていた船長が走るようにしてコナスの前に現れる。


「すぐにこの船を引き返させたまえ! 王都に――王都エルカリナに急いで引き返すんだ!」

「ですが、もう目的地は見えております。いったんここは寄港して」

「ならん! こと一刻いっこくを争う。一秒たりとも無駄にはできんのだ!」


 周囲――王都から連れてきた家来たちが顔色を変えていた。普段ふだん温厚おんこうそのものなはずの自分のあるじが、ここまで声をあらげているのには初めて直面したからだ。


「ですが……」

「急げ! 金ならいくらでも言い値で払ってやる!」


 逆らう場合はどうなるかわかっているのか、と恫喝どうかつまでも受け、船長は船橋ブリッジに向かって転ぶように走っていった。


「……伯爵の立場を振りかざして他人をおどしたのは、これが初めてかな」


 コナスが改めて、光が消え失せた方向――王都エルカリナの方角に目を向ける。

 自分はなんというおろかなことをしてしまったのか。こんな事態が起こったというのに、王都から離れたところにいてしまっている!


「探し物屋……本屋、葬儀屋そうぎや、リルルちゃん……どうか無事でいてくれ! 今、今すぐなんとかするから!」


 船尾の外輪が逆方向に回転を始める。もう、あと数百メルトで桟橋さんばしに着こうとしていた船が後進をかけ、衝撃しょうげきに船が大きく揺れた。左手で手すりを強くつかんでその揺れを耐えたコナスは、ようやく右目を押さえていた手を離した。


 その目からは青い光が、冬に発するくもった吐息といきのようにれ――そして、薄いきりのように消えた。



   ◇   ◇   ◇



 それは巨大な無の空間だった。

 闇が支配する――陽の光など一滴いってきも差してこない、閉ざされた球体内部の空間。


 広い、ということはわかるが、その闇がどこまで続いているのかはわからない。闇とそうでない空間の境目さかいめがない。

 ひょっとしたら、ここは永久に広がる闇の中ではないのか、そうささやかれれば、大部分の人間どもは信じてしまうだろう。


 王城直下の階段、鉄の扉で厳重げんじゅう封鎖ふうさされていた先の空間。

 ここに侵入できる入口は、はるか頭上――それも闇の中にまぎれてしまっている。全てのものの存在があやふやになってしまう、人の感覚を完全にくるわせてしまう空間だった。


 地面もまた存在しない。あるのは、人の足が立てる基準きじゅんだけだった。何もないが、そこに足をつけて立つのは許される――物体は存在しないが、法則はある。

 ここは、人間われわれが知っている既存きぞんの法則などは通用しない空間なのだ。


 その『立つことを許された基準』、地面と呼びたければそう呼ぶこともできないでもない面に、二人の人影があった。

 一人は、白髪はくはつの少年であるヴォルテール男爵。

 もう一人は、深いあおに染まりきった肌を持つ、闇の森妖精ダークエルフ眷属けんぞくの女性。


 地下下水道探索たんさくの一行を斬殺ざんさつし、王城の真下の階段を降りてきた二人だった。

 そう。

 ここは、王城の真下――いや、王都エルカリナが基盤きばんとする大地、接する海、その更に下にある空間だった。


「――たったの、こんな直径ちょっけいなのか」

「いったでしょう。一つは偽物フェイクなのよ。完全にはならないわ――すぐには」


 二人の顔が薄い紫色の光に下から照らされる。その光のみなもと――この空間で唯一ゆいいつ光を放つもの。

 複雑な幾何学きかがく模様とも、理解不能な文字ともつかない文様もんようでびっしりとめられた輪があった。その輪が何重にも平面に重なっている。まるで年輪ねんりんのように。


 輪の真ん中だけが真空のように、台風の目のようになにもない。その直径は七、ないし八メルトほどだ。

 その闇の空白を囲むようにいくつもの輪が重なり、それぞれが好き勝手な速度と方向に回転していた。全体の直径は……二十メルトほどはあるのだろうか?


 魔法陣まほうじん、といってしまえば想像がつくのかも知れない。図形と文様で構成された何重もの輪が、まるで機械の複雑な機関部のように回転に回転を重ねていた。

 赤い炎の色の光を吐き出しきったそれは、その中心から数分は王都全体を揺るがしていた咆哮ほうこうき出し続けていたが――今は、沈黙ちんもくしている。


「この骨はなんだ?」

「さあ? ドラゴンみたいだけど」


 魔法陣に寄りうように、一体の巨大な骨の連なりがあった。頭らしきものかららしきものまで、長さは二十メルトほどある。完全に白骨化していたが、巨大なトカゲの様な形状――頭部に生えている角と巨大で鋭い歯のために、確かに竜のものと推定すいていはできた。


「きっと向こう・・・にたどりつく前に力尽きたのよ」

「先の大戦の残骸ざんがいというわけか」

「まあ、放っておいても邪魔じゃまにはならないでしょう」

「邪魔といえば……何かにつけてちょっかいを出してくる快傑令嬢とやらだ」

「あんなのは雑魚ザコよ。大したことはないわ……大したことがあるのは、あの娘について回っている西の森の王女ね。手駒てごまが欲しいわ」

「チンピラを百匹やとったところで役には立たない。確かな戦力が欲しいな」

「この子はどう?」


 女のてのひらが上を向く。その上に浮かび上がるように、一人の人間の像が投影とうえいされた。

 薄くぼやけた人影――少年とおぼしき上半身だけがわずかに揺らめいている。


「……快傑令嬢を追い払ったとかいう、小僧か」

「腕は確からしいわよ。こういう子は後々あとあと、役に立つわ」

「引き抜きはお前に任せる。……さて」


 魔法陣から少し離れた所に、一つの白い台があった。純白の大理石を切り出したような正方形の台の高さは腰の高さまである。その表面には二つのくぼみがあり、そのくぼみには今、それぞれに小さな球――親指ほどの小さな球が乗せられていた。


 一つは赤い球、もう一つは……ドロドロとした闇が渦巻いているようなにごった黒の球だ。歩み寄った少年がそれを手に取っても、その濁った闇は少年の手の中で流動していた。


「さすがに本物にはかなわないようね。だませただけでもおんの字というところかしら」

「合鍵にしては十分だ。取りあえず鍵は半分開いた・・・・・・・。あとは扉をどうやってこじ開けるかだけだ」


 少年が魔法陣に相対あいたいする。


「この二つを、中心に投げ込めばいいのだな?」

「そう教えられてきたのでしょう? やってみなさいな」

「そうだな……やるしかないのだな…………」


 ほんの数瞬の、迷い。

 それを振り切るように断ち切って、少年は右手にした二つの球を、内周と外周とをこすり合わせるように回転し続ける魔法陣の中心に向かって投げ込んでいた。


 魔法陣の中心で、ぴちゃん、と音が聞こえたかと錯覚するような波紋が広がる。

 池に小石を投げ込んだかのような、小さな波紋。

 それが広がり、波打ち、止み――全てがしずまったかと思った瞬間に、それは来た。


 静かに回転の連なりを走らせていた魔法陣の動きが、一瞬、きしんでにぶる。

 鈍ったか――そう目に受けた二人の前で、それはすぐさま以前に増しての猛烈もうれつな回転を刻み始めた。

 ものすごい回転だった。今までは目で読めていた文様が、あまりの速さに読めなくなっていく。


 闇に白地で刻まれていた図形も、今やすさまじい速度の回転によって白一色に染まっていく。中心の闇の空白を残して、その周囲が白の濁りで満たされていく感じがあった。

 ――そして、突然に全ての回転が停止した――と同時に、それは来た。


 グワアァッ!


 直径約七メルトほどの魔法陣の内径の全部を突き破るようにして、巨大な岩の腕が飛び出して来た。

 巨大――巨大だろう、それは。

 一呼吸で飛び出した上腕の長さは――それは、八階建ての高層アパートの屋根にもとどくほどにもあるのだから!


 岩、というよりは石材の腕というべきか? それとも、城の腕・・・というべきものだろうか?

 一気に伸びてきた腕は、次には飛び出して来た速度のまま魔法陣の中に沈み込み、完全に消え去る前に一度、地の基準面にしがみつくように掌を広げた。


 石碑せきひが連結されたような手によって巨大なはずの竜の白骨がひとつかみ・・・・・にされ、そのまま魔法陣の中心に引きずり込まれ、破片はへんだけを残して全体が消えた。

 停止していた魔法陣が再びゆるやかな回転を始め――その一部始終いちぶしじゅうを見ていた白髪の少年の肩が、上下に震え出した。


「はは……ははは……ははは、はははは……はははははははは…………!!」


 闇の中に笑い声が吸い込まれて行く。反響することはない。それでも、その笑い声は響き続けた。


「ついに! ついに封印ふういんかれたぞ! 三十年……三十年だ! 私がこの日をどんな想いで待ちわびてきたことか!」


 冷静さの仮面をかなぐり捨てた顔が残酷な愉悦ゆえついろどられる。血走った目が心の底からの暗いよろこびにいていた。


「二百年の長きに渡り、いつわりの王をいただき続けてきた者どもよ、後悔するがいい! そのおろかさを血と涙でつぐなうことになるだろう!」


 そんなくるったような哄笑こうしょうを、闇の森妖精は隣で腕を組んで聞いている――その口元に侮蔑ぶべつするような薄笑うすわらいを浮かべて。


「今――真実の、正統な王が帰還する時が来たのだ! そのあかつきには、愚か者どもしかいない地上を私が正しい道にみちびいて見せる! この絶対の力によって!」

「ええ。是非ぜひともがんばってね。期待しているわ」


 ダークエルフの女には、そんな『絶対の力』などに興味はない。

 興味があるのは、ただ一つだけ。

 ――それは。


「この魔法陣が、本来の大きさに開ききることをね――」

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